第87回例会報告
日時:2006年7月29日(土)14:00〜17:00
会場:愛知芸術文化センター アートスペースE、F室
【研究発表】
司会:高橋隆二(金城学院大学)、馬場雄司(三重県立看護大学)
大倉尚士(甲陽音楽学院):現代ジャズにおけるImprovised Lineに関する一考察
風間順子(中京女子大学):西スマトラミナンカバウ民族のデンダン
藤原みどり、野村直樹(名古屋市立大学院):キューバ的時間の遊び方:時間の「区切り」、リズムの「区切り」
【研究発表】
ジャズにおけるOutside Improvised Lineに関する一考察 〜Bebop期、モードジャズ期、現代ジャズ期を中心に〜
1940年代に誕生したBebop以来、ジャズ演奏家達はより新しい音楽的世界観を築くため、自身の即興演奏においてBebop的なアプローチからの脱却に向け様々な音楽的アイデアを試みてきた。Bebop期の終焉とともに台頭し始めたモードジャズから、さらにそれを発展させてきた現代ジャズ、これらのImprovised LineはBebop期におけるImprovised Lineと比較してみると、その趣は大きく異なる。 その中でも最も大きく異なる点は、Bebop期における即興演奏の多くが調性内での演奏に終始するのに対して、モードジャズ期以降から現代ジャズ期における即興演奏に関しては、即興演奏中、一時的に調性外でのImprovised Lineを演奏される場面が多くみられることである。また、それは単に調性外の音がImprovised Lineのなかに羅列されただけのものではなく、そのなかに一定の規則性を見出す事ができるものであり、これによりBebopスタイルではなしえなかった、より豊かな色彩をImprovised Lineの中に持ち込むことに成功している。
しかし、数多くのBebop期の演奏家達によって成されたImprovised Lineの中には少ない例ではあるが、モードジャズ期や現代ジャズ期に多く見られるOutside Iprovisationの萌芽をその中に見る事ができるものもある。これはモードジャズ期以降、現代ジャズ期におけるOutside Improvisationのシステムを探る大きな手がかりとなるものであり、実際に多くのジャズ演奏家達がOutside Improvisationの拠り所にしているものと考えられる。
以上の理由から、Bebop期におけるCharlie ParkerとLennie TristanoのImprovised Line、特にOutside Improvisationへの萌芽が見られる部分に関する分析を行った。また、それらの手法が、モードジャズ期におけるHerbie HancockとMcCoy TynerのOutside Improvisationにおいて、どのように取り入れられていったのか検証し、続く現代ジャズ期においては、Bebop期、モードジャズ期で見られたOutside Improvisationの手法とともに、Tonal Centerの概念とSynthetic Scaleが導入された例をChick CoreaとGary ThomasのImprovised Lineを基に分析をおこなった。
各時代を追ってOutside Improvisationの分析をおこなったわけであるが、これらは数多くのジャズ演奏家達によって成された手法のうちのほんの一端にすぎない。特に、モードジャズ期以降、現代ジャズ期にわたっては、Outside Improvisationの手法が非常に多岐に渡っているため、そのすべてにおいて本考察で述べるのは不可能である。また、ここでおこなったOutside Improvised Lineに関する分析は筆者の所見に依るものであり、他者の視点による分析も充分、可能であると思われる。
本考察でおこなったImprovised Lineの分析にもみられるように、優れたジャズ演奏家達は即興演奏に関しておのおののシステムを持っていることがわかった。また、彼らは自身のシステムによってOutside Improvisationを繰り広げていることも確認できたわけであるが、確認できたわけであるが、その手法に関しては簡単に公に開陳されることはない。なぜなら彼らによって繰り広げられる即興演奏は、彼らの個性であり、また彼ら自身を表す最大のツールだからである。また、その手法を公開することにより、彼は彼の流派を形成する事になるかもしれないが、逆に言えば、自ら、自身の個性を希薄化させることにも繋がりかねない。従って、彼らが進んで自身のOutside Improvisationに関するシステムを公開することには消極的であり、その多くが秘密のベールに包まれたままであるのが現状である。
しかし、ジャズ学習者の視点からすると、この現象はあまり好ましいものとは思われない。ジャズの即興演奏のシステムに関してはバークリー理論にみられるように、その和声的システムを体系化したものもあるが、それはBebop期からモードジャズ期前期までのシステムにとどめられており、それ以降の時代におけるジャズの即興演奏のシステムに関しては、バークリー音楽大学においては”Advanced Harmonic Comcepts”、あるいは”Harmonic Consideration in Improvisation”といった科目で講義されている状況である。その科目名からも明らかなように、それらは“Concept”や“Consideration”として論じられるもののひとつであり、ジャズ和声理論としての体系化には未だ至っていない。
その原因のひとつとして考えられるのが、上述したように、モードジャズ期以降から現代ジャズ期におけるOutside Improvisationの手法が非常に多岐に渡っているため、その体系化を困難にしているものと思われる。しかし、バークリー理論においてBebop期からモードジャズ期前期までのジャズ和声理論が体系化されてから既に半世紀を経ようとしている今日において、ジャズ学習者にとってはモードジャズ期中期以降から現代ジャズ期までのOutside Improvisationのシステムを含む和声理論の早急の体系化が望まれるところである。
西スマトラミナンカバウ民族のデンダン
ミナンカバウ民族とは、インドネシア西スマトラ州を故地とする民族である。西スマトラ州は2、3千メートル級の山々が連なる山岳地に沿って広がっているため、この地にはかつて強大な力を持って支配する権力がみられず、小規模の村落社会が形成されていた。よって、同じインドネシアでもジャワ島やバリ島に見られるガムラン音楽のような大規模な合奏音楽は発達しなかった。また、16世紀頃にはイスラム教が伝来し、現在も住民のほぼ百パーセントがイスラム教を信仰している。よって、音楽文化においても西アジア的要素を無視することができない。生態系から見れば熱帯雨林の広がる自然の勢力の強い土地であり、人々の生業は農業や漁業を主体としているとはいえ、かつては豊かな収穫が期待できない山岳地帯であり、男たちが外地へと出稼ぎに出てゆく習慣があることでも知られている。こういった社会環境の中、今回取り上げるデンダンは、農作業の合間や出稼ぎ先で楽しまれ伝承 されてきたものであり、また祝祭の場において、プロの演奏家を招いて夜通し楽しまれるものである。
デンダン dendangとは、そもそも「歌」と言う意味を持つマレー語である。マレー半島からスマトラ、ジャワといったマレー世界では広く用いられる言葉であるが、ここでは竹笛サルアン saluangを伴奏とし、ミナンカバウの中心地ダレ darek地方において韻律詩パントゥン pantunを歌詞として歌われるデンダンダレを取り上げる。デンダンダレのレパートリーは300曲以上もあると言われるが、4行詩を主体とするパントゥンを歌詞としていることもあり、曲を想定する旋律は比較的短くシンプルで覚えやすい。この旋律にのせて歌手はパントゥンをなかば即興的に作り、替え歌風に歌い継いでゆく。これを聞く者達は、歌手の声の美しさを楽しむというよりメロディにのせて「語られる」パントゥンを聞いて楽しんでいると言って良い。
伴奏楽器となるサルアンは竹製である。発音原理は尺八と同じであるが、吹き口は竹の切口にヤスリがけしただけの構造で、しかも循環呼吸法を用いて演奏される。指孔は4つのみで、基音はBフラット?C音が標準的であり、演奏の度ごとに歌手の声域にあわせて選択される。
このサルアンによって奏でられる音律についての詳細な研究を筆者は知らない。唯一筆者が入手することのできたのは、ミナンカバウの音楽研究者カディルによる報告で(Kadir,M.:“Musik Tiup Traditional Minangkabau”)、ここで彼はサルアンの音律を次のように記している。:サルアンによって発せられる音に低い音からnu,no,ni,ne,naという音名をあて、各音間の音程差を計測するとnu-no間は160セント、no-ni間は140セント、ni-neは140セント、ne-naは16セントとなる。
これらの音程は西洋12平均率には存在しない音程であり、また近隣のジャワ、バリ民族が伝承してきた5音音階とも異なる。ミナンカバウの文化が16世紀以来イスラムの影響を色濃く受けて来たことを考えるならば、西アジアの音楽からの影響を音律の面でも見過ごすことはできない。西アジアでは微分音の使用が盛んであり、4分の3音(150セント)や中立3度(355セント)などが使われてきた。このような音楽を輸入していたと考えるならば、サルアンの160セント、140セントという音律がその影響下に出来上がったと考える事もできる。しかし、nu-neの音程(440セント)は西アジアには使用が見られず、この音律がどこに由来するおのなのか、あるいはミナンカバウの固有な音律であるのか、疑問が残る。
このほかにも問題点は多い。まずカディルの報告には、先述のサルアンの音律がどのような調査の手法で導きだされたものであるのか明確に記述されていない。つまり、サンプル数、収集方法、情報源など一切明らかにされていないのである。また、カディルは同じ報告書の中で、音程間隔の許容範囲がかなり広いことも指摘している。たとえば、nu-noの音程の許容範囲は、160セントから207セントにも及んでいる。よって、仮にサルアンの音律の平均値が下から順に160?140?140?160セントであると考えたとしても、実際に演奏される際にどのような高音が用いられるのか、さらに厳密な調査が必要であろう。
筆者は1996年から1999年の間数回にわたりミナンカバウを訪問しフィールドワークを行った。1999年に収集したデンダンの実況録音テープを資料として音律が混在していることがわかった。まず、カディルの報告にあるようなサルアン固有の音律に忠実であると思われる曲目。次に西洋の長音階を志向していると思われる曲目。またアジア地域に幅広く見られ、世界的にも多くの民族の保有する5音音階のうち日本の「民謡音階」に似た音律で歌われる曲目。そして、1曲中に複数の音律が混在している曲目である。
このように、現代のデンダンダレの演奏の現場では、サルアンは非常に十何に音程を変え、幅広いジャンルの曲目に対応している。よって、こういった需要に応えた結果としてサルアンの音律が定まって来たと考えることもあながち間違いではないだろう。しかし、このような多様な曲目に対応するようになったのはいつ頃からであるのか不明であり、今後、古い時代の録音資料や聞き取り調査などを通した研究が必要と思われる。
キューバ的時間の遊び方:時間の「区切り」、リズムの「区切り」
「時の間」と書いて「時間」、また「時を刻む」と書いて「時刻」という。時間とは、時の「間」を「刻む」こと、つまり、「間」と「区切り」があるから体験することができる。つまり、時間は「区切られる」から存在するとも云える。
私たちは、普段の生活を「直線的時間」の枠組みの中でとらえている。科学の分野でも、「直線的時間」が時間を測る客観的尺度として使われている。しかし、私たち個人が経験する時間は、必ずしもそうではない。私たちは、時間が止まってしまったり、時間が速くなったり遅くなったりするように感じる事がある。時間に取り残された事さえある。
「直線的時間」の概念は、近代科学の発展とともに、西洋社会によって構成された。時間は、物体の運動を記述するため、絶対的「計量」の基準として固定された。しかし、相対性理論では、時間は見る人の視点によって異なる。宇宙には絶対的時間を刻む時計はなく、宇宙のある地点の時間は他の地点の時間と比較して、早かったり遅かったりする。
もちろん、世界中のどの社会でも、「直線的時間」が使われてきたわけではない。文化人類学の民族誌では、ヌアー族の「牛時計(Evans Pritchard)」や、「バリの暦(Geertz)」など、様々な「文化的時間」が報告されている。このことから、時間とは、「計量」的な意味ばかりでなく、いろいろな意味が付与された「区切り方」のひとつであり、社会的に構成された文化の産物である事が分かる。
ベイトソンによると、人間は、経験や行為の流れに何らかの「区切り」を入れ、結果的にこの流れを、ある特定のシークエンスとして見る習慣を「学習」によって身につけるという。(Bateson)また、「ナラティヴ」(物語)の視点によれば、現実は人々の間で「言語」によって構成され、「物語」によって組織化される。ものごとには客観的な事実が存在するという立場に疑問をいだき、科学もひとつの「物語」だと考えるのである。
これらの視点によると、私たちが自明のものだと考えている「直線的時間」も、学習の結果得られた、経験や行為の「区切り方」や「まとめ方」、「物語」として捉えなおすことができる。
さらに、時間を「実体」から切り離し、事象の流れを任意に「区切る」もの、つまり、「記述」であると考えれば、問題は「区切り」のあり方へと移る。そして、時間が「記述」である以上、物語を「書き換える」ように、時間を「書き換える」可能性が生まれる。
「ナラティヴ」の視点を生かした「ナラティヴセラピー」では、「言語」による「書き換え」や「語り直し」が治療的アプローチの第一歩であり、クライエントにとってうまく機能しな物語をより機能的に「書き換える」。(Gergon&Kaye)つまり、物語を「書き換える」行為に治療性がある。そして、時間が物語であるならば、時間を「書き換える」行為にも治療性があるのではないか。
その、時間を「区切り」、「書き換える」ための方策のひとつが、リズムであった。リズムとは時間の「区切り方」であり、時間の「記述」の仕方のひとつである。時間と同じく、リズムは「区切られる」ことで体験が可能になり、ダンスや演奏が可能になる。キューバ音楽は昔から、「アバネーラ」や「ダンソン」、「ソン」に「ルンバ」、「マンボ」に「チャチャチャ」等、豊かなリズムと様々に異なるダンスのステップを生み出してきた。
そのキューバ音楽の基本的なリズムが、クラーベである。クラーベは、キューバの主要な時間のひとつである。クラーベは、2小節からなる5つ打ちのリズムのパターンで、不等間隔のリズムを刻む。キューバのリズムは、クラーベを中心に、いくつものシンコペートされたリズムが絡みあった、複雑なポリリズム構成になっている。つまり、キューバ音楽にはいろんな時間の「区切り方」があり、いろんな時間が流れている。
キューバ音楽では、お互いから少しずつ「区切り」を「ずらす」ことで、不安定だが躍動感のあるリズムを作り上げる。そして、「ずらした」リズムを何層にも重ねあわせ、時間を重層化することで、より複雑なポリリズムを構築する。さらに、コントラティエンポによって、踊り手がクラーベに「逆らい」、クラーベの「間」にステップを入れることで、時間を「区切り直す」。つまり、演奏者だけではなく踊り手も、時間の「区切り」を「ずらす」ことで、複雑なポリリズム構造に参加することができる。
時間はリズムであり、リズムは「記述」である。そして、リズムが時間の「記述」である以上、様々な時間を記述して「遊ぶ」ことも可能だ。「記述」の対象としての時間(テンポ)は、演奏者や踊り手が参加し、それぞれの時間を「区切る」ことによって、さらに重厚になったり、歪んだり、変形したりして聞こえる。ゆえに、時間を自由に描くことが可能になる。
このように、キューバ音楽では、演奏者や踊り手が、いろんな「区切り」を用いることによって、「時間を書き換え」たり、「時間を遊んだり」している。そして、私たちは、この「時間を書き換える」行為に、治療性があると考える。この知見を今後、音楽療法等の分野に応用する可能性を検討しているところである。