第70回例会報告


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日時:2001年12月22日(土)  13:30〜17:00
会場:愛知芸術文化センター アートスペースE・F

【特別講演】

■ガムランで何ができるか?

中川真(大阪市立大学大学院教授、関西支部)

■文明としての音楽研究

藤井知昭(中部高等学術研究所副所長・教授)



【特別講演から】

   ガムランで何ができるか?

中川真

 私が初めてインドネシアに行き、ガムランに接したのが1977年であった。その2年後にジャワガムランのグループ『ダルマブダヤ』を、大阪大学文学部の音楽学講座の研究グループとして立ち上げた。1970年代は、文化相対主義がクローズアップされた時代であった。日本でも民族音楽が紹介され(小泉文夫『おたまじゃくし無用論』、藤井知昭『「音楽」以前』など)、多元的な文化理解が始まった。また、現代音楽の分野でも邦楽への接近(武満徹、廣瀬量平の諸作品など)が顕著に起こり、武満は映画『心中天網島』の音楽でバリやタイの音楽を使った。それ以前に、ビートルズやラ・モンテ・ヤング、スティーヴ・ライヒらがインド音楽やアフリカ音楽に接近し、ミニマル音楽も生まれていた。要するに、西洋音楽あるいは西洋の学問をベースとする音楽学のもつ価値体系にひびが入り、より柔軟な眼差しが要請された時代であった。そんな流れのなかで、ダルマブダヤを創設した私は「異文化の理解」を旗印に、ガムランを何とか自分の文化に編入させようと試みた。アタマでっかちの部分もあり、また関西にガムランの先生もいなかったこともあって、まずは新作を創るという方向へ走っていった。日本人によるガムランの作品は「日本のガムラン」と言ってもよいのではないか、と。柴田南雄、松平頼暁、松永通温、七ツ矢博資、中村滋延、稲垣貴士らがダルマブダヤのために新作を書き、同時に、ジョン・ケージ、ルー・ハリソン、マイケル・ナイマン、フィリップ・コナー、ポーリン・オリヴェロス、シンタ・ウルル、ウィル・エイスマ、ホセ・マセダらの作品の日本初演を重ねていった(VTRで紹介)。
 80年代から90年代にはカナダ、インドネシアへのツアーも行い、それなりの成果を出したが、1997年にジャワに私が長期滞在をしたとき、それまでの活動に対して再検討を促す事態に直面した。私の滞在を記念して、ジョグジャカルタにあるインドネシア国立芸術大学がガムラン・コンサートを開催したのであるが、そのプログラムを私は「1.日本人の作品、2.即興パフォーマンス、3.ジャワ人との合同作曲」というふうに組み立てた。日本人の作品は松永、七ツ矢のもので、私はそれまでにすでに日本で何度も演奏していて、ジャワ人へのインストラクションにも自信があった。何しろ、数字譜で書かれ、ある程度ジャワ的な形式、つまり同一旋律の反復という手法を使っていたので、ジャワ人にとって演奏は容易だろうという思い込みがあった。その上で、彼らがどんな解釈を示すのかという期待もあった。しかし、プログラム1は見事な失敗に終わった。彼らには、ほとんど演奏不能だったのである。見かけは反復構造をとっていても、旋律は極めて奇異で、記憶することができない。彼らに楽譜を見て演奏する習慣はない。憶えねばならない。しかし憶えられない、つまり体に入らなかったのである。私は音楽の理解ということを、もういちど考えねばならなかった。私はガムランの新しい作品を生みだし、ツアーでインドネシアの人々に聴いてもらったが、実はほとんど理解不能だったのである。彼らが評して「面白い試みだ」といってくれたのはうわべのお世辞、リップサービスであって、本当は何も伝わっていなかったのである。これはショックであった。
 私は自分の方針を大きく転換し、とにかくジャワの音楽をいまいちど深く理解し、その能力を高め、そこからまたコミュニケーションのツールを見出そうと心に決めたのである。
 インドネシアからの帰国後、私はゼロから始める意味合いでダルマブダヤを辞し、新たにマルガサリを創設した。伝統音楽に真摯な取り組み、その音楽を理解した上で新しい音楽を生み出そうと心掛けた。その核となる方法は、作曲家に委嘱して書いてもらった楽譜を音にするという従前の方法ではなく、演奏者の意見を最大限に採り入れながら、共同的に作曲するというものである。ジャワでは、ガムランは演劇や舞踊、影絵と協演するのが常態であり、そこではコラボレーションの思想がゆきわたっている。そういうコラボラティヴな手法を音楽づくりに採り入れながら、野村誠たちとの創作を始めようとしたのである。例えば、楽譜を使わないという方法は、彼ら作曲家を大いに戸惑わせるが、その制約を逆手にとって新たな創造的な芽を見出そうとしたのである(VTR)。
 以上のようなプロセスを経ながら、日本のガムランの可能性を追求しているのであるが、本発表では、創作面だけではなく、教育・医療面への利用可能性についても、多少論じた。総合的学習がスタートする小・中での音楽や社会教育について、また、病棟(大阪市大病院小児科など)での音楽活動についてなどである。



   文明としての音楽研究

藤井知昭

 文化人類学の領域では、文化とは人間が誕生以後習得してゆく生活様式、行動様式あるいは価値体系として位置づけ、人の営み、生きざまなどを意味することが一般的といえよう。文化をソフト系に例えるなら、文明をハード系すなわち装置系やシステム系として位置づけることが少なくない。
 かつて、小松左京が『日本沈没』を発表し映画やテレビ化されるなど多くの話題を集めた。地殻の変動によって日本列島が海中に没し、日本人は世界の各地に脱出する筋にロマンスなどをからませている。日本人の暮らした日本の自然や社会、制度や交通などのシステムが失われ、文化をもった日本人が異なる文明や文化の中で暮らすSFである。日本列島とともに没したものが文明であり、人間の営みは、それと深くかかわったが、異なる文明にも生きられる文化があるという主旨であり、文明と文化を語る上で比較的理解し易い例といえよう。
 音楽は当然文化であり、文化研究の一領域とするところに音楽学が成立していた。
 これに対して、A.メリアムは『音楽の人類学』(藤井知昭他訳、音楽之友社)において、民族音楽研究の際、フィールドから持ち帰った録音資料などを分析するのは、実験室でサンプル分析するのと同じだと批判し、本来その音楽が存在している自然や社会とのコンテクストの中で研究すべきであることを主張した。だが、メリアムの視点には文明の認識は薄く、むしろさらに古く、ウェーバーは『音楽社会学』の中で、音楽と文明のかかわりの視点を提起している。ヨーロッパ音楽が世界に拡がったのは、音律や五線譜がシステムとして整備されているとともに、産業革命以来の大量生産によるピアノをはじめとする楽器、蓄音機やレコードの輸出にともなって音楽が輸出されたという観点がみられる。
 ヨーロッパ音楽がすぐれた芸術だから世界に拡がるというかつての美学的思考に対する見解といえよう。ヨーロッパ音楽を、ヨーロッパ近代文明を背景として、唯一最高の規範とし指標とする価値観にすがる神話は、21世紀になって日本国家の反省としても移行しつつある。
 この小論では、それらの経緯を踏まえつつやや異なった見解を述べたい。
 例えば、ロックを事例にあげるなら、同時多発ともいえるほど世界各地に拡がり、享受されてきたのは、情報産業のコングロマリットの存在を除いては考えられないのと同様に、ITの進展する現代文化の実態は、文明研究との対応が不可避になりつつある。
 サウンド・スケープもまた文明研究の領域と深く関わっている。劇場構造さらには照明・音楽・舞台美術などの発展とオペラの相関性も同様であり、オペラの総合的な研究は、従来の音楽研究をこえた拡がりを見せている。
 さて、ここでは、音の認知の体系を一例としてあげると、かつて、人間は一律に同じ聴覚機能として規定していたが、諸環境あるいは人体構造との関連性との中で、大脳機能さらにはDNAをはじめとする科学の進歩の中での境界をこえた音文化研究、すなわち、音や音楽文化が文明研究の枠組みとして進展してきた。
 音楽生態学、音楽行動学、音楽人類学、音楽考古学、音楽遺伝学さらには音楽療法などなど、いずれも生態研究や行動科学などの領域との共同作業や共同研究として進歩しつつある状況と課題を論じたものである。



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