第74回例会報告


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日時:2002年12月14日(土)13:30〜16:30
会場:愛知芸術文化センター12階 アートスペースE,F

【シンポジウム】

シンポジウム─洋楽を考える
パネリスト:
笠原潔(放送大学、関東支部)
金子敦子(名古屋芸術大学、中部支部)

 

【シンポジウム:洋楽を考える】

洋楽流入史研究の現状と方法論

笠原 潔(放送大学、関東支部)

近年、日本への洋楽流入の歴史に関わる研究が、盛んになってきている。

その理由は様々に推察されるが、こうした研究を進める場合、以下の3点に留意することが重要と思われる。

1.日本の各地には、こうした洋楽流入の歴史に関わる史料が、まだまだたくさん眠っている。
2.そうした史料を駆使して、世界に向かって日本から発信していくことが可能である。
3.その場合、同時代のグローバルな西洋音楽史的観点から問題を捉えることが肝要である。もしくは、日本側の史料から同時代の西洋音楽史を見直すグローバルな視点を持つことが重要である。

 ところで、日本への西洋音楽の流入は、大きく分けて、三波に分かれてやってきたと見ることができる。

最初に到達したのは、戦国末期から江戸時代初期にかけてのいわゆる「キリシタン時代」にやってきた波であった。この時代に到来したのは、西洋音楽史の上で言えば、ルネサンス時代後期後半からバロック時代初期にかけてのポルトガル・スペイン地域を中心とした南ヨーロッパのカトリック圏の音楽であった。

続いてやってきたのは、江戸時代の日本に到来した波である。この時代に到来したのは、バロック時代から古典派時代・初期ロマン派時代にかけての音楽であった。そのうち、長崎・出島に到来したのは、オランダを中心とする北ヨーロッパのプロテスタント圏の音楽であった。

他方、この時代、日本に生還した漂流民たちを通じて、他地域の西洋音楽情報も伝えられた。18世紀末のロシアの音楽情報を日本に持ち帰った大黒屋光太夫一行、同じく19世紀初頭のロシアの音楽情報を持ち帰った仙台・若宮丸乗組員たちなどがその代表である。19世紀に入ると、天保年間(1840年代)のハワイの音楽情報を持ち帰った越中・富山の長者丸乗組員や同時代のメキシコの音楽情報を持ち帰った摂津・栄寿丸乗組員のように、太平洋方面から西洋音楽情報を持ち帰った漂流民も登場するようになった。彼らが持ち帰った西洋音楽情報は、日本にどのような西洋音楽情報がもたらされたかという観点からばかりでなく、それぞれの時代にそれぞれの地域でどのような西洋音楽が行われていたかという西洋音楽史的観点からも注目される。

日本に流入してきた西洋音楽の第3波は、幕末以降に訪れた波である。1853年と1854年に日本を訪れたアメリカのペリー艦隊やロシアのプチャーチン使節団の来日に始まるこの時代に日本にもたらされたのは、西洋の中期ロマン派時代以降の音楽であった。周知のように、明治時代に入ると、日本は、音楽取調掛を設置するなど、西洋音楽を積極的に導入する方向に姿勢転換した。この時代に入ってきた洋楽が、今日の日本の洋楽文化の基礎となった。

こうした洋楽流入史研究を進める上で指摘しておきたいことがいくつかある。

一つは、こうした研究においては、図像史料が文字史料と同程度に重要な情報を伝えている点である。例えば、元禄12(1699)年に渡辺秀石が原画を描いた『長崎漢洋居留図』や寛政9(1797)年に石崎融思が描いた『蛮館図』中の「蛮酋飲宴図」は、長崎出島での洋楽演奏を恒常的に担っていたのがバタヴィアから連れて来られたアジア系の召使いであったことを示している。これらの絵は、江戸時代の間、西洋音楽は、長崎出島には、西から直接ではなく、バタヴィアを経由して南からやって来たこと、また、長崎・出島での洋楽挙行の問題は同時代のアジア全域にまたがる洋楽挙行や西洋音楽教育の問題と重なるグローバルな現象であったことを端的に示してくれる。中には、文化14(1817)年に来日したブロムホフ夫人が長崎・出島にスクェア・ピアノを持ち込んだ事実のように、図像史料を通じてしか伝えられていない史実もある。

ただし、こうした図像史料を扱う場合、冷静な資料批判が重要である。例えば、文久元(1861)年に歌川貞秀が描いた横浜浮世絵「横浜鈍宅之図」は、1853(嘉永6)年9月のロシアのプチャーチン使節団の長崎上陸行進の模様を描いた川原慶賀の下絵による長崎版画「魯西整儀写真鑑」に基づくものである。従って、貞秀の浮世絵を根拠に、開港直後の横浜で「横浜鈍宅之図」に描かれた通りの奏楽活動が行われていたと想像するのは誤りである。

もう一つ指摘しておきたいのは、日本への洋楽流入の模様を伝える貴重な史料が、日本の各地にはまだたくさん眠っているという事実である。大黒屋光太夫らを送還してきたロシアのアダム・ラクスマン一行が日本に持ち込んだ楽器を描いた加藤肩吾の『魯齋亜』(刈谷市中央図書館蔵)や、嘉永6年12月のプチャーチン使節団第2回来航時に日本に持ち込まれた楽器を描いた尾形探香の下絵(福岡県立美術館蔵)などがその代表である。  日本の各地に残るこうした資料を発掘し、世界に向かって紹介していくことは、今後の日本の音楽学界の責務の一つと思われる。

 

名古屋における洋楽の導入―明治〜大正時代にかけて―

金子敦子(名古屋芸術大学、中部支部)

長い鎖国時代の後に誕生した明治政府は、西洋文化の積極的な導入を政策として出発した。音楽の分野においても同様に、明治時代の日本はひたすら洋楽の吸収と受容に努めた。ここではその一例として、一地方都市である名古屋における洋楽導入の事情について考えてみたい。

いずれにしても名古屋では、洋楽の伝統が強かったせいか、組織的な洋楽の導入は遅れて、明治末年頃になってようやく始まっている。以下、名古屋における洋楽の導入を4つの点から見ることにする。

(1)名古屋市歌の制定

明治時代後期になり、洋楽が広く世間に普及し始めると、それに促されて全国的に市歌制定の動きが起こった。市歌はいずれも市の名所や美観、歴史などを歌い込み、明るく希望に満ちた洋楽の旋律になっていて、それによって市民の結束を固めることが出来ると考えられた。その先駆けとなったのは京都市歌で、ついで大阪、東京、横浜で市歌が作られ、名古屋でも明治43年(1910)に全国で5番目に、作詞/上田萬年、作曲/岡野貞一による市歌が制定されたが、流行するまでにはいたらなかった。

(2)洋楽の楽団の結成

名古屋における洋楽普及の歴史を考える時に、忘れてならないのは、2つの楽団の活躍である。ひとつは、明治44年(1911)に(株)という呉服店(現 松坂屋)により組織された少年音楽隊である。この楽団は、東京日本橋の三越の少年音楽隊に次いで、全国で2番目の民間レベルの吹奏楽団であった。彼らの本来の演奏目的は店の宣伝活動であったが、市内鶴舞公園でも洋楽の公開演奏会を開くなど、彼らの活躍は人々の注目を集めた。この吹奏楽団は、大正時代にはいとう管弦楽団へと発展し、活動の場も全国へと広げていった。ちなみにこの楽団は、東京フィルハーモニー交響楽団の前身である。

そしてもうひとつは、第二師団軍楽隊の活躍である。軍楽隊の音楽は本来軍事教練の合図、士気の鼓舞などに用いられるものだが、軍楽隊は市民行事にも参加するなどして、次第に民衆の生活の中にも浸透していった。名古屋の第三師団軍楽隊も、大正4年(1915)に鶴舞公園の奏楽堂で開催した第1回演奏会が大好評を博したため、以降、洋楽を主とした演奏会を継続的に開催して市民に親しまれた。第三師団軍楽隊は、当時の国際状況の下で大正末期に解隊されたが、この楽団が名古屋における洋楽の普及に果たした役割はきわめて大きいものがある。

(3)蓄音機の普及とレコード・コンサート

大正から昭和にかけて、蓄音機やレコードの普及には目覚しいものがあった。その状況を反映して、大正時代末頃より巷ではレコード・コンサートが大きな人気を集めた。名古屋でも新愛知新聞社が趣向をこらした様々なレコード・コンサートを開催し、毎回大盛況であったという。このレコード・コンサートも、市民が洋楽に親しむひとつの重要な場であったと言えるだろう。

(4)楽器製作者

日本における洋弦楽器の制作は、明治33年(1900)に名古屋の東新道町(現 東区東桜)にヴァイオリン工場を創立し、ヴァイオリンの製作をはじめた、名古屋市出身の鈴木政吉に始まるといわれる。当時の山本では、ヴァイオリンの需要はすべて高価な輸入品に頼っていたが、鈴木は安価で質の高い国産ヴァイオリンの製作に努めた。現在名古屋市には多くの弦楽器メーカーが存在するが、「そのルーツは鈴木にあり」と言われている。

一方、大正時代の日本では和洋文化の融合の風潮が高まり、楽器製作の分野でも、和洋折衷楽器製作の試みが盛んに行われた。その代表的な成功例として、名古屋市出身の森田吾郎(本名 川口仁三郎)が大正元年(1912)に考案、発売した大正琴が挙げられる。明治30年代に渡欧した森田は、帰国後、当時日本で流行していた二弦琴に旅先で見た発売間もないタイプライターのメカニズムを組み合わせて、鍵盤つき弦楽器の大正琴を考案したのである。森田の大正琴考案の目的は、多くの人が容易に洋楽演奏に親しめる楽器を作ることにあった。彼のそのねらいは見事に的中し、大正琴は今なお多大な人気を集めている。

日本における洋楽の導入に関して調査すべき項目は、まだまだ多岐にわたると思われる。地域レベルでの調査を進めることにより、さらに多様な事情が明らかになるであろう。

質疑、ディスカッション等

第74回例会では、関東支部より笠原潔先生をお迎えし、当支部の金子敦子先生のコーディネートによってシンポジウムが行われた。テーマは「洋楽を考える」と題され、過去の日本にどのような西洋音楽/西洋音楽情報が入ってきたかを研究する分野としての洋楽流入史研究の観点から様々なお話をいただいた。

質疑の時間には、中部地区に眠っている可能性のある洋楽受容関係の資料についてのコメントをはじめ、西洋以外の海外音楽情報への視点、軍楽隊を中心とする軍と洋楽の関係、形成途上にある洋楽という概念、などに関して質問がなされ、パネリストとフロアとの間に活発な議論が交わされた。(文責 水野)


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