第72回例会報告


[戻る]

日時:2002年6月29日(土)13:30〜17:00
会場:名古屋市立大学芸術工学部

【研究発表】

    小川はるか(大阪大学大学院) 「武満徹の<>(1970)―コラボレーションの親密化―」
    黄木千寿子(大阪大学大学院) 「ペンデレツキ《ウトレニア》――西方と東方の狭間に」

【講演と演奏】

    河合優子(ピアニスト、ポーランド在住)
「思いやりの結晶・ショパンの精神に近づく楽譜―ナショナル・エディションの思想、編集方法 そしてどうこの楽譜を使いこなすか」

 

【研究発表】

ペンデレツキ《ウトレニア》――西方と東方の狭間に

黄木千寿子(大阪大学大学院)

《ウトレニア》(1970)は、《ルカ受難曲》(1965)、《ディエス・イレ》(1967)に続く、ペンデレツキの3番目のオラトリオであり、第1部〈キリストの埋葬〉と、第2部〈キリストの復活〉から成っている。カトリックの伝統に基づいた《ルカ受難曲》に対し、この作品は作曲家の弁によれば「ロシアの典礼であるべき」であり、南ロシアなどの修道院における作曲家自身のリサーチの結果、正教会の聖大金曜日の晩課と聖大土曜日の早課がテキストに選ばれた。なお《ウトレニア》というタイトルは、「朝課(正教会では早課)」を意味している。

ペンデレツキにとって、埋葬と復活のオラトリオのテキストが、何故東方典礼(ロシア正教会)のものでなければならなかったか、ということは、大変に興味深い問題である。何故なら、この曲は彼がクラスターのなかに3和音をとりこんだ最初の作品であり、そのことに東方典礼の祈祷文や聖歌、さらにはその霊性が大きく関与しているのではないか、と考えられるからである。本発表では第1部を中心に、この問題を考察してみる。

《ウトレニア》第1部は、順にトロパリ、讃美詞、イルモス、イルモス、スティヒラとタイトルの付いた5曲から構成されており、前4曲は、聖大土曜日の早課の抜粋、残りの1曲は聖大金曜日の晩課からのものである。まず、早課の祈祷文そのものに着目すると、以下のことが重要であろう。(1)第1曲に用いられているヨゼフのトロパリ「尊キイオシフハ爾ノ浄キ身ヲ木ヨリ下シ、浄キ布ニ裹ミ、香料ニテ覆ヒ、新ナル墓ニ藏メタリ」が、早課全体のテーマとして、ライトモティーフのように各所に挿入されており、これによって一見乖離した種々の祈祷文がひとつに束ねられてい ること。(2)讃美詞でとりわけ顕著なように、並列する各節の間に、互いの連関があるわけでも通時的な首尾一貫性があるわけでもないが、それはキリストの埋葬を求心的centripetalに取り巻いている多面的で超時間的な出来事の体現であると考えられること。(3)すべての典文に共通して、併置と反復が顕著であること。

ペンデレツキの《ウトレニア》のテキスト選択は、こうしたオリジナルテキスト本来の特徴を失ってはいない。更に第5曲で再び前晩(聖金曜日の晩課)のテキストを用いたこと、そしてそれが第1曲同様、ヨゼフの記述であることは、埋葬の記憶への回帰と同時に、構造的循環性を得ることとなり、この出来事が時間を越えた「永遠」という神秘性(死に勝利した永遠の生)に結びついていることを暗示させる。

さて、このように選ばれたテキストに基づく彼の音楽には、とりわけ次のような特徴が見て取れる。

(1)クラスターの音堆の隙間や流れの中における3和音や3度の使用。これは、第1曲の「浄キ布ニ裹ミ」というテキストに集中しており、長3和音の出現がこのテキストと、さらにそこにはたらいている霊性と密接に結びついていることを示唆している。もし、ペンデレツキがカトリックの典礼およびメンタリティに留まっていたなら、「キリストの埋葬」というその出来事自体、取り上げられることがなかったであろうし、埋葬が救いに直結する正教会の神学なくして、クラスタ?内部における長3和音の出現もありえなかったであろう。従来のクラスターは、不安や怖れを原性質として宿し、それだけでは喜びの表現とはなりえなかった。しかし《ウトレニア》においては、「深い悲しみの内部に、同時的に喜びが充溢する」というパラドクシカルな状況を呈する正教の聖大土曜日の典礼が、クラスター内部に長3和音を導く契機となった。その結果、クラスターの表現の幅が広がり、クラスターは光の表象を獲得したのであろう。

(2)聖歌の引用や様式引用としての朗唱、3度上の平行旋律の使用。これは東方典礼の祈りの雰囲気を彷佛とさせる装置として機能する。

(3)構造の多元性。これは第2曲讃美詞において顕著であるが、本来多元的であるテキストが、順序の置換や2つ以上のテキストの同時的使用により、その性質を更に助長させ、一見意味上の混沌状態を呈するものとなる。しかしそれは、作品の意味の抹消に向かってはいない。要所要所の聴取可能な部分によって、その意味はつなぎ止められ、音楽的言表、すなわち言葉の音楽化が、むしろその意味をより深い次元での体験に翻訳するのである。また、2つ以上のテキストの同時進行は、東方典礼そのものにも見られる特徴でもある。意味の聞き取れない音としての言葉は、恰も呪文のように、宗教的othernessの体験として、典礼に神秘性を添えるものとなる。

このように、ペンデレツキの《ウトレニア》は、正教会の典文からの触発と同時に、典文との本来的な構造上の親和性を持っていることが見て取れる。もっともペンデレツキの作品の、こうした要素、例えば、非弁証法的な音楽構造や音形反復、和音の復活といったようなものは、近代批判の、いわばポストモダンの流れに位置しうるものである。しかしそれらの様態は、ペンデレツキにおいては、むしろ彼自身のなかに本来あったスラヴ的なものの湧出として捉えうるのではないだろうか。スラブ圏であるポーランドにおいては、人々のアイデンティティとしてのカトリシズムは堅固であるが、そのカトリシズム自体が、非西欧的な側面を持っており、人々の美意識もまた西と東の狭間にあると推測されるからである。

 

【演奏と講演】

「思いやりの結晶・ショパンの精神に近づく楽譜――ナショナル・エディションの思想、編集方法 そしてどうこの楽譜を使いこなすか」

河合優子(ピアニスト、ポーランド在住)

ポーランド在住の河合優子氏による、ショパンのナショナル・エディション楽譜に関わり講演が行われた。講演は演奏を交えて、版ごとの比較や自筆譜の解釈を具体例の中で論じる形で進行した。2001年12月よりナショナル・エディションによる世界初のショパン全曲演奏リサイタルを展開中の河合氏は、ナショナル・エディションの編集主幹であるヤン・エスキルその人に直接師事し、ともに仕事をしてきた。今例会では、ショパンへの敬愛と同時にエスキル氏への敬意の念をこめて資料批判の一端が紹介され、参加者からも積極的な質問がなされた。


[戻る]