第62回例会報告


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日時:12月18日(土) 14:30 〜 17:00
会場:名古屋市中区栄 愛知芸術文化センター 12F アートスペースE・F

【研究発表】


司会 水野みか子(名古屋市立大学)

○名古屋におけるコンサートホールの運営事情
       〜東京、大阪のコンサートホールとの比較を通して

高橋美奈子(しらかわホール)

○コンサートの歴史に見る楽曲解説の受容
浅野 隆(金城学院大学)
 

【研究発表から】


「コンサートの歴史にみる楽曲解説の受容

金城学院大学 浅野 隆


  かなり以前に出版された本でヴィクトール・ツッカーカンドルの書いた「The sence ofmusic」というのがある。音楽之友社から「音楽の体験−昔楽がわかるとは−」という書名で翻訳がでている。彼には他に主著ともいうべき「Sound and Symbol:Music and the External World 」(音と象徴−音楽と外的世界)というのがある.いずれも共通していることは、音楽の理論や音楽史学の学的蓄積の絵果としての思弁的な学を論じているのではなく、鳴り響く音楽現象そのものを対象にした音楽美学を展開しているのである。
 先のThe Sence of Musicは特に音楽教育の立場から音楽現象を説き明かすことを目的としているが、幾つかの点で音楽を一般化した形で理解することの重要性を説いているように思える。特に私は音楽会場で音楽を聴く人々が、音楽を特別に勉強した専門家や、マニアックな人々ではなく、ごく一般的な音楽愛好家たちを中心とした場合を想定すると、色々な点で、今日なにげなしに書かれている音楽会プログラムの楽曲解説の内容がほとんど一般大衆を納得させるだけの公共性に欠けているといわざるを得ない。私は勿論明日からこういうふうに書くべきだなどという対案をここで披浬しようというのではない。ここは少し時間をかけて歴史的に楽曲解説(いわゆるレクチヤー・コンサートを含めた)を検証してみたいと思う。
  つまり、聴衆がどんな形であれ音楽に感動すればそれでいいではないか、では困るのである。なぜか、それは音楽が高度に発達した精神文化のひとつであり、あらゆる意味に於ける、その構造を理解することが、より深い音楽との触れ合いを可能にするからである。ツッカーカンドルは次のように言う『ここでは、あらゆることを白紙に戻して考えてみたいと思います。今日音楽家や音楽学者が音楽を「理解する」方法が、そして音楽理論や音楽史などの伝統的学科日の通が、音楽を理解する「唯一最高」の方法ではないことを特に力説するつもりです。聴衆の疑問はたいてい舌足らずなものですが−無知の状態で疑問を正しく言い表わすことは難しいのです−それでもそこには傾聴に値する、また、承認せざるを得ない真理の有ることを確信します.これまで、われわれの知識ではこれらの疑問を正しく表明することもできず、ましてやそれにほとんど答えられずにきたとしても、質問者を責めることはないので、もっと良い知識をいっそう多く探しに出かけることが必要です。その成果は、専門家と素人をへだてている表面的な境界線の、そのむこう側にも結局役立つことでしょう。つまるところは、万人が−それは音楽家や音楽学者がともすると忘れがちな一個の真理なのですが−音楽の前ではまず聴衆なのですから』と。
 本日は問題の所在を明らかにするため、E.T.Aホフマンの評論として有名な『ベートーヴェン「交響曲第5番」』(1811)とG.グローヴの「ベートーヴェンと9つの交響曲」より第9交響曲の解説(1896)とD.F.トーヴィーの「楽曲分析集」より第9交響曲の解説(1931)を例に考えてみた。ホフマンがこの評論を著した頃はまだベートーヴェンが存令中であり、言わばドイツ観念論に基礎を置いた論調が根強く感じられる。特に最も本質的で純粋な音楽を器楽曲におくことで、あらゆる可視的世界の概念を超えた世界を表象することを強調する。そうした思想の中で、この曲の楽曲の特徴の一つである短い楽句が形成する緻密な構造がどれほど豊富に超越的世界を表象するか、そしてそれ故にロマン主義的であるとする.この論調の中には明らかに自律的音楽美学とは一線を画する方向性を暗示しており、聴衆の自由な裁量をどこかで遮る規範美学ですらあるのだ。グローヴはあの音楽事典で有名なグローヴであるが、彼はもともと音楽プロデュースをしていた人でもあり、学者というよりは啓蒙家としての資質があり、表現の仕方が極めて易しく、それだけに一方では今日既に学問的に見直されている部分に関しては極めてラフな捕らえ方しかしていない。たとえば第9の第1楽章について『神秘的導入ねこれだけで虜になる。異常で厳格で単純で、しかも主要主題の力をもっている。多くの副主題は主要なテーマから成長し、木の幹から枝葉が成長するように、注目を強くするしつこさがある。ある部分の高貴さ、ある部分の一定した不休の運動、せかせかした感じと優しさのめまぐるしい交替、憂欝と憧れの交替、避けがたい信念が随所にあり…』といった表現がある。思想的には先のホフマンと大きく変わるものではないが、作曲家の内面を想定した表現が興味を惹く。トーヴィーはやはりグローヴ同様、多くの曲の分析を試みているが、どこか主観的な要素が多く、音楽愛好家を対象にした啓蒙書的な性格をもっている。しかし、1930年代といえば、既に調性の崩壊が進んだ時代でもあり、ブルレをはじめ、形式主義美学が台頭するころである。彼は第9の解説の一部でこう言う『もともとソナタの意味を知らない人がいる.彼らはまるで形式が、そこへお好みの音楽をゼリーのように流し込む決まった鋳型のように思っている.ソナタ形式の実際はわれわれが純粋に音楽的用語で言い表わさなければならないだけに複雑である。もし絵を幾何学用語で言い表わそうとすると、複雑極まりないように』。当時の美学を椰愉した表現だろうか。



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