第60回例会報告


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日時:1998年6月20日(土) 14:00〜
会場:愛知県芸術文化センター/アートスペース


【研究発表】

●羅須地人協会における宮澤賢治の音楽活動 〜 新出史料の解釈を中心として
   http://www02.u-page.so-net.ne.jp/pa2/sennishiの「研究室だより・西崎の机〜学会活動」参照

西崎専一(名古屋音楽大学)

●19世紀パリ万博と音楽――公式音楽プログラムの変遷を中心に

井上さつき(愛知県立芸術大学)

【研究発表から】


19世紀パリ万博と音楽――公式音楽プログラムの変遷を中心に

井上さつき(愛知県立芸術大学


 19世紀後半、パリでは1855年を皮切りに、67年、78年、89年、1900年と、ほぼ11年ごとに万国博覧会が国家的な プロジェクトとして開催され、博覧会都市として発展したが、パリ万博の特徴のひとつは、芸術が大きく扱われ、展示のなかで重要なセクションを形作っていたことだった。一般に万博は技術文明の祭典として考察されることが多いが、19世紀のパリ万博は芸術――特に美術・工芸――の博覧会でもあり、その一部として音楽も含まれていた。
 音楽の位置は美術ほど定まったものではなく、55年の最初のパリ万博では、すでに楽器や楽譜の展示、式典の際の奏楽などは行われていたものの、音楽が万博における芸術の独立したセクションと見なされるようになったのは、67年のパリ万博が最初だった。
 パリ万博と音楽との関わりという点では、万博に出展した諸外国のパヴィリオンで聴かれた音楽、楽器や楽譜の展示等、さまざまなレヴェルが考えられるが、今回の発表では、公式音楽プログラムの変遷に焦点を絞った。公式音楽プログラムとは、万博組織委員会によって企画された公的な音楽イヴェントであり、そこには、各回のパリ万博において「展示」されるべきだと考えられていた音楽がどのようなものであったか反映されているからである。
 音楽プログラムはそれぞれの回によって少しずつ異なっていたが、その骨組みとなったのは、作曲コンクール、各種のコンサート、アマチュアの合唱団(オルフェオン)・吹奏楽団・金管アンサンブルのフェスティヴァルやコンクール、軍楽隊のフェスティヴァルやコンクール、民俗音楽のフェスティヴァルやコンクールなどであった。
 この公式音楽プログラムの原型となったのは、音楽が初めて芸術の一部門として認知された1867年のパリ万博のときのプログラムである。そこでは、当初「作曲、演奏、歴史」の3つの観点から音楽が展示される予定で、万博記念のカンタータと平和の賛歌の作曲コンクールが開かれた他、記念コンサートが開かれた。さらに、オルフェオン、吹奏楽団、金管アンサンブルによるフェスティヴァルとコンクールが行われたが、こうしたアマチュアによるイヴェントは音楽による民衆の教化をねらっていた政府によって、手厚く保護された。また、世界初の国際軍楽隊コンクールが開かれ、大成功を収めたことも注目される。その一方、「歴史」の観点として企画された、歴史的コンサート、つまり古楽コンサートは、経費の点が問題となり、実現には至らなかった。
 この後、第三共和政下で初めて開かれた万博となった次の78年のパリ万博では、カヴァイエ=コル製造の大オルガンを備えた巨大ホールをもつトロカデロ宮が建設され、音楽イヴェントの基地ができあがった。今回は作曲コンクールは開かれなかったが、フランス音楽の新しい作品がクローズアップされ、オーケストラ、室内楽、オルガンのコンサートが大々的に行われた。さらに、89年のパリ万博においては、作曲コンクール、パリの5大オーケストラによるコンサートや室内楽、オルガンの数々のコンサート、アマチュア音楽家のコンクールやフェスティヴァル、軍楽隊のフェスティヴァル等が開かれた。今回は古楽器によるコンサートも開かれ、大きな反響を呼んだ。一方、1900年の万博の音楽プログラムは、多数のコンサートが中心になったが、マンネリ化から脱却できず、これまで各回に見られた何らかの新機軸は打ち出せなかった。
 歴代のパリ万博の公式音楽プログラムに深く関与していたのは、当時のフランス音楽界を支配していたアカデミズムだったが、このアカデミズムが崩壊しはじめていたことから、公式音楽プログラム自体は、しだいに生彩を欠いていった。しかし、このプログラムを通じて、音楽活動は大きな刺激を受け、また、音楽が美術と並ぶ芸術の一分野であることが広く認識されたのである。

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