日本音楽学会中部支部 第137回定例研究会報告
日時:2023年(令和5年)7月29日(土) 13時30分~16時00分
会場:中京大学名古屋キャンパス 0703教室
開催方法:対面とオンラインのハイブリッド開催・事前申込制
司会:明木茂夫(中京大学)
内容:
〈研究発表〉
1. 片山詩音(名古屋大学大学院人文学研究科博士後期課程・日本学術振興会特別研究員DC)
「花街の芸能の楽曲分析における諸問題」
2. 山本宗由(長久手市文化の家)
「スティーヴ・ライヒ作曲《ナゴヤ・マリンバ Nagoya Marinbas》に関する一考察――初演者へのインタビューを通して」
【発表要旨】
花街の芸能の楽曲分析における諸問題
〈発表要旨の原稿が未提出のため、概要を以下に掲載する。〉 スティーヴ・ライヒ作曲《ナゴヤ・マリンバ Nagoya Marinbas》に関する一考察――初演者へのインタビューを通して
1.研究概要
芸妓が宴席で舞踊や演奏を披露して客人をもてなす花街において、それらの多くの芸能が口承によって受け継がれてきた。そのため、花街の芸能に関して、
文字資料や楽譜資料における記録は少なく、その内容を詳細に把握できる対象資料は、録音録画技術の発達以降に記録された音源や映像であると推定される。
現在発表者は、花街における芸能の実態に関する調査を実施中である。
本発表ではこの調査に基づいて、特に現行の花街の芸能であるとともに、これまでの記録としても音源・映像資料が現存している楽曲の楽譜化を取り上げる。
その楽曲分析の利点とともに、日本音楽を西洋音楽の五線譜に書き起こす際に生じる問題についても着目する。
今回の発表では、スティーヴ・ライヒ Steve Reich(1936-)作曲の《ナゴヤ・マリンバ Nagoya Marimbas》について取り上げた。《ナゴヤ・マリンバ》は、
1994年にしらかわホールのこけら落とし公演で初演された作品で、名古屋音楽大学の名誉教授である栗原幸江氏によって委嘱された。2台のマリンバのために書かれており、
初演は栗原氏および、名古屋音楽大学教授である髙藤(栗原)摩紀氏が行った。
《ナゴヤ・マリンバ》は編成も小さいことから、ライヒの作品のなかでも演奏される機会が多く、世界各地で演奏されている。しかし、
世界的に知られたライヒの作品でありながら、作品の委嘱の経緯などについては、これまで詳しく語られてこなかった。
今回、発表者は初演者の二人から初演当時の話を伺う機会を得た。そして、初演者から浮き出てきた疑問について、実際に作曲者であるライヒ本人に確認を行い、
回答を得ることができた。本稿では、今回の調査の結果について報告したい。
2.委嘱の経緯
《ナゴヤ・マリンバ》は、しらかわホールの開館を記念したオープニング・シリーズのなかで初演された。委嘱のきっかけとなったのが、
1994年12月21日に開催された名古屋音楽大学ガムラン・グループのスカル・サクラによる公演だった。この時の公演の出演料をもとに、スカル・
サクラの創設者である栗原幸江氏からライヒへ委嘱依頼がなされた。委嘱の経緯は一般に知られていないが、今回筆者が栗原氏から聞き取った流れは次のようなものだった。
ライヒに委嘱しようとした際、最初は名古屋の領事館を訪ねたが、領事館を通じて対応してもらうことは難しかった。そこで、アメリカ在住の栗原氏の知人を通じて、
電話帳の中からライヒの名前を探し出し、電話で依頼したとのことだった。当初、栗原氏はガムランのための作品を委嘱する予定だった。しかし、
ライヒからは「ガムランに敬意をもっており、あまりにも崇拝しているため、それを冒涜することはできない」と断られたという。そこで栗原氏は、
「それだけの思いがあるなら、楽器は何でもいいので書いてほしい」とお願いした。その結果できあがった作品が、《ナゴヤ・マリンバ》だった。
この時のやりとりの経緯から、栗原氏は《ナゴヤ・マリンバ》はガムランを意識して作曲されたのではないかと推測していた。
この点についてはライヒ本人にも確認したため、結果は後述する。
3.《ナゴヤ・マリンバ》の楽譜について
1996年にはブージー&ホークス社から出版されているが、実は栗原氏がライヒから受け取った初稿とは曲の終わり方が異なっている。現在刊行されている
《ナゴヤ・マリンバ》の出版譜は、84小節から成り、2/4と4/4拍子を基本としながら、3/4拍子が所々に差し込まれている。そして、
各小節には2?3回の繰り返しが指定されている。
初稿も基本的に出版譜と同様だが、最後の2小節のみ、10/16拍子が使われ、7回の繰り返しが指定されており、他の部分と大きく異なっている。
このコーダに相当すると考えられる部分が、実は出版譜ではカットされている。このことは栗原氏の関係者の間でしか知られていなかった。
なぜカットが行われたのかは栗原氏も疑問に思っていたことだが、ライヒ本人に確認したところ、回答を得ることができたため後述する。なお、
初演者の髙藤摩紀氏は今でも初稿に基づく演奏を行なっている(参考演奏:
Nagoya Marimbas/Katarzyna Mycka and Maki Takafuji)。
4.ガムランと《ナゴヤ・マリンバ》
栗原氏が考えるガムランとの関係についても述べておきたい。《ナゴヤ・マリンバ》は1番マリンバと2番マリンバが異なるタイミングで音を入れることによって、
入れ子構造を作っている。この構造により、聴衆にはそれぞれの楽譜に実際に書かれているものとは異なる音形が聴こえてくる。
この楽曲の作り方はライヒの特徴ではあるが、栗原氏はガムランの演奏と共通していると指摘している。そして、うまく演奏すれば、
ガムランでトランス状態に入った時に生じる音のうねりを引き出すことができるため、《ナゴヤ・マリンバ》を演奏する上でガムランの演奏にふれることは、
作品のもつ力を引き出すことにつながると考えていた。
5.ライヒからの返答
栗原氏の問題意識をもとに、筆者はライヒ本人に3つの質問をメールにて送付した。以下にその回答を示す(回答は筆者訳)。
質問① 《ナゴヤ・マリンバ》は、ガムランを意識した作品か?
[回答]1973?74年にガムランを勉強したが、1973年作曲の《マレット楽器、声とオルガンのための音楽Music for Mallet Instruments, Voices, and Organ》
ほどの影響を与えるものではなかった。
質問② 初稿にあった最後の2小節をカットしたのはなぜか?
[回答]五線譜の最初の低いEは、ドミナント終止を固定する。5度上のBから始めると、コードが弱くなり、アルペジオがドミナントのE-B-Eで確定的に終わる「重み」
を失う。
(筆者注:より終止感を強めるためにカットされた)
質問③ 初演から約30年経った今、《ナゴヤ・マリンバ》をどう評価しているか?
[回答]私の最も人気のある曲の一つだ。打楽器奏者にとっては技術的に少し難しいものだが、奏者や聴衆が、演奏の技術と、
何よりも結果として得られる音楽を楽しむために彼らは演奏してくれている。
6.おわりに
栗原氏の発言及び、最初にライヒから送られてきた《ナゴヤ・マリンバ》の楽譜から、これまで知られていなかった《ナゴヤ・マリンバ》の一面を垣間見ることができた。
栗原氏が考えていたガムランとの関わりはライヒによって否定されたが、これまで知られていなかった初稿譜の存在が明らかになり、
出版譜との相違点についてもライヒ本人から新たな情報を得ることができた。《ナゴヤ・マリンバ》はライヒが日本人からの委嘱を受けて作曲した数少ない作品であるため、
今後は日本側からもこの作品の情報について、何らかの形で発信していくのが望ましいだろう。