日本音楽学会中部支部 第136回定例研究会報告

日時:2023年(令和5年)3月18日(土)13時30分~16時00分

会場:愛知県立大学・愛知県立芸術大学サテライトキャンパス
   愛知県産業労働センター ウインクあいち15階

開催方法:対面とオンラインのハイブリッド開催・事前申込制

司会:安原雅之(愛知県立芸術大学)

内容:〈教育フォーラム〉卒業論文・修士論文合評(実技系修了論文含む)


○卒業論文

・樋口萌音(愛知県立芸術大学音楽学部作曲専攻音楽学コース)
「ポピュラー音楽の楽曲分析における編曲の重要性――1970年代の筒美京平作品を例にして」

・山上千乃(愛知県立芸術大学音楽学部作曲専攻音楽学コース)
「キリシタン時代の日本の音楽実践の様子――フロイス『日本史』の記述の考察を通して」

○音楽総合研究修了論文

・髙間春香(愛知県立芸術大学大学院音楽研究科博士前期課程鍵盤楽器領域)
「ベートーヴェンの後期への移行期にみられるバロック音楽への関心――ピアノ・ソナタ第28番イ長調作品101と教会ソナタの関連から」

・山口翔也(愛知県立芸術大学大学院音楽研究科博士前期課程鍵盤楽器領域)
「J. S. バッハ『平均律クラヴィーア曲集第1巻』24番ロ短調BWV869よりフーガ における音楽フィグールの分析と解釈」

○修士論文

・紅村兆乃(愛知県立芸術大学大学院音楽研究科博士前期課程音楽学領域)
「サミュエル・バーバー作曲《ノックスヴィル:1915年の夏》――委嘱の背景にみる作品像」


【発表要旨】

<卒業論文>

ポピュラー音楽の楽曲分析における編曲の重要性――1970年代の筒美京平作品を例にして

樋口萌音(愛知県立芸術大学音楽学部作曲専攻音楽学コース)

 本論文の目的は、ポピュラー音楽の楽曲分析において、メインボーカルやコードだけではなく、伴奏にも注目していくこと、 つまり編曲に注目していくことの重要性を明らかにすることである。
 メインボーカル以外のコーラスや楽器による伴奏によって、その楽曲の持つ特徴は大きく変化する。よって、楽曲分析をする上では、 全てのパートすなわち編曲も考慮する必要がある。日本国内のポピュラー音楽を分析した先行研究は多く存在するものの、 編曲を主眼において日本のポピュラー音楽を分析した先行研究はない。そこで、本研究では1960年代後半から職業作曲家として活躍した筒美京平(1940-2020) の1970年代の作品を事例として、編曲に主眼をおいた分析を行う。
 本論文は、全2章から構成されている。
 第1章「分析対象について」では、本研究における分析の対象や方法について述べた。第1節では、分析を行う上で、楽曲を構成している全ての音が重要であり、 それはポピュラー音楽においても言えるということを提示した。レコードの音源やTVで放映されていた音源については、 その楽曲を構成する全ての音が含まれている上、多くの聴衆はそれを聴くことでその楽曲のイメージを形成していったと考えられることから、 分析対象として適切であることについても言及した。また、本研究の目的のためには、 ポピュラー音楽の楽曲における伴奏を含む全てのパートがどのような特徴を持っているのかを分析し、その結果を示す必要がある。 分析結果を示す手段の1つとして楽譜があるが、演奏されている全ての音を網羅している楽譜は、一般に公開されていない。そこで第2節では、本研究において、 楽曲の音源を聴いて書いたスコア、すなわち採譜をした楽譜をもとに分析を行うことを示した。さらに、分析を進める上で、 先行研究で扱われていたメインボーカルのメロディーやコードという視点は踏襲しつつ、前奏、間奏、後奏といった伴奏のみで構成されている部分や、 メインボーカルが複数回登場するメロディーを歌っている部分の伴奏の使用楽器やフレーズの変化、 メインボーカルと伴奏がユニゾンになっている部分など伴奏に関する視点を加えることについても言及した。
 第2章「楽曲分析」では、分析対象とする筒美京平についての基本情報を概観した上で、3曲の分析を行った。第1節では、筒美京平について、 彼の生涯や手がけた作品の売上記録や受賞記録を示した。第2節では、尾崎紀世彦《また逢う日まで》(1971)、郷ひろみ《男の子女の子》(1972)、 ジュディ・オング《魅せられて》(1979)の分析を行い、各曲の特徴と複数の曲に共通して見られる特徴を示した。分析の結果、 以下のような特徴を見出すことができた。まず、前奏やいわゆるサビの部分など、楽曲の中で特に大切な部分において、 伴奏が同じ音形を繰り返したりユニゾンになっていたりすることで、より聴衆の印象に残りやすくなっている。また、 メインボーカルによるメロディーが何度も繰り返し登場する部分においては、伴奏の使用楽器や演奏するフレーズが変化していくことにより、 メインボーカルで同じメロディーが繰り返されていても楽曲の中で少しずつ雰囲気が変化していくため、聴衆が飽きないようになっている。つまり、 編曲に注目することで、伴奏が、聴衆の印象に残りやすく、途中で飽きがこない楽曲を形成する上で重要な役割を果たしていることがわかった。
 以上のことから、ポピュラー音楽の楽曲分析において、メインボーカル以外のコーラスや楽器による伴奏、 すなわち編曲に注目することは重要であるということを明らかにすることができた。


<卒業論文>

キリシタン時代の日本の音楽実践の様子――フロイス『日本史』の記述の考察を通して

山上千乃(愛知県立芸術大学音楽学部作曲専攻音楽学コース)

 ルイス・フロイスLuis Frois(1532-1597)はポルトガル生まれのイエズス会の宣教師で、1563年に日本での宣教活動を始めた。彼は宣教活動だけでなく、 書翰の写しを各布教地に送付する仕事や書記の仕事もしていたため、文筆家としての評価も高い。フロイスの主な著作は、『日欧文化比較』や『日本史』 (以下「フロイス『日本史』」と表記)である。フロイス『日本史』は日本布教史をまとめるものとして、1583年から94年にかけて書かれた。本論文では、 フロイス『日本史』における音楽の記述を考察することを通して、キリシタン時代の日本の音楽実践の様子を明らかにしていくことを目的とする。
 フロイス『日本史』を扱う先行研究は、宗教や祭礼、建築や庭園、女性の地位、『日本史』の写本、その史料的価値についてなど多岐にわたっているが、 音楽についての先行研究は見られない。一方、キリシタン時代(キリスト教伝来の1549年から徳川幕府によって禁教令が出される1614年まで)の音楽は 「キリシタン音楽」とよばれ、盛んに研究が行われてきた。『サカラメンタ提要』などの当時の数少ない史料をもとにした曲や音の推測、 音楽教育や音楽実践を明らかにする研究などがなされてきた。そこで本研究では、フロイス『日本史』を音楽の面からアプローチし、 キリシタン時代の日本の音楽実践の様子を明らかにすることを試みる。
 本論文は全2章から構成されている。
 第1章では、フロイスの生涯とフロイス『日本史』の概要について述べた。第1節ではフロイスの生涯を概観し、 彼のイエズス会での活躍や他のイエズス会士からの評価などを取り上げた。そこから、フロイスは宣教師としても文筆家としても高く評価されており、 イエズス会の日本での活動を複数の面から支えた人物であったことがわかった。彼が文筆家として評価されたのは、 彼が幼い頃に王室秘書庁で書記官として勤めていたからであった。第2節では、フロイス『日本史』の構成や原本の状態、邦訳本の出版などについて述べた。 フロイス『日本史』の原本は、1835年に保管されていたマカオ司教座聖堂の火事に伴って焼失しているものの、写本はいくつかの種類が存在する。また、 邦訳本出版において訳者が独自のテーマごとに構成したため、訳本と写本の見比べが難しくなっているという問題点があった。
 第2章では、フロイス『日本史』から音楽に関する記述を抜き出し、内容を考察し、音楽実践の様子を明らかにしていった。第1節では、 日本宣教における音楽の使用について述べた。聖祭での音楽の使用だけでなく、教会の外でも大人や子どものキリシタンが聖歌を歌っていた。 多くの場所で子どもの歌う様子が記述されており、子どもの存在は異教徒の感化や大人のキリシタンの信仰心の深化にも影響を与えたと考えられる。 さらには大名や領主も改宗し、教会音楽にふれ、領民たちの信仰を保護していた。大名が改宗すると領民も改宗するので、 イエズス会にとって大名は重要な存在であったと考えられる。また、イエズス会によって設置された神学校では、高度な教育が行われていた。その中に音楽もあり、 立派な聖歌隊による歌やミサ仕えの演奏もできていたことがわかった。さらには、ヨーロッパで楽器の演奏を学んだ天正遣欧使節による指導もあり、 学生の演奏のレベルは高く、学習環境も充実していたと考えられる。第2節では、宣教師から見た日本の音楽について述べた。祭りの音楽や念仏、 梵鐘などについて詳細に記述されており、良い印象、悪い印象の両方が見られた。また、異教徒とキリシタンの宗教的対立も見られた。他にも、 キリスト教に改宗した琵琶法師が説教や琵琶の演奏などを行い、宣教活動において重要な役割を果たしていたことがわかった。イエズス会は日本宣教において、 日本の音楽を戦略的に使用していたと考えられる。第3節では、西洋以外の外国人による日本での音楽の演奏や外国での日本人による音楽の使用について述べた。 当時日本で数少ないが、アフリカや中国など西洋以外の国の音楽が聴かれていたことがわかった。
 本論文では、フロイス『日本史』の記録がある1549年から93年までしか取り上げることができず、キリシタン弾圧の過程での音楽について深く見ることができなかった。 しかしながら、1587年の伴天連追放令以後も、神学校では音楽教育の精度が上がっていたことがわかった。よってキリシタン弾圧下でも、 日本において?洋音楽の演奏が行われていたといえる。また、フロイス『日本史』では、様々な種類の音楽の記述を多く見ることができた。 フロイスの詳らかな記録や率直な感想など、フロイス『日本史』にしか見られない記述もあった。本研究を通して、 フロイス『日本史』を音楽という新しい面からアプローチすることができたと考えている。


<音楽総合研究修了論文>

ベートーヴェンの後期への移行期にみられるバロック音楽への関心――ピアノ・ソナタ第28番イ長調作品101と教会ソナタの関連から

髙間春香(愛知県立芸術大学大学院音楽研究科博士前期課程鍵盤楽器領域)

 本論文は、ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンLudwig van Beethoven(1770-1827)のピアノ・ソナタ第28番イ長調作品101に教会ソナタの様式を見出し、 ベートーヴェンはバロック音楽の音楽語法をどのように作品に応用したのか明らかにするものである。
 ベートーヴェンは、生涯に渡ってバロック音楽を学んだ。スケッチ帳に見られるヨハン・ゼバスティアン・バッハJohann Sebastian Bach (1685-1750)やゲオルク・フリードリヒ・ヘンデルGeorg Friedrich Handel(1685-1759)といった過去の作曲家の作品の筆写は、 ベートーヴェンのバロック音楽への関心を示すものである。とりわけ、後期にフーガを擁する大作を次々に創作していることから、 過去の音楽の研究成果は晩年に開花したと言える。
 ベートーヴェンの創作区分において、1813年から1817年までを後期への移行期と捉えることができる。この時期は、「寡作期」 と呼ばれることがあるが、フーガを擁する作品や習作を創作し始めていることから、再び過去の音楽に目を向けるようになった時期でもある。
 この観点に着目し、後期への移行期である1816年に創作され、ピアノ・ソナタに初めてフーガが用いられた作品101に、バロック音楽の音楽語法が現れているか検証した。
 作品101の先行研究は、楽章構成とその曲想において、ほぼ同時期に創作された《チェロとピアノのためのソナタ》第4番ハ長調作品102-1との関連を指摘している[1]。 作品102-1の先行研究は、バロック時代の教会ソナタの様式との関連[2]や、その様式で創作されたJ. S. バッハの《ヴァイオリンとチェンバロのためのソナタ》 第2番イ長調BWV1015と《ヴァイオリンとチェンバロのためのソナタ》第3番ホ長調BWV1016との関連[3]を指摘している。
 一方、作品101は作品102-1と同様の楽章構成、また、類似した曲想であるにも関わらず、教会ソナタの様式との関連性について指摘されていない。 したがって、作品101に教会ソナタの様式が現れているか、作品102-1と比較し、分析を行った。
 論文は3章から構成される。第1章では、まず、ベートーヴェンの生涯に渡るバロック音楽からの学びについて述べた。次に、 バロック音楽へ再び大きな関心を持ち始めた後期への移行期の創作活動について述べた。第2章では、作品101と作品102-1のそれぞれの創作背景と先行研究の内容について述べた。 第3章では、まず、教会ソナタの様式について述べた。次に、作品101に教会ソナタの様式が現れているか、作品102-1と比較し、 分析を行った。
 発表では、第1章のベートーヴェンとバロック音楽、及び、第3章第6節の第4楽章の比較分析の発表を行った。
 第1章では、まず、後期への移行期と捉えられる1813年から1817年は寡作であるか再考した。しかし、一概に寡作であったとは言い難く、 創作活動が停滞していたのは1815年末から1817年であった。弟カールの死や甥カールをめぐる後見人問題、 ベートーヴェン自身の病によって創作活動が停滞していたと考えられる。そして、1817年、ベートーヴェンはスケッチ帳にバロック作品のフーガを集中的に筆写し、 また、フーガの習作も創作していたことから、1815年末から1817年にかけて、ベートーヴェンは創作の困難を伴いながら、 古い音楽に新たな音楽語法を見出そうとしていたことが明らかとなった。
 第3章第6節の第4楽章の比較分析から、作品101の展開部のフーガは、教会ソナタの様式に拠った自由なフーガであることが明らかとなった。 また、作品101と作品102-1のフーガの主題や旋律に、ヘンデルやJ. S. バッハの書法が盛り込まれていたことから、 ベートーヴェンはバロック音楽にフーガ創作への手がかりを求めていたことが分かった。そして、 作品101と作品102-1に共通した書法であったシンコペーションを伴った下行音型、広音域にわたる上下行する音階、6度音程の重音とsfは、 フーガに劇的な表現をもたらす書法であったことから、ベートーヴェンは過去の音楽の書法を取り入れながら、 独自のフーガを創作していたことが明らかとなった。
 ベートーヴェンは、1815年末から1817年にかけて、創作の困難を伴いながら、後期に向けた独自の音楽語法を模索していた。 そうした過渡期に創作されたのが、作品101や作品102-1である。これらの作品に、バロック時代の教会ソナタの様式やJ. S. バッハ、 ヘンデル作品の書法が盛り込まれていたことから、ベートーヴェンのバロック音楽への大きな関心は、 後期への移行期に萌芽していたことが明らかとなった。ベートーヴェンは過去の音楽の様式や書法を自身の作品に応用し、 独自の音楽を生み出した。先人の音楽を学び、それを独自の方法で統合しながら独創的な作品を創作したのである。


[1] ローゼン,チャールズ 2011 『ベートーヴェンを“読む”――32のピアノソナタ』 小野寺粛(訳) 土田京子,内藤晃(監修)  東京:道出版
[2] 宇野哲之 1999 「ベートーヴェン・チェロ・ソナタ第4番 作品102-1の研究」『上越教育大学研究紀要』 第19巻第1号:137-148; 越懸澤麻衣 2021 「第4章 チェロ・ソナタの世界〔+その他の室内楽作品〕 チェロ・ソナタ第4番/第5番」『樂聖と弦 ベートーヴェン  弦楽器のための作品たち』 134-136 東京:音楽之友社
[3] Zenck, Martin. 1986. Die Bach-Rezeption des spaten Beethoven: zum Verhaltnis von Musikhistoriographie und Rezeptionsgeschichtsschreibung der ?Klassik“. Beihefte zum Archiv fur Musikwissenschaft, Bd. 24, Stuttgart: Steiner Verlag Wiesbaden.


<音楽総合研究修了論文>

J. S. バッハ『平均律クラヴィーア曲集第1巻』24番ロ短調BWV869よりフーガ における音楽フィグールの分析と解釈

山口翔也(愛知県立芸術大学大学院音楽研究科博士前期課程鍵盤楽器領域)

 この論文は、楽曲内で装飾や強調のために使用される音型の総称である「音楽フィグール」による、ヨハン・セバスティアン・バッハ Johann Sebastian Bach(1685-1750)の楽曲分析を研究対象としている。バロック音楽の作品は、音楽と修辞学の理論が融合した音楽修辞学の影響を受けているとされており、 J. S. バッハによる音楽作品も例外ではない。しかしながら、この観点からの楽曲分析を主題的に扱った研究は、これまであまり行われてきていないようである。 そこで本論文では、音楽修辞学の中でも、特に学問として体系化されている、音型に関する学問「フィグーレンレーレ」に焦点を当て、 その原点とされているヨアヒム・ブルマイスター Joachim Burmeister(1564-1629)による著書『ムジカ・ポエティカMusica Poetica』(1606) の理論による楽曲分析、及び楽曲解釈を行なった。
 分析対象として、様々な観点からの解釈が行なわれている『平均律クラヴィーア曲集第1巻』24番ロ短調BWV869より、フーガを使用した。特に、 ブルマイスターが『ムジカ・ポエティカ』で提示した音楽フィグールを用いた楽曲分析を行ない、この分析のメリットや有効性を明らかにして、演奏表現に結びつく、 実用的な分析方法として提示することを目的とした。
 論文は3章から構成される。第1章では、音楽修辞学の歴史やその理論、ブルマイスターの著書と彼の列挙した音楽フィグールの理論に関する調査を行なった。 第2章では、バッハと修辞学、音楽修辞学の関わりについて調査を行なった。さらに、シュミッツ Arnold Schmitzによる《マタイ受難曲 Matthaus-Passion》BWV244(1727)と、 礒山雅による《ヨハネ受難曲 Johannes-Passion》BWV245(1724)における音楽フィグールの分析と新たな解釈の可能性に関する先行研究を挙げながら、 バッハの楽曲における音楽フィグールとその解釈の可能性について論じた。第3章では、ブルマイスターの理論に基づいて対象楽曲の楽曲分析を行なった。ここでは、 この楽曲で特徴的に用いられている3つの音楽フィグールの調査から、対象楽曲とミサ曲の「キリエ」との関連性が明らかになった。 各音楽フィグールの由来やその解釈について論じた後、「キリエ」の考え方を応用した楽曲構成の解釈の比較や、それに伴う演奏表現の方法について考察した。
 発表では、この中から第3章 第2節「音楽フィグールの分析結果」、第3節「楽曲構成への応用」の内容を抜粋して発表した。第2節からは、 この楽曲で特徴的に用いられているClimax、Anaphoraという2つの音楽フィグールに関する調査から、対象楽曲とミサ曲「キリエ」 との関連性が明らかになった根拠とその詳細を挙げた。第3節からは、ブルマイスターの提示した「三部分図式」という楽曲構成の解釈に倣った分析、 市田儀一郎『バッハ平均律クラヴィーアⅠ』(1968)による分析、石桁真礼生『新版 楽式論』(1966)の手法による分析の3つを比較し、 ブルマイスターの分析にどのような特徴があるのかを提示した。
 本論文では、これらの3つの章を通して、音楽フィグールによる分析は器楽曲への応用が可能であると明らかにするとともに、その考え方の手順を示すことができた。 また、音楽フィグールの分析は他の分野との関連性を持たされた場合、より意味があるものになるということを実際に確認することができた。 様々な観点からの研究が行われているバッハの楽曲だが、音楽フィグールによる分析は、それらの異なる分野とともに慎重な検討を伴えば、 非常に有効な分析方法の1つであると考えられる。
 この方法による楽曲分析のメリットとして、特定の音型に注目する手がかりになり得るということが挙げられる。今回の場合は、「キリエ」との関連性のような、 音楽的な分析からは得られなかった分析結果を得ることができた。このような分析方法は、今回のようなテキストを持たない器楽曲の場合は、特に有効であると考えられる。 また、第3章第3節に見られるように、これまでとは異なった楽曲構成の考え方を提示することができた点も、非常に有意義だと考えられる。
 ただし、この音楽フィグールによる分析は、「音型」という概念的なものを扱うことによる問題点も明らかになった。例えば、Anaphoraの定義には「類似した音型」 という言葉が含まれるが、この基準は分析者の主観的な判断に委ねられてしまう。また、楽曲構成の分析のために楽曲を分割した際も、「○○が多く使われている区分」 というようにかなり主観的な分割となる点に関しても、注意すべき点だと考えられる。分析方法に関して、厳格な決まりがないこのフィグーレンレーレであるが、 そのことが原因で、音楽フィグールによる楽曲分析は分析者にとって都合の良いものになってしまいかねない。このような楽曲分析を学術的に行うには、 より体系的な決まりを設定し、客観的な立場で楽曲と向き合うことが重要である。
 本論文では、様々な観点から音楽フィグールによる楽曲分析は、非常に多くの可能性を秘めていると提示することができた。この考え方がより普及し、 今後さらに発展していくことに期待したい。


<修士論文>

サミュエル・バーバー作曲《ノックスヴィル:1915年の夏》――委嘱の背景にみる作品像

紅村兆乃(愛知県立芸術大学大学院音楽研究科博士前期課程音楽学領域)

 サミュエル・バーバー Samuel Barber(1910-1981)は、革新性の追求や国民的語法の探究が特徴的であった20世紀アメリカの音楽界で活動した作曲家である。 研究対象としたソプラノとオーケストラのための作品《ノックスヴィル:1915 年の夏 Knoxville: Summer of 1915》は、 第二次世界大戦終戦から間もない1947年に作曲された。1940年代以降のバーバー作品には、当時の流行に影響されたモダニズム的要素が見られるようになるが、 本作の作風は初期の頃に戻っている。これまで、バーバー研究の第一人者バーバラ・ヘイマンBarbara Heyman(生年不詳)の著書にもあるように、 「子供時代の記憶に伴う郷愁の念をとらえることに成功した」作品として、「バーバーが手がけた中で最もアメリカ的」なものとして評価されてきた。また、 ジェイムス・エイジー James Agee(1909-1955)の散文詩についても「これまで書かれたどんな作品よりも明確で独創的でアメリカらしいテキスト」とされており、 バーバーがアメリカ的主題を強くもつテキストを選んだ例は他にないためか、「アメリカらしい」作品としてのイメージが先行している。また、 音楽がテキストを反映しているという前提のもと、テキストと音楽との結びつきについて論じられてきたが、委嘱作品であることは重視されていない。 今回の論文では、本作が委嘱され、ボストン交響楽団にて初演されるまでの過程に着目し、 本作の作品像および本作が証明しうるバーバーの作曲家像を提示することを目的としている。
 第1章では、バーバーや《ノックスヴィル: 1915年の夏》についての基礎的な事柄を概観した。バーバー作品の音楽的特徴は、 19世紀後期の音楽語法やテキストから着想を得た抒情性、哀愁を備えた息の長い旋律線などの言葉で表される。これらの特徴は、 聴衆にとって聴きやすい美しさをもつ作品を提供し続けることを可能にし、多くの委嘱作を手がけた作曲家としての地位を確立させた。 バーバーのキャリアにおける重要性を有しながら、これまで研究主題とされてこなかった“委嘱”にかかる彼の作曲姿勢を示すものとして、 本作の新たな作品像の可能性を提示した。
 第2章では、初演を務めたエレノア・スティーバーElanor Steber(1914-1990)による委嘱の背景、および「声楽とオーケストラのための作品」 の作曲を提案したサージ・クセヴィツキーSerge A. Koussevitzky(1874-1951)の意向を論点とし、本作との関わりを示した。 スティーバーはメトロポリタン歌劇場で大いに活躍し、彼女の成功は、アメリカでの音楽教育を経たオペラ歌手として先に例を見ないものであった。しかし、 第二次世界大戦後には、海外の声楽家が歌劇場の舞台に立つようになり、スティーバーはイタリア・オペラの主要な役に抜擢されなくなったと感じるようになる。 また1940年代末から1950年代初頭にかけて、《オテロ》のデスデモーナなどより重たい声が求められる役もこなすようになる。これら内外の変化に伴い、 バーバーへ委嘱をした頃のスティーバーはキャリアの拡大を視野に入れていた。また、クセヴィツキーは、 当時のアメリカで一般的でなかった大規模なオーケストラ付き声楽作品を依頼することで、音楽界に新たな風を吹き込もうとする意図があったと考えられる。 スティーバーやクセヴィツキーの思惑は、フルオーケストラ編成かつアメリカ的主題をもつ本作に反映されている。
 第3章では、初演が行われたボストン交響楽団の伝統や聴衆の嗜好について考察した。その中で、第二次世界大戦後の変動期にあるアメリカ音楽界における、 作曲家、演奏家、そしてオーケストラの3者の相互関係を本作委嘱の経緯に見出した。
 第4章では、新聞等における本作の批評を概観すると“sumptuous豪華な”という言葉が時折当てられていることに気づく。 一部の人が本作に感じるこのような性質は、バーバーが当初構想していた親密な雰囲気の作品像とは正反対である。これは、 紛れもなくスティーバーやボストン交響楽団の指揮者クセヴィツキーの意向を反映したゆえに生まれたものであろう。
 《ノックスヴィル:1915年の夏》の音楽面において、バーバーは委嘱者の意向や初演の場を考慮し、当初に構想された「親密な雰囲気の作品」ではなく、 より大規模で豪華な作品として手がけている。しかし細部を見ると、テキストを反映しているとして先行研究で指摘された音楽要素 ―朗唱的な歌の旋律、 長調と短調との間での継続した揺らぎ、2度と9度の音程間隔、ソロオーボエ・イングリッシュホルン・クラリネットのパートにおける印象的な旋律線― も、 その多くはバーバー作品に広く見られるものである。幅広く聴衆に訴えかける叙情性を有するバーバーの音楽を明確に表す作品像を《ノックスヴィル:1915年の夏》 に認めることができる。