日本音楽学会中部支部 第135回定例研究会報告

日時:2022年(令和4年)12月3日(土) 13時30分~16時00分

※対面とオンラインのハイブリッド開催・事前申込制

会場:愛知県立芸術大学新講義棟大講義室

司会:安原雅之(愛知県立芸術大学)

<講演>

① 「オーケストラ秘史発掘 松坂屋少年音楽隊楽士の軌跡たどり」
    長谷義隆(WEB茶美会編集長、元中日新聞編集委員)

② 「近・現代の貴重な音楽資料が寄贈されるまでの経緯」
    田中民雄(学校法人同朋学園 名古屋音楽大学評議員、元名古屋市民管弦楽団フルート奏者・運営委員長)

写真1.長谷義隆氏 写真2.田中民雄氏と司会の安原雅之氏

【傍聴記】

 本研究会では、『発掘 レトロ洋楽館――松坂屋少年音楽隊楽士の軌跡』(2021年、株式会社あるむより刊行。 以下:『レトロ洋楽館』)にまつわるお話を、著者である長谷義隆氏、ならびに編集にたずさわった田中民雄氏から伺った。 本書は、松坂屋少年音楽隊(のちの東京フィルハーモニー交響楽団)出身のヴァイオリン奏者、 丹羽秀雄のアルバムと回顧録をもとに、大正~昭和前期にかけての日本洋楽史の一側面をつづったものである。 同時に、2015年から中日新聞で60回にわたり連載されていた同名のシリーズを、書籍としてまとめたものともなっている。
 研究会の前半では、長谷氏により、『レトロ洋楽館』を刊行するまでの経緯や、 同書に収録されている丹羽秀雄アルバムの写真資料が紹介された。その中には、開局したばかりのラジオ放送局 (のちのNHK名古屋局)での演奏風景(1925/大正14年7月16日、p.6)や、中部地方唯一のレコード会社であった 「アサヒ蓄音機商会(通称ツルレコード)」での吹込みの様子(1928/昭和4年、p. 10)など、 近代化が進む名古屋において、少年音楽隊が洋楽文化を牽引していたことを物語る写真が含まれていた。 また、昔ながらの御園座の舞台に、床几(しょうぎ)を置いて腰掛ける洋装の楽団員、客席は升席の平土間という写真 (1928/昭和3年11月1日、p.8)は、邦楽や伝統芸能が根強い名古屋において、 洋楽がどのように演奏されたのかを伝える貴重な資料と言える。
 丹羽秀雄は1942(昭和17)年に少年音楽隊(当時は「東京交響楽団」)を離れると、 楽団の指揮を振ったこともある山田耕筰の誘いで満州にわたり、新京音楽団のコンサートマスターとなった。 『レトロ洋楽館』の後半では、満州時代の丹羽の活動が、新京音楽団の身分証明書やハルビン市の当時の写真とともにつづられる。 中でも目を引くのは、「ハルビン市ロシア人墓地に眠るケーニヒ氏の墓参記念」と題された写真である (1942/昭和17年9月25日、p.14)。ケーニヒはプラハ出身の指揮者、ヴァイオリン奏者で、 ロシア革命後に極東に逃れた、いわゆる白系ロシア人であった。ハルビンには白系ロシア人によって構成される交響楽団があり、 丹羽秀雄は3か月間、エキストラとして入団していたようである。ケーニヒの墓参写真には、 山田耕筰や丹羽だけでなく、同時期に満州に渡った日本人楽団員の姿が大勢収められている。この写真のような、 戦中・戦後の資料は、少年音楽隊の成長とはまた別の、日本占領期の満州の音楽事情や、 敗戦直後の日本の音楽文化をリアルに伝えるものである。『レトロ洋楽館』およびそこに収録される資料は、 丹羽秀雄という人物の物語を通して、近代日本の音楽文化がどのような変遷をたどったのか、 その過程を鮮やかに映し出すものだと言えよう。
 研究会の後半では、『レトロ洋楽館』の編集にたずさわった田中民雄氏より、 本書の刊行にあわせて丹羽秀雄のご遺族から寄贈された一連の資料の紹介が行われた。寄贈品の内訳は、 『レトロ洋楽館』に採録された丹羽の手記「古希回顧」、写真約300枚を含むアルバム2点、 先述した新京音楽団の身分証明書のような、丹羽秀雄とその周辺人物に関する若干の文書資料、 さらには丹羽が愛用していた鈴木ヴァイオリンである。これらは、愛知県立芸術大学に寄贈されることになり、 今後資料の保存や公開に向け、詳細を協議することになっている。

写真3.質疑応答の様子

 なお、本研究会は会場とオンラインのハイブリッド開催で行われ、会場では8名、 オンラインでは22名が参加した。長谷氏と田中氏の講演の後、質疑応答が行われ、参加者からは 「丹羽秀雄以外の楽士のご家族・ご遺族から何か反響はあったか」「名古屋のラジオ放送の地域的特色はあるか」 などの質問があった。また、『レトロ洋楽館』の入手方法についても質問があり、 長谷氏によれば名古屋の主要書店に在庫があるほか、 それ以外の地域であれば著者が直接問い合わせに応じるとのことである。

文責:七條めぐみ(愛知県立芸術大学)