日本音楽学会中部支部 第134回定例研究会報告

日時:2022年(令和4年)7月9日(土) 13時30分~16時00分

開催方法:オンライン開催

司会:安原雅之(愛知県立芸術大学)

内容:
〈研究発表〉

1. 金丸友理絵(愛知県立芸術大学非常勤講師)
「アルトゥール・シュナーベル校訂 ベートーヴェンの『ピアノソナタ全集』の指使いについての一考察」

2. アム セチュン トニー(愛知県立芸術大学非常勤講師)
「オーケストラ音楽にみるインダストリアル・ロックの影響
  ――マグヌス・リンドベルイの《クラフト》における80年代西ベルリンの痕跡」


【発表要旨】

アルトゥール・シュナーベル校訂
 ベートーヴェンの『ピアノソナタ全集』の指使いについての一考察

金丸友理絵(愛知県立芸術大学非常勤講師)

 本発表は、アルトゥール・シュナーベルArtur Schnabel(1882-1951)が校訂したベートーヴェンLudwig van Beethoven(1770-1827)の『ピアノソナタ全集』(以下シュナーベル版)に見られる特異な指使いを研究課題に取り上げ、指使いに込められたシュナーベルの意図、および指使いが生み出す音楽的表現の具体的な内容について明らかにすることを目的としている。
 シュナーベルは20世紀を代表するベートーヴェン弾きと評される著名なピアニストである。彼の生涯を通しての音楽活動は多岐にわたっており、ピアニストとしてだけでなく、作曲家、教育者、そして楽譜校訂者としても重要な功績を残した。シュナーベル版は、当初1924年にドイツのウルシュタイン社から出版され、シュナーベルの名が世界中に広まるとともに普及していった。シュナーベル版には、強弱記号やテンポの指示を始め、非常に多くの書き込みが見られるが、その中でも彼の指使いは極めて特徴的であり、それは全32曲のソナタの細部にわたって指示されている。シュナーベル版の序文には、この特異な指使いについて、技術的な観点からだけでなく、音楽的表現を目的として選ばれているということが彼自身の言葉によって述べられている。楽譜の校訂方針について記載されている序文の中で、彼がまず指使いの特異性について言及しているということからも、シュナーベル版の中で指使いがとりわけ重要な意味を持っているということが窺える。しかしながら、その特異性ゆえに、シュナーベルの弟子を含む演奏者や研究者から、時おり不可解とすら言われることもあり、従来の研究ではその指使いに込められた音楽的な意図について深く追求しようとした試みはほとんど行われてこなかった。そこでシュナーベル自身の音楽理念や作品解釈に即して、彼の版の指使いの特異性について考察していくことの必要性を強く感じた。
 発表の前半では、シュナーベルの生涯における音楽活動の中で、彼がベートーヴェンの音楽とどのように関わってきたのかということについて言及した。次に、シュナーベル版が出版された経緯や、楽譜の校訂作業の際に彼が参照したとされる資料や出版譜について調査した結果を述べた。シュナーベルは楽譜校訂に際して、個人としてはかなり大規模な資料調査を行い、一次資料をはじめ、シュナーベル版と同時代に出版された複数の解釈版に至るまで、多くの資料批判を重ねていたことが分かった。楽譜の校訂作業の過程を辿り、シュナーベル版が原典に忠実であることを指針とした解釈版であることを示したことで、ベートーヴェンのピアノソナタの楽譜の中で重要な位置を占めていることが分かった。しかしながら、彼自身によって様々な解釈が書き込まれている楽譜であることは事実であり、その中でも特に、彼が書き記した指使いの中には非常に特異なものが多く見受けられる。ベートーヴェンの意図に忠実であろうとしていたシュナーベルが生み出した特異な指使いには、彼が伝えようとしていたことが具体的な教示として表れているのではないかと思われた。
 発表の後半では、まずシュナーベル版の序文に記載されている内容から、楽譜の校訂方針や、彼の音楽の考え方について考察した。また、演奏者に作品の重要な要素に気付かせるために、あえて難しい指使いを選択したというシュナーベル自身の言説を引用し、シュナーベル版の特異な指使いが、音楽的表現を目的としながら、教育的な示唆を含んでいるものであることを示した。このことを踏まえ、指使いについての考察を深めていく上で重要な手がかりとなる 彼の音楽理念や、指使いを含む演奏技術に対する考えについて述べた。
その上で、シュナーベル版の指使いの特異性について考察を行った。その結果として、a) 運指によるレガート、b) スラーの切れ目を表す指使い、c) 下行形ノンレガートにおける第4指の連続使用、d) タイの音の指換え、e) リズムのアーティキュレーションを表す指使い、f) デュナーミクに応じた指使いの選択の6つの特徴が見出された。これらの特異な指使いについて、それぞれシュナーベル自身の音楽的解釈に即して考察した。
 シュナーベル版の指使いの中には、通常ではあまり考えられないような指や手の運び、時には音楽的内容を表現するために、伝統的な演奏習慣を排除しようとするような指使いを選択することもあった。他の版との比較を通しても、彼の指使いが極めて特異であることが浮き彫りになった。しかし、彼の特異な指使いは、隠れた旋律の強調や、個々の旋律の個性を特徴づけるもの、和声進行における音色の変化、リズムの生き生きとした動きを表現するもの、また、音楽のまとまりや方向性を示すものなど、音楽のあらゆる表情を生み出すようなものであることが見出された。そこには、奏者側の演奏の都合を優先させるのではなく、指それぞれの特質を利用し、音楽的脈絡に沿った指使いを徹底的に追及していたシュナーベルの姿勢が表れている。
 本研究において、シュナーベルの音楽理念や作品解釈と関連付けて考察したことにより、彼の指使いが生み出す演奏効果や音楽的表現の具体的な内容を提示するとともに、指使いの特異性の意味についても筆者なりに解明できた。シュナーベルは、演奏、教育、楽譜の在り方、また作品への取り組み方など、当時の音楽界における様々な側面に対して問題意識を持っていた。その中でも特に彼が強く主張していたのが、作曲家が書き記したテクストを正しく読み取ること、その背後に隠されている作曲家の本意を深く読み取ること、そしてそれを演奏表現に結びつける真のテクニックを身に着けることの重要性であった。ベートーヴェンが楽譜には記していない作品に内在する音楽的本質の部分を、様々な指示記号を用いて譜面上に可視化し、さらにそのような指示記号だけでは表しきれないような、演奏における最も複雑で精妙なものを具現化するための指使いを書き記した、ということがシュナーベル版における最も大きな功績であると言えるだろう。そして彼の指使いは、演奏者に身体的感覚を通して作品の中の重要な要素について「気付き」を与えるような、教育的な観点からも考えられた非常に意義深いものであることが分かった。



オーケストラ音楽にみるインダストリアル・ロックの影響
  ――マグヌス・リンドベルイの《クラフト》における80年代西ベルリンの痕跡

アム セチュン トニー(愛知県立芸術大学非常勤講師)

 フィンランドの作曲家、マグヌス・リンドベルイ Magnus Lindberg(1958-)の代表作《クラフト Kraft(1985)》には、オーケストラに産業廃棄物(ファウンド・オブジェクト)を打楽器として取り入れた特徴がある。それには、西ドイツのインダストリアル・ロックバンドの影響、即ちオーケストラ音楽とは異なるサブカルチャー音楽からの影響が見られ、オーケストラ音楽とは異なるジャンルの、サブカルチャー音楽から影響を受けた点で、特異な作品であると言える。本研究は、ドイツのインダストリアル・パンクロックバンド、アインシュテュルツェンデ・ノイバウテン Einsturzende Neubauten(1980-)(以下、ノイバウテン)の音色がリンドベルイの作曲語法に与えた影響を明らかにすることを目的としている。
 1980年代、ノイバウテンは産業廃棄物の破壊音を用いた音楽活動を行なっていた。一方、音色を中心とする作曲方法を模索していたリンドベルイは、1984年に西ベルリンでノイバウテンの音に出会い、感化され、《クラフト》の作曲に至った。筆者は、リンドベルイに影響を与えたファウンド・オブジェクトの音色が、ナチス政権が崩壊した後の西ベルリンにおいて生み出されたことに着目した。
 当時、西ベルリンでは戦後の政情不安が青年達の芸術活動にも影響し、独自のサブカルチャーが進化している最中であった。ノイバウテンが属していたサブカルチャーの特性を明らかにするため、1960-80年代の西ドイツにおける青年の社会活動について次の2つの事象に着目した。? 60、70年代の学生運動の暴徒化による政情不安の蔓延、そして? 80年代、政府の都市再生計画に反対するスクワッター運動(住居占拠行為)である。そこから、政府から独立してユートピア的なコミュニティを形成するムーブメントが生まれ、伝統や主流から一線を画し、アマチュア主義の美学に基づいた「真正な(authenticity)」創作活動を重視するサブカルチャーが発展した。その結果、ノイバウテンの音楽活動を含むサブカルチャーの根底に反ナチスの思想が強く影響していることが明らかになった。
 次に、ノイバウテンとリンドベルイのそれぞれの創作活動について探った。ノイバウテンの特徴である身近なものを楽器として用いる演奏方法について、彼らが影響を受けたというウォルター・ベンジャミン Walter Benjamin(1892-1940)の思想、アントナン・アルトー Antonin Artaud(1896-1948)の「残酷劇」の芸術的概念より考察したことにより、社会政治的な背景が、彼らのサウンドの誕生にいかに影響を与えているかが明確になった。続いて、70年代中頃に保守的なフィンランドの音楽界に属していたリンドベルイが、モダニスト、パーボ・ヘイニネンPaavo Heininen(1938-)に影響を受け、その後、大陸ヨーロッパのアバンギャルド音楽の追求、普及活動に至った経緯を述べた。さらに、《クラフト》に至るまでの初期作品の作曲語法に対する考察から、リンドベルイがセリエル音楽から解放され、新しい作曲語法を身につけた変移について明らかにした。
 続いて、20世紀に台頭してきた音楽におけるノイズの解放について注目し、リンドベルイとノイバウテン両者の作品を評価した。作曲スタイルの異なる両者が20世紀のノイズ解放の延長線上にあり、両者が同時代性を共有していることの意義を解明した。また、ファウンド・オブジェクトの身体性について、アリストテレスの「共通感覚」の考え方に基づき、ノイバウテンの演奏方法が、観客に及ぼす聴覚だけではない視覚的体験を促していることを指摘した。それがリンドベルイのオーケストラ会場での「空間化」にも影響を与えていることを述べた。
 さらに、「記号論」の視点から、双方と素材の相関関係について考察した。ノイバウテンにとって、楽器として用いた産業廃棄物は、戦後の廃墟と化した建物や民衆の暴力的デモを呼び起こすものであり、「捨てられたもの」を用いることで左翼アーティストとしての社会的アイデンティティを表現した。その上、彼らは素材の主目的を破壊し、新しい用途で用いることによって、当時の西ベルリンの社会政治的な時代精神を反映させた。それは、80年代の社会的ダイナミズムを象徴する力強い響きを生み出す記号論的行為であると言える。リンドベルイが西ベルリンで出会った金属音は、そうした社会的ダイナミズムが入り込み、本来書こうとしていた作品のスタイルを変えてしまうほどの強い衝撃を彼に与えた。しかし、彼のその音色に対する解釈では、社会批判の側面は微妙に排除されている。リンドベルイは音楽的関心に焦点を当てていることが明らかになった。
 《クラフト》の楽曲分析は、テクスチャー、構造、音響、空間化の枠組みで行ない、曲全体の構成においてファウンド・オブジェクトの金属音がどのような位置的な意味を持ち、どのような機能性があるのかを考察した。その結果、登場している力強いインパルス・サウンドにはファウンド・オブジェクトの金属音が用いられており、曲全体の構造において最も目につく重要な位置にあることを確認することができた。さらに、このことから、金属音が単に力強さを表すものではなく、曲の特異な世界観を確立させる要素として重要な意味を持つことが明らかになった。
 アンダーグラウンド・ロックと現代音楽は異なる性質、価値観の上に成り立っていて、ノイバウテンとリンドベルイの作曲語法にも決定的な違いがある。だが、20世紀の音楽家としての共通性、リンドベルイの音楽実験における時期的な要因などにより、インダストリアル・ロックから影響を受けて、その音色をオーケストラ音楽に組み入れることを可能にしたことと考えられる。また何より、その実現の根底には1980年代の西ベルリンの社会的ダイナミズムがある。戦後、新しい文化を創出した西ベルリンにおける社会的ダイナミズムこそ、リンドベルイに産業廃棄物を主要な楽器として《クラフト》に投入させ、インダストリアル・ロックの影響力を発揮させたと結論づけた。