日本音楽学会中部支部 第121回定例研究会報告
日時:2017年(平成29)12月2日(土) 13時30分~16時30分
場所:中京大学名古屋キャンパス 544教室
司会:明木茂夫(中京大学)
<研究発表>
金丸友理絵(愛知県立芸術大学大学院音楽研究科博士後期課程 鍵盤楽器領域)
「アルトゥール・シュナーベル(1882-1951)によるベートーヴェンのピアノソナタの解釈」
加藤いつみ
「一節切尺八の研究 ―江戸期に吹かれた一節切の手(曲)―」
<特別講演>
メアリー・ジャヴィアン(カーティス音楽院)
「カーティス音楽院における社会連携活動:病院アウトリーチの事例報告」
【発表要旨】
金丸友理絵(愛知県立芸術大学大学院音楽研究科博士後期課程 鍵盤楽器領域)
アルトゥール・シュナーベル(1882-1951)によるベートーヴェンのピアノソナタの解釈
本発表は、オーストリア出身のピアニスト、アルトゥール・シュナーベルArtur Schnabel(1882-1951)の校訂した、ベートーヴェンの
ピアノソナタを研究課題にとりあげ、その独自性を探り、再評価することを目的とした。
19世紀後半から20世紀初頭にかけて、「実用版」とよばれる楽譜が多く生み出されたが、シュナーベル版もまさにその時代に出版された。
シュナーベルは楽譜の校訂を行う際に、ベートーヴェンの自筆譜や初版譜などの一次資料に基づき、作曲家の意図することを最大限に尊重する
姿勢を保っていたということが、自身の証言からも明らかになっている。しかしながら、シュナーベル版に見られる、多くのデュナーミクや
アーティキュレーションの指示、細かいテンポ設定、そして特徴的な指使いなどから、実用版として定着しているのは事実である。しかし、
シュナーベルがベートーヴェンの意図したことを伝えようとして作った校訂版を、われわれは今一度、シュナーベル版が演奏者にとって
どのような価値があるのか、考え直していくべきだと思われる。
これまで、シュナーベルの音楽観および作品解釈についての研究は多く、その中には細かく指示されたデュナーミクや、随所に見られる
ローマ数字、テンポ設定についての研究も存在する。しかしながら、シュナーベル版の校訂報告にも、自身の指使いについて
記載されているように、シュナーベルが指使いに対して特別なこだわりをもっていたのは明らかである。これまでの研究では、
その特異性については述べられてはいるものの、それを大々的に扱っている研究は少ない。そこで、シュナーベルの音楽観を知るためには
非常に重要だと思われる彼の指使いに着目し、他の版との比較・検証をしながら、その奏法と解釈についての考察をした。
本発表ではまず、調査によって明らかとなったシュナーベルの指使いの特徴の中から5つの点、①指でレガートに弾ける指使い、
②フレージングやアーティキュレーションを表現できるような指使い、③指それぞれの特質を生かした指使い、④下行するノンレガートでの
統一された指使い、⑤タイの音での指換えについて説明した。そして、これらの特徴について、シュナーベルの言説をもとに、彼の
音楽的解釈との関連性について明らかにした。シュナーベルの、可能なかぎり完全な運指によるレガートが用いられるべきだという見解は、
①の特徴の、指でレガートに弾ける指使いと一致している。また、指使いは特別なフレージングを指示していることがあり、速度や
アーティキュレーションに影響を与えているという解釈は、②の特徴、フレージングやアーティキュレーションを表現できる指使いと、
④の特徴、下行するノンレガートでの統一された指使いと一致していることが明らかになった。
シュナーベル版によく見られる不可解な指使いも、重要なパッセージであることを考えさせるためにあえて難しい指使いを選択している、
というシュナーベルの考えによって生み出された独自の方法であることがわかった。弾きやすい指使いだけで合理的に演奏するのではなく、
あくまでも音楽的な表現をするための指使いにするべきだというシュナーベルの考えと、彼の指使いの特徴との強い関連性が明らかとなった。
加藤いつみ(名古屋市立大学名誉教授)
一節切尺八の研究 ―江戸期に吹かれた一節切の手(曲)―
Ⅰ.研究目的
1)一節切尺八(以降一節切と略記)の譜書から当時吹かれた手(一節切では曲のことを手という)を探る。
2)同じタイトルの手でも節は同じか。
3)当時どんな発想標語を用い、どのように奏していたか。
Ⅱ.研究内容
一節切は、真竹を素材とする縦笛であり、その起源は定かではない。構造は、前面に4つ、背面に1つの指孔があり、1つの節を持っている。
室町中期の雅楽家・豊原統秋(むねあき)(1450-1524)著の『體源鈔』(1512)の中にも“尺八”として5本の笛についての記述が見られ、また、
江戸期に入って上方では11冊の一節切の譜書が成立している。室町から江戸中期にかけて一節切の資料が多く残されているところから、近世には
盛んに吹かれたことが推測される。
今回は、それらの譜書のうち以下の3冊を選び出し、上記の3点について比較検討を試みた。
①『短笛秘伝譜』(慶長13 1608年)
大森宗薫著 享保9 1724年 遠江守太秦昌名写す。 宮城道雄記念館蔵
②『宗左流尺八手数并唱歌目録』
大森宗薫著(元和8 1622年)自筆譜 陽明文庫蔵
③『宗左流尺八手数并唱歌私之目録』(成立不詳)東京芸術大学付属図書館図蔵
Ⅲ.発表内容
以上、3冊の譜書の中から分かってきた一節切の手、さらに手に関する共通点・相違点、そして近世の人々が用いた音楽理論について探る。
①『短笛秘伝譜』は、一節切の「中興の祖」と呼ばれる大森宗薫(1570~1625)によって書き著わされた。現在、筆者の手元にあるものは、
遠江守太秦昌名が1724年に書き写したものである。この譜書には、蚩菴という宗薫の雅号が見られ、「五音音階」「時の声」といった中世の
雅楽の理論を基にして、当時流行っていた一節切の手が1冊の本に収められている。この譜書は、一節切の最初の専門書として、その後に続く
『尺八手数并唱歌目録』(原是斎著)、『糸竹初心集』(中村宗三著)、『洞簫曲』(村田宗清著)を産む引き金となった。
②『宗左流尺八手数并唱歌目録』は、1622年宗薫が中井長吉に贈呈したものであり、宗薫自身の朱印があるところから、彼の自筆譜ではないかと
推測される。この譜書は、前記した『短笛秘伝譜』同様に理論面が述べられ、その他、陰陽五行説など世間一般で言われていた陰陽道と
「五調子」が結び付けて記述されており、近世の人々の考え方、行動を知る事ができる興味ある資料である。
③『宗左流尺八手数并唱歌私之目録』は、著者・成立年度は不詳であるが、17世紀末頃に成立した譜書であると推量される。この譜書には、
奏法に関する細かい指示がされており、江戸期の人がどのように演奏していたのかを知る事の出来る貴重な資料である。
では、これら三冊の譜書から当時吹かれた手について探ってみよう。いずれの譜書も夫々に五調子に分けられ、20手程が収まっている。
今回は、その内、最もよく吹かれた黄鐘調(夏の調子(基音A)から拾ってみる。
3冊に共通してある手は、初手(しょて)、切(きり)(本手ともいう)、挫(ひしぎ)(高音ともいう)、手巾(しゅきん)の4曲である。
一節切の音階は、フ・ホ・ウ・エ・ヤ・リ・ヒの文字で書き表されている。その音階を五線譜に書き表すと次のようである。
図1 一節切の音階と五線譜の関係 |
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最低音のフ音はA(黄鐘)、ホ音はH(盤渉)とウ音はD(壱越)、エ音はE(平調)、タはF#(下無)である。
では、手はどんな節をもっているか、“挫”を3冊の譜書から具体的に書き表してみよう。
①短笛秘伝譜
チヽヽヤホヤチ。ウチヤチヽ。
チタエフ エヽヽヽヽヽフエタウタエ
②宗左流尺八手数并唱歌目録
チヽヽタホタチ。タチタチヽ。チタエフ
エヽヽヽヽヽフエタウタエ
③宗左流尺八手数并唱歌私之目録
チヽ(ツトル)ヽ(ツトル舌)ヽ(勝絶)タホタチ。タチタチヽ(ツトル)。チタエフエヽヽヽヽヽ
フエタウタエ。ウチタチヽ(ツトル)イ(ヌク)
①と②を比較してみると、違いが2箇所あった。①ではチヽヽヤとなっているが、②ではチヽヽタとなっている。また2節目では
①はウチヤチとなっているが、②はタチタチヽである。タとヤの違いはタあるいはヤと書かれていることもあり、音的には大きな違いではない。
しかし2節目のウ(D)とタ(F#)にはかなりの違いが感じられる。③でもタチタチヽと成っているので、①を書き写した太秦昌名の
写し違いかもしれない。③にはかなり詳しい手法が書き込まれている。チヽ(ツトル)ヽ(ツトル舌)ヽ(勝絶)タホタチ。
タチタチヽ(ツトル)等は、同じ音を指を変えて打ち直していく指示である。その奏法は、チヽ(ツトル)のツトルは音を打ち直す印である。
一節切はタンギングをしないのでこの場合は、チの音を右手の人差し指で打鍵するのである。また、ヽ(ツトル舌)とは、舌桿という最低音の
指穴を右手の薬指で打鍵し、ヽ(勝絶)とは、勝絶という音(D#)の出る穴を左手の薬指で打鍵するのである。そしてまた、最後に
イ(ヌク)とあるがこれはイの音(オクターブ上のD音)を消え入るように抜いていくことである。
Ⅳ.研究結果
以上、1)江戸期に吹かれた手、2)同タイトルの手でも節は同じであるか、3)どんな発想標語が用いられ、奏されたか、について
具体的な例を出して述べてきた。その結果、当時の人が好んだ手は、3冊の譜書にも見られるように何曲かはあった。また、同じタイトルの
手でも節にはわずかな違いが見られた。発想標語は、ヽ、ツトル(その音を打鍵する)、ヌク(消えるようにヌク)等が見られた。更に
比較検討を進めると別な標語もあるが、今回は、紙面の都合上この程度に留める。しかし実際に演奏を試みる場合、譜書には長さに関する
表記がなく、節の段落に○印が付いて息継を指示しているに過ぎない。今後、この面の研究を進めることにより、近世の人が吹いた奏法に
一歩近づけるのではないかと考えている。
【傍聴記】
安原雅之(愛知県立芸術大学)
メアリー・ジャヴィアン(カーティス音楽院)による特別講演の報告
演題:
メアリー・ジャヴィアン(カーティス音楽院)
Ms. Mary Javian (Curtis Institute of Music)
「カーティス音楽院における社会連携活動:医療における音楽」
Social Engagement of the Curtis Institute of Music: Healthcare in Music
通訳:安原雅之(愛知県立芸術大学)
フィラデルフィアのカーティス音楽院は、アメリカ屈指の名門音楽学校であり、これまで数多くの音楽家を排出してきた。学生全員に
奨学金が全額支給されることもよく知られており、入学はきわめてむずかしい。
カーティス音楽院では、一流のアーティストを養成しつつ、実技のほかに「キャリア教育(スタディーズ)」(コミュニティーに
入り込んでアウトリーチ活動を実施する方法などを座学と実習で学ぶ科目)が必修になっている。
今回の特別講演では、「病院アウトリーチ」の事例を中心に、カーティス音楽院における「社会連携活動」が紹介された。
講演の概要:
1. ソーシャル・アントレプレナー
今日最も成功しているプロフェッショナルな音楽家は、芸術に根ざしたプロジェクトを考案し、それを実施するにあたって、あらゆる層の
聴衆により深く関わっていくための方法を理解している。カーティス音楽院のカリキュラムにおいては、次の3つのステップを通して、
学生たちが「人の人生に意味ある影響を与える」ことを実践できるようなスキルを身につけていく。
①〈ソーシャル・アントレプレナー〉:半期の授業。全学生が必修。コミュニティーにおけるコラボレーションを通して、社会的価値を創造し、
維持することを学ぶ。
②〈コミュニティー・アーティスト・プログラム = CAP〉:次世代のクラシック音楽界を牽引する人材育成を目的とするプログラムで、上記の
授業を履修した学生が参加できる。CAPの参加者は、斬新かつ啓発的な、コミュニティーにおける市民のためのユニークなパフォーマンス
(演奏)のプロジェクトを起案し、実施する。プロジェクトには予算がつけられており、必要な経費をそれによって賄うことができる。
③〈コミュニティー・アーティスト・フェローシップ〉: これは、カーティス音楽院の地域貢献を強化すものであり、カーティス音楽院の
卒業生は、このプログラムを通して、フィラデルフィア市内の恵まれないコミュニティーに彼らの芸術を届ける。プログラムの参加者は、上記の
CAPで立ち上げたプログラムを継続することもできる。カーティス・コミュニティー・アーティスト・フェローは、練習や演奏活動とのバランスを
取りながら、カーティス音楽院の学校、病院、刑務所、リハビリセンター等との提携に基づいて社会的活動を展開する。また、CAPの
プロジェクトのメンター(指導員)として、プログラムを支える。
学生は、まず①を履修し、そのうえで②CAPに参加することができ、卒業後は③へ進むことができる。
2. 病院アウトリーチ
カーティス音楽院が社会的な活動を展開する場のひとつに「病院」がある。過去6年間で、カーティス音楽院は、病院、アルツハイマー病
センター、リハビリテーション病院やホスピスなど、医療を提供する7つの組織と提携を結んでおり、病院へのアウトリーチ活動は、さまざまな
形態で行なわれている。
まず、〈ソーシャル・アントレプレナー〉の授業の一部として、学生が病院に赴いて演奏する場合もある。また、CAPのプロジェクトの
ひとつで、ある学生が、病室で新生児のためにアイリッシュハープを演奏するプロジェクトを実施したところ、新生児に対して絶大な癒しの
効果がみられ、その学生が卒業したあとも、病院からの要請で、このプロジェクトは継続されることになった。その他、さまざまなプロジェクトが
実施されているが、病院の場合、聴衆(患者さん、あるいはその家族、医療関係者など)、演奏する空間など、さまざまな状況に合わせて、
臨機応変に内容を擦り合わせていく必要がある。
3. まとめ
カーティス音楽院の場合、ソーシャル・アントレプレナーとしての活動の場は多岐にわたっており、病院のほか、貧困層の生徒が多数を占める
学校や、刑務所なども含まれる。〈ソーシャル・アントレプレナー〉の活動は、単なる社会貢献ではなく、「音楽は社会を良くすることができる」
という信念に基づいたものであり、演奏家にとっての演奏の意義を問うものであった。
〈講師プロフィール〉
メアリー・ジャビアン(カーティス音楽院)
カーティス音楽院でフィラデルフィア管弦楽団の首席コントラバス奏者、ハロルド・ロビンソン氏に師事。卒業後、コントラバス奏者として
演奏する一方で、「音楽を使って地域社会にポジティブな変化を起こすこと」を目標に、さまざまな活動を精力的に行っている。
カーティス音楽院では学生の進路指導部長を務めている。21世紀の音楽家にとって必要な起業家精神と政策提言のスキルを養うカリキュラムを
立ち上げ、成功させているほか、家族向けや新しい観客創造に向けた公演の企画も行っている。そのほか、アメリカの音楽教育の二つの
非営利団体の役員としても活躍している。