日本音楽学会中部支部 第117回例会報告
日時:2016(平成28)年7月16日(土)13時30分〜16時30分
場所:名古屋芸術大学音楽学部(東キャンパス)5号館301教室
司会:水野みか子(名古屋市立大学)
<研究発表>
野中亜紀(中部大学大学院国際関係学専攻博士後期課程)「古代エジプト新王国時代の楽器―ツタンカーメン王墓から発掘されたトランペットの考察―」
高山葉子(愛知県立芸術大学非常勤講師)「マウリツィオ・カーゲル《Match-für drei Spieler》における知覚的統合―身振りと音響的要素の関わり」
鈴木恵深(愛知県立芸術大学大学院博士後期課程 鍵盤楽器領域)「演奏会からみる日本におけるシマノフスキの受容―日本シマノフスキ協会発足まで」
安原雅之(愛知県立芸術大学)「19世紀に編纂されたロシア民謡集の研究:プロクーニン/チャイコフスキーによる《65のロシア民謡》を中心に」
<研究報告>
金子敦子(名古屋芸術大学)DVD「一絃の琴 二絃の琴」の紹介
【発表要旨】
野中亜紀(中部大学大学院国際関係学専攻博士後期課程)
「古代エジプト新王国時代の楽器―ツタンカーメン王墓から発掘されたトランペットの考察―」
約3000年にわたる古代エジプト史は、大きく5つの王朝時代に分類される。その王朝時代は、3つの中間期をはさみ初期王朝、古王国時代、中王国時代、新王国時代、末期王朝があり、各々の時代には様々な音楽文化が花開いていた。
自身は修士論文まで古王国時代までの音楽図像を研究し分析を行ったが、博士論文を執筆するにあたり中王国、新王国時代まで時代の分析対象を広げて研究を進めている。その中で、今回は新王国時代に新たに出てきた楽器の1つであるトランペットについて発表を行った。
時代背景である新王国時代は、王が領土拡大を目指し、巨大な神殿が造られ、ツタンカーメンやラムセス2世など後世に知られる王が登場し、アマルナの宗教革命がおこった時代であった。
古代エジプトのトランペットは、シェネブと呼ばれ、存在が図像資料から確認されるのは新王国時代のハトシェプスト女王葬祭殿のレリーフが最初である。その後、アマルナ時代の壁画に多く存在が確認される。これまではアンサンブルの1つの楽器である、もしくは伴奏楽器であると説明されてきたが、自身は想定される音からそうではなく軍隊などで使用されるのが主だった古代エジプトのトランペットの使用場面であると考えている。王墓にトランペットが描かれることはなかったが、貴族の墓からは主に軍隊と同じシーンで描かれていることからもそれは裏付けられる。
遺物資料は、ツタンカーメン王墓から発掘されたTUT’ s Trumpetsが、発掘遺物の中でも唯一演奏できる楽器であるとともに、西洋音楽で使用されるトランペットの原型である。とこれまで評価されてきた。
ツタンカーメン王墓から発掘されたトランペットは2本ある。
数少ない先行研究では、2本のトランペットは対のものであると考えられてきたが、発掘場所を考慮するとそれは正しいとは言えない。トランペット1は玄室の東南の角から発見されたが発見時は葦の枝でまかれランプの下に置かれていた。これは明らかに何らか意図があると考えられる。トランペット1の素材は、当時のエジプトでは価値の高い銀で製作されている。
音を鳴らす実験として、1939年にイギリスのBBC放送による「チェリー・ピッカーズ」のジェームズ・タパーンによる演奏、1941年にヒックマンによる実験検証の2つの結果が残されている。
トランペット1、トランペット2はどちらもマウスピースを使用しない。しかし、1939年の演奏時は現代のトランペットで使用するマウスピースを無理やり使用し演奏を行っている。(そのためトランペット1には傷が残る)これらのことから、音色はある程度予想ができるが音階は正しいものとは考えにくい。
また、音響管のシミュレーションをしたところトランペット1およびトランペット2からはおそらく1つもしくは2つの音しか出ない可能性が高い、という予測ができた。現代のものより管は短いため軽い音がでるのではないかと予想できるが、音程を作り出すのは難しく、ファンファーレなどは不可能であると考えられる。現代においては、3Dプリンターなどを使って、正確に測定を行いトランペット奏者が演奏することで、ある程度正しい奏法を理解することが可能であると考えられる。
以上のことから、古代エジプトの新王国時代のトランペットは楽器として演奏するというより、信号楽器、軍隊などの伝令用などで使用した楽器ではないかと自身は考えている。
高山葉子(愛知県立芸術大学非常勤講師)
マウリツィオ・カーゲル《Match-für drei Spieler》における知覚的統合―身振りと音響的要素の関わり
本発表は、平成24年度に愛知県立芸術大学へ提出した博士論文「マウリツィオ・カーゲル《Match-für drei Spieler》における知覚的統合」 の内容から一部を取り出し、研究報告として行ったものである。
ドイツの作曲家であるマウリツィオ・カーゲル(Mauricio Kagel 1931-2008)は、「ミュージック・シアター(Music Theater)創作の旗手であり、最も多くこの分野に作品を送り出している作曲家の1人でもある。しかし、その作品数の多さや多様さに対して、個々の作品の詳細な分析は驚く程少ない。その理由は、これらの作品が、視覚と聴覚によって「演劇的要素」と「音響的要素」を同時に感受することで初めて成立するという性質を持つために、聴覚で受容される範囲を対象とした一般的な楽曲分析方法では、充分にその全体像を明らかにすることが出来ないからだと推察される。
筆者はこの問題を踏まえた上で、カーゲルの初期の代表的ミュージック・シアター作品のひとつである《Match-für drei Spieler》(1964)(以下、Matchと略)に対し、演劇学的方法を取り入れた分析を試みた。すなわち、楽曲中の「演劇的要素」を、ドイツの演劇学者であるハンス=ティース・レーマン(Hans-Thies Lehmann 1944-)が著書、『ポストドラマ演劇』で示した現代演劇の諸要素の定義によって分析し、音響的要素と重ねて観察することで、両者の融合の結果として舞台上に立ち現れる意味性を汲み取ろうとするものである。この方法により、Matchの全体像を「演劇的要素と音響的要素の知覚における統合」によって明らかにすることが、研究の目的である。
本発表では、Matchの曲中のF'(2小節後)からJ’(3小節後)に範囲を限定し、そこに見られる演劇的要素である「アインザッツ(どうぞ)」の身振りが、音響的要素と融合されることで、観る人にどのような意味を与えるのかについて解説した。この部分では、楽曲中に複数回行われるアインザッツのやりとりのうち、最終にあたる7回目のものが見られる。
Matchでは、2人のチェロ奏者が「ボールゲームのプレイヤー」、1人の打楽器奏者がゲームの「審判」として設定されている。7回目のアインザッツのやりとりは、ベルの音によって目覚めた(ように見かけ上は見える)2人のチェロ奏者から始められる。ここで行われる11回のアインザッツの見た目の移り変わりを表1に示す。
7回目のアインザッツのやりとりの冒頭では、2人のチェリストにより全く無気力なアインザッツが繰り返される。そこに割り込んでくる「審判」からのアインザッツは、チェロ奏者らを鼓舞するようかのように、まずマレットで、続いて右手によって行われるが、アインザッツを向けられるチェロ奏者は、その度にもう1人のチェロ奏者に責任転嫁をするかのようなアインザッツを行う。最後に「審判」は頭でチェロⅡへ合図を行うが、これも無視された後、遂に「哀れに」アインザッツを行う。このアインザッツは両手で行うように指示されており、視覚的には非常に印象が強いにも関わらず、カーゲルによって「哀れに」と指示されており、動作と相反する性格を持たされていると推察される。
次に、この場面での音響的要素の移り変わりを表2に示す。
「審判」の身振りが大きくなるに従って、響きの大きい楽器、大きい音量で演奏が行われる。これは「審判」の興奮の増大を意味すると言えるだろう。ただし、7回目のアインザッツの間、ひたすら共に大きくなってきた身振りと音質・音量の関係は、7回目の最後の瞬間に突然乖離する。ここで、「審判」は両手を広げ、今までのアインザッツの中で最大に大きな身振りを見せるのだが、そこで行われる音響はなんと鈴によるピアニッシモである。この相反する行為によって観客は、この瞬間が「審判の精神の崩壊」を意味していると知るのである。当然、この事実はこの作品を「聴覚」だけでもなく「視覚」だけでもなく、その両者で感受していなければ得られないものであろう。
このように、Matchという作品の全体像を知るには、視覚と聴覚で感受したものを頭脳で統合する作業が必要である。しかし、このような知覚の方法はけして特別なことではなく、我々が日常生活において至極当たり前に繰り返している行いに他ならない。
今後は、カーゲル作品はもとより、様々な作曲家のミュージック・シアター作品についても、その演劇的要素と音響的要素の関係性をつぶさに調べてゆきたい。それは、両者の関係性そのものが、多様なミュージック・シアター作品を分類するための手がかりとなると予想されるだけでなく、関係性を明確に示すことが、ミュージック・シアター作品受容の「入口」となる視点を与えると期待するからである。
鈴木恵深(愛知県立芸術大学大学院博士後期課程 鍵盤楽器領域)
演奏会からみる日本におけるシマノフスキの受容―日本シマノフスキ協会発足まで
カロル・シマノフスキ Karol Szymanowski(1882-1937)の作品は、現在ピアノ曲とヴァイオリン曲を中心に日本の楽壇に浸透しているが、ここに至るまでの受容の過程ははっきりとしていない。したがって本発表では、日本におけるシマノフスキ作品の受容の事始めとして、主に、1981年に日本シマノフスキ協会が発足するまでの演奏記録を調査し、それまでの日本におけるシマノフスキ作品の受容の変遷を明らかにした。
現段階で、日本で初めてシマノフスキ作品が取り上げられた演奏会と考えられるのは、1927年6月に開催されたミハイル・エルデンコのヴァイオリンリサイタルであり、この時彼は、《神話》作品30より〈アレトゥーサの泉〉と《3つのパガニーニ風カプリス》作品40を演奏していた。これ以降、外来演奏家によってシマノフスキの作品が徐々に演奏されるようになっていった。秋山竜英編『日本の洋楽百年史』をもとに、シマノフスキ作品が取り上げられた演奏会を調査すると、1927年から1940年までのシマノフスキ作品が取り上げられた10回の演奏会のうち、ヴァイオリン曲が7回と、その大半を占めていた。しかし、それらの演奏会評を新聞、雑誌等で調査したところ、ほとんどが演奏家やその演奏についての批評で、作品について言及されている記事においては、手短に述べるに留まっており、それほどの評価を受けているわけではなかった。
その後、1966年と1973年にポーランド国立ワルシャワ・フィルハーモニー交響楽団が来日し、日本各地で演奏会が開催された。1966年は全15公演中1公演で交響曲第2番作品19よりフーガが、2公演でヴァイオリン協奏曲第1番作品35が演奏された。また、1973年は全20公演中3公演で《聖母マリアへの連祷》作品59が演奏された。しかし、いずれの来日時にも、スタニスワフ・モニューシコ Stanisław Moniuszko(1819-1872)やクシシュトフ・ペンデレツキKrzysztof Penderecki(1933-)といったシマノフスキより新しい時代のポーランド作曲家の作品がプログラムに組み込まれ、そちらの方が高い評価を得ていた。
さらに、東京文化会館の1961年の創設から1980年までの演奏会記録を調査すると、その間にシマノフスキ作品が取り上げられた24回の演奏会中、16公演でヴァイオリン曲が演奏されていた。また、『音楽資料』(日本演奏連盟編)の創刊された1975年から1980年までに掲載されている、シマノフスキ作品の取り上げられた18回の演奏会中、11公演でピアノ曲が、6公演でヴァイオリン曲が演奏されており、戦前と比べてピアノ曲の演奏される機会が格段に増えていることが明らかになった。また、ヴァイオリン曲の中でもとりわけよく演奏されていたのは、《神話》作品30より〈アレトゥーサの泉〉であり、この頃にはすでに演奏会の1つのレパートリーとなっていたと言える。さらに、戦前と比べ、日本人がシマノフスキの作品を演奏する機会が格段に増えていた。
1981年には日本シマノフスキ協会が発足した。設立当初は会長を井口基成、運営委員を西塚俊一、森安芳樹、松平朗、田村進が務め、協会の活動は主にピアノや弦楽器によるソロおよび室内楽作品の演奏会の開催であった。1982年には、「カロル・シマノフスキ生誕100年記念」と銘打ち、5名の森安芳樹門下生により3回にわたって「ピアノ曲全曲連続演奏会」が開催され、ソナタ第3番作品36、《2つのマズルカ》作品62、《4つのポーランド舞曲》が日本初演された。さらに、シマノフスキ協会の設立後、続けて2種類の日本版楽譜が出版された。1989年から1990年にかけて、日本で初めてシマノフスキのピアノ作品のみを取り上げた『シマノフスキアルバム』(全2巻)が音楽之友社より出版された。これは、ソナタ第1番ハ短調作品8を日本初演し、日本シマノフスキ協会の理事も務めていた片岡みどりによって校訂されているが、全ピアノ作品を網羅しているわけではない。その後、1992年から1993年にかけて、シマノフスキの全ピアノ作品が掲載された唯一の日本版楽譜『シマノフスキ全集』(全4巻)が春秋社より出版された。この楽譜は、日本シマノフスキ協会の運営に携わっていた森安芳樹、田村進の両氏によって編集・校訂されている。
このように、日本では1927年からシマノフスキの作品が演奏されてきたが、それほどの評価を得るわけでもなく、ワルシャワ・フィルハーモニー交響楽団の来日時には、より新しい時代のポーランド音楽の陰に隠れてしまっていた。しかし、1960年以降になると次第にシマノフスキ作品が演奏される回数は増えていった。また、1960年代まではヴァイオリン曲が中心だったのに対し、1970年代からはピアノ曲が演奏される機会も増え、その頃から次第にピアノ曲の受容が高まっていったものと思われる。そして、そうしたピアノ曲の受容の高まりの中で、1981年に日本シマノフスキ協会が発足し、「ピアノ曲全曲連続演奏会」が開かれ、ピアノ作品の楽譜が出版されたという受容の変遷をみることができた。
安原雅之(愛知県立芸術大学)
19世紀に編纂されたロシア民謡集の研究:プロクーニン/チャイコフスキーによる《65のロシア民謡》を中心に
19世紀後半に、いわゆる“ロシア5人組”と、サンクトペテルブルク音楽院を1期生として卒業したP. I.チャイコフスキー(1840-1893)が台頭し、ロシア音楽は飛躍的な成長を遂げたが、その発展のプロセスにおいては、西洋音楽のテクスチュアに、いかにロシア的な要素を取り込むかということが大きな課題であった。そして、ロシア民謡は作曲家にとって非常に重要な要素となった。
たとえばM. I.グリンカ(1804-1857)は、召使たちが歌う民謡を通して音楽に接したと言ったが、19世紀に活躍した作曲家たちはみな貴族階級の出身であり、彼らにとって、民謡はある意味で異文化であったと言えるのではないだろうか。つまり、民謡は作曲家たちの日常生活に根付いたものと言うよりは、創作のために探求すべき素材であった。そのような状況のなかで、〈ロシア民謡集〉は非常に重要な情報源となったのではないか。
19世紀には、数多くの民謡集が編纂され、出版されているが、現在では、それらはほとんど忘れられた存在となっている。それには、民謡集ならではの特質が関与していると言えよう。つまり、ほとんどの民謡集で、民謡は西洋音楽の和声にもとづくピアノ伴奏付きの楽譜として記譜されており、かならずしも民謡本来のかたちを提示しているとは言えない。そして、そのような理由から、音楽民族学的な民謡の研究においては重要視されない。また、ピアノ伴奏がついていても、実際にそれを声楽曲として歌うようなものでもなく、結果的に、次第に忘れられていったのである。
複数の民謡集に収録されている曲を比較すると、一部は共通していることがわかる。つまり、当時出版された民謡集に含まれるレパートリーを集約することによって、当時伝わっていた民謡の総体を浮かび上がらせることができるだろう。
最も古いロシア民謡集として、次の3つを挙げることができる。
まず、M. D.チュルコフ(1740-1793)によって編纂され、1770年から74年にかけて出版された『さまざまな歌のコレクション』が、印刷されたものとしては最古のものである。これは、歌詞のみをまとめたものであった。次に、楽譜を含むものとしては最も古い、V. F.トルトフスキー(ca.1740-ca.1810)による民謡集が挙げられる。これは『楽譜付きロシア民謡集』と題されたもので、それぞれ20曲を含む4巻が、1776年から95年にかけて出版された。この民謡集に含まれる曲のいくつかは、V. A. パシュケーヴィチ(1742-1797)、A. N. セローフ(1821-1871)、M. P. ムソルグスキー(1839-1881)らのオペラなどに引用されている。
そして、初期のものとして最も重要な、N. A.リヴォフ(1751-1804)とI.プラーチ(1750-1818)による『旋律つきロシア民謡集』がある。リヴォフとプラーチは、共同でロシア民謡集を編纂したが、初版は100曲の民謡を含むもので、1790年にサンクトペテルブルグで出版された。それは、ロシアの田舎と都市の両方で採集された民謡を含み、楽譜は、歌詞付きの民謡の旋律に鍵盤楽器様の伴奏が付され、また1曲ごとに歌詞が併記されている。1806年に出版された第2版では、初版の100曲のうちの97曲に、新たに53曲が加えられ、計150曲が収録された。そして、第3版が1815年に、さらに、新しいイントロダクションが含まれた第4版が1896年に出版された。20世紀になっても、第5版がモスクワで出版されたほか、1987年には、1806年版のファクシミリ版が、英語による解説付きでアメリカで出版され、この民謡集が比較的容易に入手できるものとなった。
これら3つの民謡集が核となって、19世紀には一連の民謡集が編み出されていったが、プロクーニン/チャイコフスキーによる《65のロシア民謡:一声部とピアノのための》もそのひとつである。V. P. プロクーニン(1848-1910)は、ロシアの民俗学者、作曲家、教師であり、モスクワ大学で法律を学んだのち、モスクワ音楽院で、チャイコフスキーとN. G. ルビンシテイン(1835-1881)に師事した。1872年から73年にかけて、チャイコフスキーの編集によるロシア民謡集を刊行した。ここに含まれる民謡は、1870年代初頭以降にプロクーニンによって収集されている。編集の過程について、詳しくはわかっていないが、モスクワ音楽院の学生だったプロクーニンの要請によって、チャイコフスキーが編集したと考えられる。まず第1巻(第33番まで)が1872年に、そして第2巻(第65番まで)が翌73年に、いずれもモスクワのユルゲンソン社から出版された。それぞれの曲について、プロチャージナヤ(延べ歌)やホロヴォードナヤ(群舞)などの民謡の種類、採譜された土地名が記されている。ここに含まれる65曲のうち、少なくとも11曲は、チャイコフスキーが自身の作品で引用していることがわかっている。
今後、他の民謡集についても調査を行っていくことで、民謡の実態が次第に明らかになっていくと考えられる。
<研究発表>
明木茂夫 (中京大学)
曾侯乙墓出土「朱漆描金篪」の形状と『爾雅・釈楽』「一口上出」の解釈について──『中国音楽史図鑑』の翻訳に際して気づいたこと
曾侯乙墓から出土した二本の竹製朱漆描金横笛は、その一本が「笛」、いま一本が「篪(ち)」であるとされている。発表者はこのたび劉東昇他編著『中国音楽史図鑑・修訂版』(人民音楽出版社2008年)の日本語翻訳版を上梓した(科学出版社東京/国書刊行会2016年)。本発表では、本書の翻訳とそれに伴う調査の課程で得た「篪」の形式や形状に関する知見を紹介し、出土品を「篪」と見なすべき条件について考察した。
本書は「篪」に関する古典的記述として漢の蔡邕の『月令章句』、『太平御覽』所引『五経要義』、『爾雅』「釈楽」の郭璞注の三つを挙げる。そして曾侯乙墓横笛の特徴として笛の両端が塞がれた「閉管」であること、吹き口と指孔とが同一平面上にないことの二点を挙げる。前者については『月令章句』の「有距」、『五経要義』の「有底」という記述がこれに当たるとしており、こちらは首肯し得る。一方後者については、「釈楽」郭璞注の「一孔上出」がこれに当たるとしているが、こちらにはやや疑問が残る。まず本書は「吹き口と指孔とが同一平面上にない(原文:吹孔和按音孔不在一個平面上)」と述べており、そのままでは意味が分かりにくいこと。さらに郭璞注の「一孔上出」は従来「吹き口が管の表面よりも突出している」と解釈されることが多かったのだが、曾侯乙墓横笛の外見は一本の竹管であり特に突出した部分はないことである。
では本書は、曾侯乙墓横笛のどういった特徴を以て、郭璞注の「一孔上出」に当たると見なしたのであろうか。出土品の鮮明な画像や三面図などを参照した結果、この笛は、管表面の一部を平らに削って細長い平面を作り、その平面上に指孔が開けてあることが分かった。吹き口が指孔と同一平面上にない、ということはつまりこの平らに削った面とは離れた場所に吹き口が作られている、ということであり、本書の著者は郭璞注の「一孔上出」もこのことを述べていると解釈したのである。事実曾侯乙墓横笛の吹き口は、指孔を結んだ直線からかなりずれた位置に開口しており(管の断面中心との成す角で90度ほど)、この点からも指孔の並ぶ平面とは離れていると言える。現在孔子廟などで用いられている「篪」も同様に吹き口と指孔とは、ずれた位置にある。
その一方で郭璞注の「一孔上出」は、一つの孔が管よりも飛び出していることと解釈されてきた。では実際にそのような形状の横笛は存在するのであろうか。北宋の陳暘の『楽書』巻一百三十「竹之属」には「義觜笛」と呼ばれる、吹き口が突起した横笛の図があり、「今の髙麗またこれを用う」と記されている。朝鮮半島の資料を見るに、『楽学軌範』巻之六「雅部楽器図説」には「篪」が収録されていて、その図には「ひょっとこ」の口のように突出した吹き口が描かれている。また前掲『楽書』「竹之属」には「七星管」という横笛の図が収められており、これには「十手」のような突起が描かれている。さらに、名称は不明ながら敦煌「莫高窟」の第158窟壁画にも「十手」のような突起を持った横笛が見える。今後は、特に突起を持たない閉管の横笛の「篪」とともに、突起を持つ形式の横笛についても、文献や実物資料を広く調査し、その形状や奏法について考察して行く必要があろう。