第100回例会報告
日本音楽学会中部支部
日時:2010年12月11日(土)13:30-17:00
会場:名古屋芸術大学 音楽学部 1号館701教室
【研究発表】 司会:金子敦子
1 アンリ・ジル=マルシェックスの日本における音楽活動と音楽界への影響 ―1925年の日本滞在をもとに―:白石朝子(愛知県立芸術大学大学院音楽研究科博士後期課程)
3 「楽器の伝播とグローカリゼーション—大正琴の場合—」:パネリスト:金子敦子(司会兼)、尾高暁子、梅田英春、田中多佳子 1 白石朝子(愛知県立芸術大学大学院音楽研究科博士後期課程) アンリ・ジル=マルシェックスの日本における音楽活動と音楽界への影響 ―1925年の日本滞在をもとに―
アンリ・ジル=マルシェックス(Henri Gil-Marchex 1894-1970)は、ディエメ(Louis Diémer 1843-1919)、コルトー(Alfred Denis Cortot 1877-1962)に師事し、パリ音楽院を首席で卒業後ヨーロッパを中心に活躍したフランス人ピアニスト、作曲家である。日本には1925、31(2回)、37年に訪れており、全国各地で演奏会や講演を行った。また滞在中には日本音楽を研究し、フランスの音楽雑誌に論文を載せて日本音楽を紹介したばかりでなく、《古い日本の二つの映像Deux Images du Vieux Japon》を残している。
本研究では、全4回の中から第1回目の来日を採り上げ、当時発行されていた音楽雑誌計4誌と新聞計17紙、さらに彼の日本における音楽活動がフランスに伝えられた新聞記事と彼の活動に関わった日仏会館が大正14年より年度末に発行した『財団法人日佛會館報告書』の調査をもとに、彼の音楽活動の全貌解明と日本の音楽界が示した反響や与えられた影響について考察することを目的としている。当日は、これらの資料を紹介しながら発表を行なった。 2 清野則正(名古屋市立大学大学院芸術工学研究科博士後期課程) 「あいちトリエンナーレ2010」を終えて
1)愛知トリエンナーレ2010について パネリスト:金子敦子(司会兼)、尾高暁子、梅田英春、田中多佳子 「楽器の伝播とグローカリゼーション—大正琴の場合—」
本シンポジウムは、科研「楽器におけるわざ学の伝承とグローバリゼーション」(基盤研究C、平成20~22年度)による共同研究の成果の一部を公開し、広く意見を求めるために行ったものである。今年度は科研の最終年度であり、来年は大正琴が発明されて百年に当たる年であることから、特に大正琴に関する研究に焦点を当てたこのシンポジウムを企画した。まず、冒頭で、田中が研究全体の主旨説明(1)を行った後、金子が日本の大正琴について(2)、尾高が台湾の事例について(3)、梅田がインドネシアの事例について(4)、田中がインドの事例について(5)報告を行い、最後に質疑応答および総括(6)を行った。以下、この流れに沿って要旨をまとめる。
2 「あいちトリエンナーレ2010」を終えて:清野則正(名古屋市立大学大学院芸術工学研究科博士後期課程)
【シンポジウム】
【研究発表】 司会:金子敦子
今回の調査で、日本の音楽界は、薩摩治郎八の働きかけによってジル=マルシェックスの来日を7ヶ月前から報じ、彼は約3ヶ月の日本滞在中、帝国ホテルでの6夜にわたる演奏会を皮切りに東京、横浜、神戸、京都、大阪で22回の演奏会を行ったことが明らかになった。その中には、外国人演奏家で初めて成し遂げられた御前演奏や報知講堂において日本への別れと感謝の気持ちから企画された無料のコンサートも含まれている。
ジル=マルシェックスの演奏については、当時の新聞に増澤健美、小松耕輔、平田義宗の3人が批評を載せ、「先進的ピアニスト」「驚くべき音響の詩人」「氏独特の個性」と紹介された。
また、ジル=マルシェックスは、日本滞在中に新聞や雑誌の取材に応じ、当時のフランス音楽の傾向や印象派について語っている。そして、将来は日本音楽の影響を受けるとの予測から日本音楽の重要性を挙げた上で、日本の音楽家に西洋音楽のハーモニーを取り入れることを助言した。
さらに、帝国ホテルにおける演奏会プログラムに載せられたエコール・ノルマル音楽院の宣伝記事や、1926年2月15日付Paris-Midi「ジル=マルシェックスが…日本に一種の音楽の革命を引き起こしたことは確かだ。この発見によって驚嘆させられた東京の若い人々はフランスに音楽を学びに行くことを決めた。」という報道から、ジル=マルシェックスの来日は、フランス留学への道を切り拓いたきっかけとなったことが明らかになった。実際に、原智恵子(1914-2001)と宅孝二(1904-1983)は、パリでアンリ・ジル=マルシェックスにピアノを教わっており、彼らは後年日本の音楽界の発展に貢献している。
また、作曲界においても、松平頼則(1907-2001)や石田一郎(1909-1990)や清瀬保二(1900-1981)の記述から、ジル=マルシェックスによって演奏されたフランス音楽から受けた感銘が、彼らのその後の音楽活動に対して大きな影響を与えたことが明らかになった。なかでも、松平はジル=マルシェックスが2度目の来日中であった1931年4月に第1回ピアノリサイタルを開いて、ドビュッシー、ラヴェル、サティ、オネゲル、プーランクの作品、そして最後に自作曲を演奏するというプログラムを披露している。
アンリ・ジル=マルシェックスは約3ヶ月の日本滞在中、22回の演奏会を行い、総数137曲を披露した。当時、ドイツ音楽が主流であった日本の音楽界において、彼が披露したバロック期から始まる音楽史を網羅したプログラムは、その構成によって偏重のない西洋音楽の歴史を語り、彼のもつ音楽観や新しい奏法による演奏はバロック、ロマン派の作品の新たな魅力を伝え、近現代の作品への興味を抱かせた。また、彼が肌で感じていたフランス音楽界の当時の現状と日本の音楽界に対する今後の期待を言葉にして語ったことは、演奏に加え日本の音楽界に対して衝撃を与えたといえる。さらに、彼の来日はフランス留学への道標となり、後に日本の作曲界を牽引する存在になる青年たちに力を与えたことが明らかになった。
アンリ・ジル=マルシェックスは、1925年の来日後も6年ごとに計4回日本を訪れ、変化していく日本の音楽界を体感した。アンリ・ジル=マルシェックスと日本の音楽界、両者にとって第1回目1925年の彼の日本滞在はその始まりであり、この成功が31年、37年の来日へと結びつくこととなる。今後、彼の成し遂げた業績を掘り起こすべく、研究を続けていきたい。
本研究にあたり、財団法人日東学術振興財団より研究助成をいただきました。
心からお礼申し上げます。ありがとうございました
1−1)背景・経緯・概要・テーマ
「あいちトリエンナーレ2010」は国立国際美術館館長を務める建畠晢を芸術監督とし、8月21日~10月31日の72日間の日程で、名古屋市の愛知芸術文化センターや名古屋市美術館、長者町、納屋橋などを会場に開催され、最終入場者数57万2023人の人々が訪れた。
テーマは『都市の祝祭 Arts and Cities』であり、三つの基本方針が示された。①美術を中心とした現代芸術の先端的な動向を、国際的視点から紹介する。②都市の祝祭としての高揚感を演出する。美術館や劇場にかぎらず、まちの中に進出してゆき、都市の中に非日常的な光景を出現させること。③現代美術を基軸にしつつ、オペラやダンス、音楽などのパフォーミング・アートにも積極的に取り組み、ジャンルの垣根を越えた積極的な交流が起きるような機会となることを目指す。
2)「あいちトリエンナーレ2010」の開催目的・企画内容・事業内容
2-1)開催目的
開催目的は①「新たな芸術の創造・発信により、世界の文化芸術の発展に貢献する」②「現代芸術等の普及・教育により、文化芸術の日常生活への浸透を図る」③「文化芸術活動の活発化により地域の魅力向上を図る」の3点であり、この目的からは、現代アートと人々を出会わせることで、文化による都市の活性化を図るというシンプルなことを考えられていたと考えられる。
2-2) 主催事業
2-2-a) 現代美術の国際展
世界各国から75組のアーティストが出品する最先端の現代美術を紹介する国際的な展覧会。美術館だけではなく、町中に現代アートがはみ出してゆくような形式の展示が見られ、まるで現代アートのプラットフォームのように思えた。
2-2-b)パフォーミング・アーツ
国内外から21組のアーティストが出演、「先鋭的、複合的なパフォーミング・アーツ」が開催された。パフォーミング・アーツの公演そのものは、街中など、様々な空間性で観ることができた。
2-2-c)あいちトリエンナーレ2010プロデュースオペラ
新作オペラ、オッフェンバック作曲「ホフマン物語」の上演。愛知芸術文化センターの大ホール機構を使用した、ここでしか観ることができないオペラ。
2-2-d)映像プログラム
「映像の第二世紀にむけて」というテーマで組まれた作品群について、担当キュレーターは「作品をまとめることで見せることで、作家の資質や方向性、テーマ性、狙いなどが見えやすくなる」とし、プログラムが組まれた。
2-2-e)企画コンペによる展覧会
公募によって選ばれた、他の国際展等には観られない多角的で、ユニークな視点による企画展。
2-2-f)教育・普及
子どもたちが自由に創作活動が出来る空間「デンスタジオ」や「キッズトリエンナーレ」というトリエンナーレ鑑賞ツアーなども開催された。
2-2-g)共催事業
国際交流基金との共催事業、七ツ寺スタジオとの共催事業、東海テレビとの共催事業、祝祭ウィークにおける公募共催事業があった。
3)「あいちトリエンナーレ2010」の主な会場やその場所性
3-1)
主な会場は愛知芸術文化センター、名古屋市美術館、納屋橋、長者町の4カ所を結ぶ四角形で催されていた。そのほか、七ツ寺スタジオという名古屋のアートシーンを飾ってきた場所や、名古屋城という都市のシンボリックな場所での作品展会が観られた。その中でも印象に残っている愛知芸術文化センターと、長者町、をピックアップする。
3-1-a)
愛知芸術文化センターはやはりホール機能が充実しているため、「劇場機能を活かしたオペラ公演」「パフォーミング・アーツ」の企画中心に展開されていた。愛知県美術館の中で観る作品あったが、今回は街にはみ出した現代アートのほうが興味深いと感じた。
3-1-b)
長者町エリアは、古い町並みと現代のアートが交差する場所。現代アートがフラットにあり、自由にその作品について話しながら鑑賞できた。また、「まことクラヴ」等のパフォーマンスも、都市という新たな空間性の中での新鮮さがあった。
4)アートにみる祝祭とは
4-1-a)都市空間のシンボリックな場所とアート
草間彌生の《命の足跡》は栄地区の都市公園「オアシス21」の屋上にある「水の宇宙船」に、マゼンダ地に黒の水玉模様の浮き島を15個浮かべた作品で、シンボリックな場所にある作品。普段の都市公園の環境の中にヴィヴィットで異質なものが存在している、ある種の違和感が普段の風景にズレを生じさせる作品。
池田亮司の《スペクトラなごや》は、光と音のサイトスペシフィック・インスタレーション(特定の場所に帰属する性質)として名古屋城二の丸広場に2日間、オールナイトで実施された。
4-1-b)街の歴史風景とアート 長者町
志村信裕は、身近な素材を被写体とした映像を路地裏、樹木などの都市の隙間や建築内に投影するインスタレーションを展開。長者町の景観に着目し、店舗の庇をスクリーンにした作品。
ルシアン・コッホの先品は、光と色彩を用いたインスタレーションで、店先や日よけ、繊維製品、傘など様々な場所や形に色彩豊かなグラデーションのパターンを適用していた。
どちらの作品も、街の歴史や風景を取り込んだ展示が展開されていた。
4-2)「あいちトリエンナーレ2010」の祝祭とは
都市の生活空間、屋外での展示作品において、アートによる非日常的な光景が介在することで、私たちの想像力が刺激され、普段見慣れていた街が、スペクタル性を帯びてくる。つまりアートという方法、手段を用いた「にぎわい」による街の高揚感を喚起することである。展示方法や公演のあり方について、東京現代美術館チーフキュレーター:長谷川裕子は、トリエンナーレを「都市を巻き込んだワークショップ」と表現した。また、場所とアートの関係からは、都市型の芸術祭の祝祭性とはどのように浮かび上がったのか。ゲストキュレーターのピエル・ルイジ・タッツィは「アート作品で街に刺激を与えたい。そこで何がおこるか実験してみたい。」「名古屋は「空虚感」(void)」=「可能性のある空き地」と表現している。
このように、アートは人と人の間に、「日常」と「非日常」を介在させることができる。都市の祝祭におけるアートの存在地点というのは、都市という硬質な場所の空虚感にあるのではないだろうか。
【第2部;シンポジウム】
1.はじめに(田中)
物質的にとらえがたい音楽は、ハードウェアとしての楽器と密接に関わっており、音楽の変化や人々の嗜好は楽器に反映されるため、楽器を観察するとそれらが見えてくるのではないか。私たちは、グローバリゼーションという観点から、世界各地でさまざまな楽器の動きや変化を観察してきたが、中でも大正琴は当初から私たちが強い関心を抱いて観察してきた楽器である。大正元年に日本で発明された楽器が、東アジア、東南アジアあるいは南西アジアへと伝播し変容していった。しかし、音楽学的な研究対象としての重要性がほとんど認められなかったために、これまでに見るべき研究も行われないままで、未だに不明の点も多い。各々の地域における調査にもとづいた研究成果を中間報告する。
2.日本の大正琴について(金子)
大正琴は、大正元年(1912)に名古屋市出身の森田吾郎(本名:川口仁三郎)によって考案された、日本生まれの洋楽器第1号である。邦楽器である二弦琴と、ピアノの鍵盤装置に似た西洋風機械メカニズム(音階ボタン)が合体した構造を持ち、当時の日本では大変珍しい楽器として人々の注目を集めた。その後、太平洋戦争の影響により一時衰退するものの戦後人気は復活し、今日その愛好者は数多い。
ところで、大正琴は戦前まではインド、スリランカ(当時はセイロン)、中国などのアジア諸国に輸出されており、中でも主な輸出先は中国とインドであった。それらの国においては、「日本の琴」といえば「大正琴」を指すほどであったらしい。しかし、大正琴の輸出量が伸びれば伸びるほど、一方では粗製乱造品が出回るようになり、時の政府は大正琴を重要輸出品目に指定して、監督と保護に力を入れるようになった。さらに、監督官庁のみならず民間レベルにおいても、大正琴の品質管理と販売拡大を監督すべく組合が組織された。その代表例として、愛知・岐阜両県を中心とする大正琴製造業者により組織された「名古屋輸出楽器玩具工業組合」(当時の名古屋昭和区白金町)が挙げられる。組合役員には、大正琴発明者の森田吾郎、東京新宿コタニ楽器(2002年閉店)の初代社長古谷浅次郎、名古屋大須の楽器店経営者であった池田太郎などがいた。
3.台湾の大正琴について(尾高)
3-1.伝来と流行 大正琴の呼称は台湾と大陸でことなる。台湾では孫文の仮名‘中山’をとった‘中山琴’が定着し、大陸では鳳凰琴、大衆琴、和平琴、娯楽琴などまちまちである。大正琴は、通説では1920年代の初めに台湾と中国大陸に伝わったとされ、台湾では大流行したが、その裏付けとなる記載は乏しい。日本植民地下の代表的日刊紙『台湾日日新報』も、邦楽や歌舞伎に紙面をさいても大正琴には触れず、大正琴の販売広告を載せる上海の日刊紙「申報」とは対照的である。これは当時の台湾で、邦人台湾人を問わず、知識層が大正琴に関心を持たなかった反証といえるかもしれない。とはいえ以下の諸情報から、1940-70年代の流行がおぼろげに浮かび上がる。1)1940年代以降、客家人の八音(伝統器楽)が、市場競争のなか、洋楽器導入の一環として大正琴をとりいれた。(台湾行政院客家委員会作成サイト「楽器」参照)。②The National Geographic Magazine 1956年2月号。村の戸外で男性が大正琴を演奏する写真を掲載。③市民の懐古談:1950-60年代後半に家庭で大正琴に親しんだ体験(1950年生まれの美術評論家、李長俊氏ほか)。
3-2.衰退と再登場以後 1970年代に台湾が経済成長期を迎えると、人々は伝統音楽や既往の音楽文化に関心を失い、大正琴も過去の存在となった。大正琴がふたたび台湾に登場するのは1989年11月で、台湾の東和楽器木業公司との共催で、琴城流が大正琴の日台親善演奏会を開催した時点である。カワイピアノの台湾総代理である東和は、カワイを介して鈴木楽器から委託を受け、1980年代後半から10年間、大正琴を生産した。1989年と1991年には、同社のエレクトーン講師が鈴木楽器の大正琴検定を受け、台湾全土に散って大正琴教習の拠点となった。また東和の職員が琴城流の教則本を中国語に翻訳し、さらに台湾の民謡等を含めた独自の教材も作成した。こうした基盤のもと、鈴木楽器をバックボーンとする琴城流が、2000年代の初めにかけて日台双方で交流演奏会を行ったが、2002年を最後に交流はストップする。2010年現在、台湾の大正琴はマイナーな存在で、台湾独自の音楽文化を形成してはいないものの、老人ホームの娯楽、生涯教育の教習課目、大道芸として生き残っている。以上の報告は、発表者が2010年3月に田中多佳子氏と行った台湾調査と、その後の補足調査に基づく。陳維宏東和楽器支配人や琴城流の吉崎氏ほか、情報を提供された各位に紙面を借りて御礼申し上げる。
4.インドネシアの大正琴について(梅田)
本発表は、インドネシア、バリ島の二地域に伝承する大正琴の演奏事例を報告したものである。バリ島には、中西部タバナン県プジュンガン村および、東部カランガッスム県アムラプラ周辺各地域に大正琴が伝承されている。前者地域ではノリンnolin、後者ではプンティンpunting、マンドリンmandolinとよばれており、その楽器の出自が日本であることは現地の人々には全く知られておらず、ただ外来の楽器(中国、あるいはジャワ島やロンボック島)が20世紀前半に伝承したものと考えている。
楽器はそれぞれの地域において演奏者自身や楽器製作者により作られているが、装飾としてその一部に彫刻が施され、音階ボタンにはコインなどさまざまな素材が使われるほか、弦の数などに違いはあるものの、基本的には日本の大正琴の形態をとどめている。しかし、その演奏方法は、日本のように卓上で演奏するのではなく、ノリンの場合は演奏者が地面に胡坐をかいて、楽器を地面に直接おくか、あるいは胡坐をかいた片腿に楽器の一方をのせて傾けて演奏するのに対し、プンティン、マンドリンは、ギターのように抱えて演奏する。
ノリンの演奏は、アンサンブル形態をとる。プジュンガン村ではこのアンサンブルをガムラン・ノリンとよび、6台から8台のノリンに加え、ガムランに必要なさまざまな拍節楽器が加えられ、15人から20人で演奏する。曲目は青銅製のガムラン・アンサンブル(ゴング・クビャル、ガムラン・アンクルンなど)の作品が大半であり、その点から、青銅製ガムランの代用のアンサンブルとしての役割を果たしていたといえる。1950年代からアンサンブルとして演奏されていたことは明らかで、1990年代には二度、バリ島芸術祭に参加し、バリのローカルレーベルから、このアンサンブルを録音したカセットテープが発売されている。
一方、カランガッスム県のプンティン、マンドリンはさまざまな用いられ方をされている。この地域の大正琴については現在調査中であることから、本発表では1980年代に成立した芸能であるゲンジェとよばれる声楽の伴奏音楽として用いられるプンティンを紹介した。この伴奏では、プンティンが一台用いられ、スリンとともに歌の基本旋律を演奏する。
カランガッセム県にはゲンジェの事例以外にも、さまざまな編成の大正琴が今なお伝承されていることから今後はこの地域の調査・研究を継続していく予定である。
インドの大正琴について(田中)
本発表は、主に、2004年と2008年に、インドの大都市ムンバイのいわゆるスラムに住む大正琴職人兼演奏家を対象に、塚原康子氏と共に行った対面調査に基づくものである。南アジアにおける大正琴は、ブルブルタラング、バンジョーなどと呼ばれ、今日、主として大衆音楽の世界で活躍している。現地ではよく知られている楽器だが、研究や情報は乏しく、人類学者村山和之がパキスタンを中心とする地域の現地調査にもとづいて著した「南・西アジア大正琴事情」『インド音楽研究』第5号(1995年、4~34頁) および「南アジアにおける大正琴」『大正琴図鑑』(金子敦子監修、全音2003年、102~111頁)以外に見るべきものがない。
インフォーマントは1959年生まれの仏教徒で、今日、バンジョーの制作・演奏活動・指導を生業としている。彼によれば日本の大正琴との出会いは次のようであったという。その父 (1933-2003)は1948年に13才で父母をなくし郊外の村からムンバイに出てきた。市場で日本製の安い大正琴をみつけて買い、2年ほど音楽家から無料で古典音楽のてほどきを受けた。音楽的才能に恵まれていたので、バンジョー弾きとして演奏グループの一員に加わりさまざまな演奏活動に参加するようになった。楽器がこわれる度に自分で調整しているうちに自然に修理・製作技術が身につき、それを聞きつけた人々から楽器制作・修理、演奏などの依頼が来るようになった。自分も物心ついた頃から父から習い、父が亡くなった時には200人の弟子を引き継いだ。
この調査を通じて強く感じたのは、バンジョーと北インド古典音楽の代表的弦楽器シタールとの類似性(金属弦をピックで撥く音色、ドローン弦と旋律弦、左右の手の具体的奏法、2オクターブ半の音域、基礎練習のパターンなど)である。一方、電気的増幅、複弦の使用、三和音に調律されたドローンなど、シタールにはない要素もある。以上から、当初、北インドでは大正琴は貧しい人々にとってのシタールの代替楽器として受容されたが、逆に権威付けがないものであったため自由な改良が加えられ、今日ではシタールの持たないさまざまな特性を備えた、大衆音楽の花形楽器の一つになったのではないだろうか。
質疑応答および総括
Q.大正琴の伝播していったそれぞれの地域で、横の影響関係はないのか。
田中:現状ではそこまではまだわからない。
Q.日本では西洋楽器ととらえられていたということだが、他の地域でも伝統音楽の演奏に使用することはなかったのか。
金子:日本の大正琴にも伝統音楽同様の多くの家元制度や流派が生じている。
梅田:インドネシアの伝統楽器にはスレンドロとペロッグの二つの音階を弾ける楽器はないから、そういう意味では両方の音階を兼ね備えたこの楽器は伝統音楽にとっても画期的な存在といえる。
Q.今日触れられた地域以外にも大正琴の存在が確認できる地域はあるのか。
村山:パキスタンやイランのバローチ人たちが悪魔払いや踊りの時の代替楽器として利用している。西はアジアを超えて東アフリカ、ケニアなどの海岸地域にまでは確認できる。
金子:ブラジル移民が持っていったということもある。人が動けば物も動く。いろいろなところにありそうだ。
尾高:台湾でも住んでいた日本人たちが残していった楽器の再利用という事例も多い。
梅田:この楽器はインドネシアにもまだ多種存在していると考えられるが、今でも現地の演奏家にも研究者にもその価値がないとして省みられない。それを研究によってあらためていきたい。
田中:どの地域でも大正琴は虐げられてきた楽器のようだが、来年はいよいよ大正琴生誕百年をむかえることでもあり、本発表を初めの第一歩と位置づけ、今後も研究を続けて大正琴の世界地図を拡大していきたい。