第97回例会報告

日本音楽学会中部支部 

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日時:2009年12月19日 13:30~17:00
会場:金城学院大学W9号館1F 106講義室


【第1部:研究発表】 司会:浅野 隆

1  ロシア音楽史における農奴劇場 ーシェレメーチェフ家を中心にー:鳥山頼子(愛知県立芸術大学大学院音楽研究科博士後期課程)
2  ハンカ・シュルデルブ・ペツォルトの演奏活動と日本におけるグリーグ受容:小林ひかり(大阪大学大学院文学研究科文化表現論専攻音楽学博士後期課程)


【第2部:研究発表】 司会:高橋隆二

3  リベスキントとシェーンベルクの形態構造について:松村 遼(名古屋市立大学大学院博士前期課程)
4  C.Salzedoのハープ音楽への試みついての考察Vol.1
—Carlos Salzedo: Modern Study of the Harpから見る音楽家の意図についてー:岡島朱利(ハーピスト・音楽芸術学博士)



【第1部:研究発表】 司会:浅野 隆

1 鳥山頼子(愛知県立芸術大学大学院音楽研究科博士後期課程)

  ロシア音楽史における農奴劇場 ーシェレメーチェフ家を中心にー

 18世紀後半から19世紀前半のロシアにおいて、富裕な一部のロシア貴族が、所有する農奴(召使)を用いて「農奴劇場」と呼ばれるきわめて特異な劇場運営を行っていたことはあまり知られていない。農奴劇場は、芸術音楽の黎明期のロシアにおいて、宮廷劇場や公衆劇場と並んで、西欧のオペラやバレエの上演を行ったほか、優れた農奴音楽家を輩出するなど、ロシアの音楽文化の発展を促した。
 それにもかかわらず、これまでの音楽史研究において農奴劇場が取り上げられることはほとんどなかった。その理由としては、18世紀のロシア音楽の研究自体が遅れていることや、農奴劇場が個人的な所有物であったという性格上、資料の入手が困難なケースが多く、現存資料もわずかであることなどが考えられる。本発表では、18世紀後半にユニークな音楽活動を展開したシェレメーチェフ家の農奴劇場を取り上げ、農奴劇場がロシアの音楽文化の発展にどのようにかかわっていたのかを考察した。
 シェレメーチェフ家の農奴劇場は、ニコライ・ペトロヴィチ・シェレメーチェフ(1751-1809)が運営の指揮をとった1770年代後半から、劇場が閉鎖された1797年までの約20年間が全盛期であった。シェレメーチェフ家の劇場の活動は、サンクトペテルブルグ、モスクワ、モスクワ郊外のクスコヴォとオスタンキノという4つの領地で行われ、特にクスコヴォとオスタンキノには豪華な劇場が建設された。ニコライは、容姿がよく、美しい声をもつ農奴の少年少女をロシア各地から集め、親元から離して劇場付属の学校で専門教育を受けさせた。音楽教育としては、歌唱指導のほか、ソルフェージュや音階の練習などが行われた。さらに、外国人教師を招聘して一座の指導を任せたり、農奴役者や歌手らを公衆劇場に通わせ、観劇させたりするなど、余念のない教育を施して一座のレベルを上げた。
 また、シェレメーチェフ家の農奴劇場は、幅広いレパートリーを備えていた。レパートリーは、おもにニコライにより、さまざまな方法で選定された。まず、ニコライが西欧遊学時(1770-1773)に、パリの劇場で鑑賞した作品である。当時のパリでは、グレトリやモンシニ、フィリドールらのオペラ・コミックが劇場を席巻していた。ニコライは、ロシアへ戻る際に、楽譜を大量に購入して持ち帰ったといわれている。もう一つの選定方法は、ニコライが西欧遊学中に知り合った、オペラ座のチェロ奏者イヴァールHyvart(生没年不明)とのやり取りによるものである。ニコライは、ロシアに帰国してからイヴァールと文通を始め、パリで流行している音楽作品の情報や、楽譜、台本、舞台装置や小道具、舞台衣装のスケッチなどを定期的に送付してもらっていた。こうして、シェレメーチェフ家の劇場は、独自のレパートリーを取り揃えることができた。
 劇場のレパートリーについては、レープスカヤがさまざまな資料をもとに綿密な調査を行い、作品目録を作成しているため、本発表ではそれをもとにレパートリーの分析を行った。レープスカヤの目録では、1775年から1797年にシェレメーチェフ家の農奴劇場で上演された作品を92作品としており、その内訳をオペラ49、喜劇23、バレエ20としている。同時代の他の農奴劇場において最も人気の高かったジャンルは喜劇であったため、この劇場ではとりわけ音楽作品の上演を好んだことが分かる。また、49のオペラの原語は、フランス語31、イタリア語9、ロシア語9であり、フランスの作品が最も好まれた。特に、フランス語の作品には、18世紀後半にパリで人気を博していたグレトリやモンシニらのオペラ・コミックが多く含まれており、現地での初演後、10年前後でシェレメーチェフ家の舞台で上演されていたことが注目される。なお、シェレメーチェフ家の農奴劇場では、すべてのオペラがロシア語に翻訳されて上演されていた。
 また、この劇場で上演されたオペラのうち、21作品がロシア初演であり、さらにそのうちの17作品は、その後ロシアの他の劇場で上演されなかった単独上演作品であった。ここから、シェレメーチェフ家の農奴劇場がレパートリーの差別化を図っていたことが分かる。また、ロシア初演の21作品に加えて、ロシア語によるロシア初演が7、モスクワ初演が3作品であり、合計31作品が何らかの初演のかたちをとっていた。つまり、シェレメーチェフ家の劇場は、新作上演に対して強い志向性をもっていたといえよう。
 このように、シェレメーチェフ家の農奴劇場は、レベルの高い一座によって組織され、豪華な劇場で公演活動を行い、独自のルートによりユニークなレパートリーを取り揃えた。その結果、18世紀の終わりには、公衆劇場から客を奪うほどの影響力をもつようになり、ロシアの劇場文化の発展の一翼を担った。また、フランスのオペラ・コミックの上演等を通じて、ロシアにおける西欧音楽の受容を推し進めた。こうした点で、農奴劇場の活動がロシア音楽史にもたらした功績は非常に大きいといえるのではないか。


2 小林ひかり(大阪大学大学院文学研究科文化表現論専攻音楽学博士後期課程)

  ハンカ・シュルデルブ・ペツォルトの演奏活動と日本におけるグリーグ受容

 ハンカ・シェルデルプ・ペツォルト(Hanka Schjelderup Petzold, 1862-1937)はノルウェー出身の音楽家で、1909年頃に来日し、東京音楽学校の教師を務めた人物である。ノルウェーの作曲家グリーグと縁の深い芸術一家であるシェルデルプ家の生まれで、ハンカの兄ゲルハルド・シェルデルプ(Gerhard Schjelderup, 1859-1933)は作曲家として知られている。ハンカ・ペツォルトは、日本ではピアニストとして、また歌手として華やかに活動する一方、教育者としては三浦環や柳兼子らのすぐれた歌手を育てた。ペツォルトは日本の洋楽受容において大きな功績を残したにもかかわらず、現在では彼女の名はほとんど忘れ去られてしまっている。
 本研究の目的は、ペツォルトの来日以降に注目し、彼女の演奏活動と当時の日本の音楽界の状況との関連性について明らかにすることである。とりわけ、彼女がよく演奏した祖国の作曲家グリーグの作品の日本における受容の観点から、演奏会レパートリー、本や楽譜の出版やSPレコードの生産に及ぼした影響について考察した。
 ペツォルトは、来日前には、パリ、ヴァイマール、ドレスデン、バイロイトでピアノと声楽を学んだ後に、ヨーロッパ各地で演奏活動を行っていた。このような国際的な経歴を持つ彼女の日本での演奏会プログラムを分析すると、ロマン派の作品を中心に、ヨーロッパのさまざまな国の作曲家による作品を演奏していたことがわかった。しかしその中でも、祖国の作曲家グリーグの作品の割合は高い。グリーグの歌曲やピアノのための小品は演奏会の中心になることこそ少なかったが、他の作曲家の大曲に添えて好んで頻繁に演奏した。《ペール・ギュント》中の歌曲〈ソルヴェイグの歌〉は特にお気に入りだったようである。その一方で、《ピアノ協奏曲イ短調》のような大作も、すでに1912(大正元)年12月1日の東京音楽学校での第27回定期演奏会で日本初演し、ピアノ独奏のための大規模な作品《ノルウェー民謡による変奏曲形式のバラード》も1913年11月29日に帝国ホテルで演奏するなど、来日後の早い時期から演奏していた。
 当時の新聞や音楽雑誌に掲載されたペツォルトの演奏に対する批評を分析すると、概して日本人による評価は高かったと言える。したがって、彼女の演奏活動は日本の音楽界にある程度の影響を与えたであろうことが推測される。日本におけるグリーグ演奏状況について、東京音楽学校での演奏会プログラムや当時発行されていた雑誌『音樂界』等に掲載された演奏会プログラムを調査したところ、ハンカの来日以前に日本で演奏されたグリーグ作品といえば《ペール・ギュント第1組曲》(〈朝の気分〉〈オーセの死〉〈アニトラの踊り〉〈山の老王の広間にて〉)とソナタ作品にほぼ限られていた。ところがペツォルトの来日以降は、グリーグの歌曲やピアノ曲が演奏されたり、《ペール・ギュント》以外のオーケストラ作品が演奏されたりする機会も増えた。またペツォルトは、1927(昭和2)年2月27日の日本青年館での新交響楽団(現在のNHK交響楽団)第2回公演でソリストに抜擢されてグリーグの《ピアノ協奏曲イ短調》を演奏し、するとこの協奏曲の人気は急激に高まり、日本では第二次世界大戦までの間、ほぼ毎年のように主要な演奏会で演奏された。
日本におけるグリーグ受容で特筆すべき点が見られるのは演奏だけではない。1921年には日本でグリーグを扱った最初の著作であるヘンリー・フィンクの『泰西の歌曲と其作曲家』が前田春聲の訳で出版され、1925年には小泉洽による日本で最初のグリーグ評伝『グリーグとその音樂』が、白眉音樂傳記叢書1として出版された。当時音楽書の出版や音楽雑誌の発行に力を注いでいた白眉出版社が、伝記シリーズの第1巻にグリーグを選んだことは注目される。楽譜出版は1918年にセノオ音樂出版社から出た〈ソルヴェイグの歌〉に始まるが、これも他の欧米人作曲家に比べて早い例だ。日本で出版された〈ソルヴェイグの歌〉は昭和初期までに少なくとも6種類が見つかっており、そこにはハーモニカ用編曲版も含まれる。また、20世紀前半に日本で生産されたSPレコードについて調査したところ、〈ソルヴェイグの歌〉は日本の歌手によるものが8種類(うち6種類は日本語による歌唱)、欧米の歌手によるものが10種類見つかった。これはクラシックとしてはかなり多い数である。このような楽譜出版やSPレコード生産の状況は、〈ソルヴェイグの歌〉が日本で音楽家のみならず一般にも広く親しまれていたことをほのめかしている。
 以上のように、本発表ではペツォルトのグリーグ演奏と日本の音楽界におけるグリーグ受容との関連性について具体的な状況を明らかにした。ところで明治後期の日本では、日露戦争を背景に、国民楽についての論争が音楽雑誌上で盛んに行われていた。そうした潮流の中で、明治後期から大正期を通じて日本の民謡が一部の文化人によって重要視されるようになった。このような中で、自国の民謡からインスピレーションを得て国民的な音楽を創ることに成功した周辺国出身のグリーグは、当時西洋音楽の導入に尽力していた日本において大いに共感を呼ぶ作曲家であった。ペツォルトによる演奏活動に加えて、このような時代背景も日本におけるグリーグ受容を促したと考えられる。これらのことが相俟って、グリーグは当時の日本の音楽界が理想とする作曲家、あるいは西洋音楽受容のモデルとしてとらえられたのである。このような国民楽論争や民謡への関心の高まりについての詳細な状況との関連性についても、今後研究を進めていきたい。


【第2部:研究発表】 司会:高橋隆二

3 松村 遼(名古屋市立大学大学院博士前期課程)

  リベスキントとシェーンベルクの形態構造について

 本研究はダニエル・リベスキントが建築と音楽を如何に結びつけたかという問題に関して、《ベルリン・ユダヤ博物館》の設計手法を基に分析することにより、現代における建築と音楽の構造連関を論ずるものである。  歴史的に見れば、建築と音楽の関係性はしばしば論じられてきたが、 象徴やアナロジーといった観点からではなく、形式構造や要素の対応に着目した議論は極めて少ない。本研究で集中的に取り扱うのは、現代の建築家であるリベスキントが、音楽構造理論を建築設計にどのように応用したのかという点である。
Ⅱ.研究背景と目的
 建築家ダニエル・リベスキント設計の《ベルリン・ユダヤ博物館》は2001年にドイツの首都ベルリンに開館した、ドイツにおけるユダヤ博物館である。ユダヤの歴史という非常に強い要素を背景に持った建築であるが、リベスキントは設計の一つのアイデアとしてアルノルト・シェーンベルクのオペラ《モーゼとアロン》を引用した、と述べている。
 《モーゼとアロン》は帰化ユダヤ人であったシェーンベルクの作曲した、全三幕からなるオペラである。この作品は通常のオペラに比べて二つの特異な点を持っている。第一は最終の第三幕は〈未完〉であったという点であり、第二は作曲技法として〈十二音技法〉を用いているということである。 リベスキントは〈十二音技法〉という現代音楽の作曲法の形式を《ベルリン・ユダヤ博物館》の設計に取り入れようとした。 本研究では《モーゼとアロン》の作曲技法と《ベルリン・ユダヤ博物館》の設計手法を比較分析することによって、現代における建築と音楽の関係を論じ、視覚的に示す。
Ⅲ.分析
 本稿では《ベルリン・ユダヤ博物館》(建築)と《モーゼとアロン》(音楽)において、建築と音楽の形態構造、つまり、シェーンベルクの作曲手法とリベスキントの設計手法の類似性に関して分析する。
 シェーンベルクのオペラ《モーゼとアロン》は最初から最後まで〈十二音技法〉を厳密に守り作曲された。また、リベスキントはベルリン・ユダヤ博物館の設計に関して『Alphabet(アルファベット)』という一種のセリー・コードを作成している。この〈十二音技法〉と『Alphabet』、両者のマトリックスについてはたびたび類似性が指摘されている。『Alphabet』は〈Underground〉〈Interval〉〈Site〉〈Void〉〈Linear〉〈Window〉〈Combination〉の七種類のカテゴリーに分けられ、それぞれに10の素材が用意されている。この『Alphabet』の要素とコンペ優勝時から実施設計図に至るまで、多くの建築設計図面を照合した。『Alphabet』のそれぞれの要素は建築の図面上の要素を角度も大きさもバラバラにし、並べなおしたようなものである。カテゴリーによって様々ではあるが、実際の図面と合致するものが多く含まれるものもあれば、ほとんどの要素が図面と合致しないものもある。いずれにせよ、全てが図面上に存在する訳ではなく、図面上に存在しない、実際使用されていない図形も含まれていることが示された。
 リベスキントはベルリン・ユダヤ博物館を設計する際に、『Alphabet』というマトリックスを用い、〈十二音技法〉と類似した手法、すなわち《Alphabet》からの要素を任意で選択し、建築を設計するという手法をとったと考えられるのである。この手法を用いて建築を設計した結果、その建築には〈十二音技法〉で作曲された楽曲同様の〈断片性〉が表われる。《ベルリン・ユダヤ博物館》においてその〈断片性〉の特徴的な部分が最も強く表われているのが、ジグザグな平面形状であるだろう。ジグザグな平面形状には様々な方向に軸線の角度は見事にバラバラであり、この形状には必然性があるのか否か、何を考えられて計画されたのか、非常に捉えづらいものとなっている。《ベルリン・ユダヤ博物館》は方向性がなくどの方向に壁が折れるのかが予測不能な建築であり、〈断片性〉が建築の特徴としてはっきりと表われていると言える。
Ⅳ.結論
 《ベルリン・ユダヤ博物館》では〈十二音技法〉と同じように断片から設計するというセリー的思考を用いたことによって、予測不能な方向性のない形態をつくることができた。このようなセリー的思考によって、安易な反復やシンメトリー、無意識に用いてしまう自らの癖、伝統的技法から回避することができるのである。「リベスキントは『Alphabet』を作成し、その中から自由に選択したものを組み合わせることで平面形状を決定した」と考えることができるが、実際にリベスキントがこの『Alphabet』を基に建築を設計をした、と断言することは到底できない。しかし平面形状を計画する際に〈十二音技法〉的な、マトリックス(メモ程度か、『Alphabet』よりもラフなもの)を作成し、そこから様々な図形を組み合わせて計画した可能性に関しては十分に考えることができる。このような過程を経て設計したからこそ、不規則でジクザグな平面形状ができあがったと結論づけられる。


4 岡島朱利(ハーピスト・音楽芸術学博士)

C.Salzedoのハープ音楽への試みついての考察Vol.1

—Carlos Salzedo: Modern Study of the Harpから見る音楽家の意図についてー

 Salzedo、といえば、ハープ界で知らぬ者はいないが、ハープ界以外、つまりは一般的に、よほどハープの音楽に詳しい人物でない限り、未だに認知度の薄い人物であることは、音楽辞典などでの引用のされ方などから見ても認めざるをえない。
 しかし、Salzedoは、現にハープに革命を引き起こした人物として、20世紀の音楽史の中で、もっと大々的に取り扱われてしかるべき音楽家であることも紛れもない事実である。 筆者は帰国後初めて参加した日本音楽学会中部支部例会の研究発表で、このハープの音楽史上なくてはならぬ重要人物のハーピストで、作曲家、指揮者でもピアニストでもあったフランス系アメリカ人、カルロス・サルツエードCarlos Salzedo (1885−1961)を研究対象として取り上げることにより、彼の生きていた時代に実際彼が、ハープを通して果たした役割などについて、現存する手持ちの資料を手がかりに対象人物の人と成りを紹介し、具体的な事例、楽曲を踏まえながら、彼の行った軌跡の一部について実証、広く音楽界から着目されるべき対象としての彼の画期的な改革について証明していくことを目的とした発表を行った。
 ハーピストとしてのSalzedoの活躍は、とりわけここで紙面を割くまでもなく極めて優秀な国際的な演奏家だった。 彼の興したSalzedoメソードを継承する演奏家も未だ多く存在する。名誉博士号をアメリカで2つ授与されていることからも、彼の功績を称えるのを知るには十分であろう。 作曲家としてのSalzedoは、エドガー・ヴァレーズなどといった当時の多くの著名作曲家達の中でも、全くひるむことなく存在し、互いに切磋琢磨しながら、アメリカでの現代音楽・音楽芸術を盛り立てるための多くの活動を行った。 生涯を通じて非常に多産家と言え、同時に多くの編曲も手がけた。 作品の多くは今日に至っても重版を繰り返し、出版されており、初心者用の教則本にいたるものから、国際コンクールの課題曲となる作品まで、かなりの冊数に上る。 わかりやすい例で言えば、編曲作品の中には、ヘンデルのハープ協奏曲もある。 言うまでもなくこの楽曲は、ハープの名曲としてよく取り上げられるが、salzedoは、こういった古典曲にもハーピストの立場から手を加えており、仕上がりの有無に関しては、好き嫌い、賛否両論があるが、ハープで弾く際の魅力を存分に表出しやすいようまとめている点において評価できる。
 今回筆者が選んで取り上げたのは、Modern Study of the Harp(1921)という教本で、飛ぶ鳥の勢いがあったSalzedoが30代に書いた、彼の作品の中でも最も意欲的な作品郡の集大成の1つともいえるものだった。 一冊の中に、全5曲のタイトルのついた超絶技巧の練習曲があり、その他、Salzedoが目指した音楽観、Salzedoが発明し編集したハープの特殊奏法群といったものが、まとめて紹介されている。 この教本を取り上げた理由としては、彼が打ち上げたこれらの一つ一つの要素が、それまでのハープ奏法の歴史を塗り替え、ハープという多くの音楽家が持つイメージを大胆に覆した点において、また演奏技法として、ほとんどの現存するプロの演奏家を持ってしても弾けぬ程のいわくつきの超絶技巧を要する練習曲を作ったSalzedoの試みに、何よりも世紀を超えいたく感動し興味を持ったからだった。
 今でこそ、録音などの技術により、曲を弾いたように見せることも可能な時代では、その効果を存分に知らしめることも比較的容易であろうが、ライブでのみ視聴できる時代の練習曲としては、かなり斬新な試みだったと言える。 筆者は数ある練習曲の中で最も難易度の高いこの曲集を実際の演奏で実証することにより、ハープに対する日本人の既成の固定観念を払拭し、特殊楽器としての認識だけでない理解を得るために、奮闘し取り組んだ。
 発表ではSalzedoがもたらした特殊奏法を例にあげ、 ジョン・ケージがプリペイド・ピアノを1940年に発明すること20年以上前には既に記譜されていたハープのプリペイド奏法や、また強度ある弦を直接指の腹で弾くため、限定されやすい音色に変化をもたらすための様々な工夫の数々の実演を行った。 多くのハープによる特殊奏法の創始者は、実は誰よりもまずSalzedoが率先して行ったと言う事ができよう。
 Salzedoは、この教本を初心者からヴィルトーソまでと対象を設定していたが、現在に至るまで、演奏がほとんど行われないことから、演奏家には、受け入れがたい難曲だったことを示すこの曲集は、演奏家よりも、作曲家に、より実用的に歓迎されることとなる。 この発表では、この練習曲がなぜ難度があるのかを具体例を示しながら演奏した。もっとも顕著な例は、No.1、No.2、No.3の練習曲であるのだが、まずテンポ設定が異常に早いこと、連続する音形が休むことなしに引き継がれること、など、従来のエチュードでは考えられぬ試みで、ハープの定番の型を見事に打ち破った意図的に施した作品であることを証明した。