日本音楽学会中部支部 第133回定例研究会報告

日時:2022年(令和4年)3月5日(土) 13時30分~16時00分

開催方法:オンライン開催

司会:安原雅之(愛知県立芸術大学)

内容:〈教育フォーラム〉卒業論文・修士論文合評(実技系修了論文含む)


○卒業論文

・大原早織(愛知県立芸術大学音楽学部作曲専攻音楽学コース)
「ドヴォルザークとチェコの民俗舞曲フリアント」

○音楽総合研究修了論文

・小野杏奈(愛知県立芸術大学大学院音楽研究科博士前期課程鍵盤楽器領域)
「ショスタコーヴィチの《ピアノ・ソナタ第1番》作品12に関する一考察」

・安成紅音(愛知県立芸術大学大学院音楽研究科博士前期課程鍵盤楽器領域)
「H. ホリガーの《合唱、オーケストラとテープのための「暁の歌」》 ――R. シューマンとF. ヘルダーリンの関係からみる作品解釈 」


【発表要旨】

<卒業論文>

ドヴォルザークとチェコの民俗舞曲フリアント

大原早織(愛知県立芸術大学音楽学部作曲専攻音楽学コース)

 本発表は、卒業論文に基づいて行われた。まず第1章の内容から要点をまとめて発表し、次に第2章の第1節ついて譜例を交えながら詳しく説明した。
 チェコの作曲家、アントニーン・ドヴォルザークAntonin Dvo?ak (1841-1904) は、自国の民謡や民俗舞曲に強い関心を抱き、自身の作品に採り入れたことで知られる。ドヴォルザークが生きた当時のチェコは、ハプスブルク帝国の支配下にあり、オーストリアの領土の一部とされていた。それゆえに、チェコの民謡や民俗舞曲を作品に用いたドヴォルザークは、祖国を愛したチェコ国民楽派の作曲家として語られる。しかしながら、ドヴォルザークの先行研究において、特定の民謡や民俗舞曲に重点を置いた研究はみられない。
 本論文では、ドヴォルザークが楽曲に採り入れた民謡や民俗舞曲のうち、チェコの民俗舞曲であるフリアントに焦点を絞り、ドヴォルザークの作品におけるフリアントの使用について、多面的に明らかにすることを目的とする。フリアントは、ドヴォルザークが採用した民俗舞曲の中でも作品に用いられている数が最も多く、かつリズムが特徴的で判別しやすい。そこで、作品に現れるフリアントを明白にすることで、ドヴォルザークの作品における時代区分や、「スラヴ時代」とされる年代についても再考した。
 本論文は、全2章で構成される。第1章では、ドヴォルザークの作風を概観し、ドヴォルザークの音楽において民俗的な要素がどのように扱われているのか明らかにした。第1節で「スラヴ時代」と呼ばれる作曲時期に着目し、第2節でドヴォルザークの民俗舞曲と民謡の使用について考察した。「スラヴ時代」とは、音楽性によって定義づけられるものであることや、曲名に含まれる地域名と民謡や民俗舞曲の使用に因果性はないこと、ドヴォルザークの作品には、民謡や民俗舞曲の音楽的な特徴だけが採り入れられていることが明らかになった。さらに、ドヴォルザークが民謡や民俗舞曲を用いたのは、国民主義の音楽を創り出したかったからという理由だけではなく、音楽市場の需要に応える目的があったことを指摘した。
 第2章では、ドヴォルザークとフリアントの関係性について明らかにした。第1節では、フリアントの要素がみられる20の楽曲を分析し、ドヴォルザークによるフリアントの特徴を見出した。第2節では、ドヴォルザークにとってフリアントがどのような存在であったのか、考察した。ドヴォルザークのフリアントは、熱烈で弾むようなリズムと〔 〕というリズムで特徴づけられる。加えて、鋭いアクセントによるシンコペーションと急速なテンポによる活発な雰囲気によって、フリアントとみなされることが明らかになった。これらの特徴から、フリアントは声楽作品には採り入れられておらず、しばしば民俗音楽のドゥムカと組み合わされた。最後に、フリアントが作曲された時期から、先行研究で述べられている時代区分について批判的に捉え、検討を加えた。
 フリアントが採り入れられている作品の中には、楽譜にフリアントと明記されている作品と、そうでない作品があるが、本論文では楽曲同士を相対的に考察することで、フリアントの要素が採り込まれている作品を明らかにすることができた。チェコの田舎生まれのドヴォルザークにとって、フリアントは幼少期から親しんでいた身近な音楽だった。さらに、フリアントは4小節で特徴的なメロディが完結し、古典的な形式にも当てはめやすいため、他の舞曲に比べて多く用いられたのだと考える。


<音楽総合研究修了論文>

ショスタコーヴィチの《ピアノ・ソナタ第1番》作品12に関する一考察

小野杏奈(愛知県立芸術大学大学院音楽研究科博士前期課程鍵盤楽器領域)

 近年、ドミトリー・ショスタコーヴィチ Domitri Shostakovich(1906-1975)に関する研究が盛んになりつつある。しかし、その焦点となっているのは、中期以降の作品がほとんどで、初期作品に関する研究はあまり見られない。今回の研究対象である《ピアノ・ソナタ第1番》作品12は、1926年に作曲された。ちょうどその頃、ソヴィエトでは西側の音楽に対する関心が高まっており、多くの現代音楽が研究、作曲される傾向にあった。ショスタコーヴィチもその流れに刺激を受けていた1人であり、実験的で新しい作曲書法に富んだ初期作品に注目することは、非常に有意義であると考えた。そこで本論文では、ショスタコーヴィチが、周囲から受けていた影響と、それをどう生かしながら作曲していたのか明らかにすることを目的として、研究を行った。
 本論文は、全2章から構成されている。第1章では、初期作品作曲当時にショスタコーヴィチが置かれていた状況や、時代背景について言及した。第2章では、セルゲイ・プロコフィエフ Sergey Prokofiev(1891-1952)作曲《ピアノ・ソナタ第3番》イ短調作品28との比較分析を行った。
 《ピアノ・ソナタ第1番》が作曲される直前、ショスタコーヴィチは音楽院に通っていた。しかし、「音楽院での作曲理論科での履修の間は、これを「必要悪」とみなし、いくぶんかは受動的に従っていた。しかし、この科の卒業に際して、自由で直接的な創造が不可能だと実感した」(千葉2005, 36)という言葉からわかるように、ショスタコーヴィチは当時受けていた授業内容について、あまり共感していなかった。そんな中、ソヴィエトでは現代音楽協会が発足された。これに影響されたショスタコーヴィチは、1926年の秋ごろから様々な現代作曲家の研究を始める。中でも、特に強く影響を受けていた作曲家は、プロコフィエフであった。実際に、ショスタコーヴィチは《ピアノ・ソナタ第1番》をプロコフィエフの目の前で演奏している。この作品を聴いたプロコフィエフは、大変気に入ったと日記に記しており、自身の《ピアノ・ソナタ第3番》と似た雰囲気を持つことも認めている。
 2つの作品の比較分析は、作品概観、調性、主題の展開、リズムモチーフという4つの観点から行った。作品概観における共通点は、単一楽章構成であり、速度変化が急から緩という流れを繰り返していることである。しかし全体的な構造をみると、プロコフィエフのピアノ・ソナタはソナタ形式に則っているのに対し、ショスタコーヴィチのピアノ・ソナタは2つの主題をもとに展開されるものの、ソナタ形式とは言い難い構成から成り立っている。ショスタコーヴィチのピアノ・ソナタの方が、より細かい速度変化が行われていることからも、形式に縛られない構成が、より入り組んだ作りを生み出しているといえる。
 調性の分析では、ショスタコーヴィチのピアノ・ソナタはハ長調とされてはいるものの、曲全体を通してほぼ調性感がなく、転調の仕方を分析することも困難な作りとなっていることが分かった。こうした調性の扱いは、ロシア5人組が活躍していた時代から受け継がれており、その後のソヴィエトでの音楽創作において、さらに発展していったと考えられている。
 最もプロコフィエフからの影響が濃く現れていたのは、主題の展開である。どちらのピアノ・ソナタにも共通している点は、第1主題が半音から開始されており、半音進行を基調とする並行的な動きと、山なりの動きを持つ旋律を特徴としていることである。しかし、ショスタコーヴィチのピアノ・ソナタでは、主題の開始音である半音同士の音が同時に鳴らされることで、音の衝突をより強いものにし、強烈な印象を与える効果が生み出されている。
 リズムモチーフにおいては、共通して左手に3連符の塊で動き続けるリズムがみられた。プロコフィエフのピアノ・ソナタでは、第1主題が展開されるたびに、もう1つ全体を通して使用されるリズムモチーフがあり、統一感を持ちながら、曲の緊張感やスピード感を増す効果がもたらされている。一方で、ショスタコーヴィチのピアノ・ソナタは、第1主題の展開方法が、第2主題と組み合わせる形など様々であり、曲が進むにつれて融合される要素が多く複雑になっていく。そのため、リズムモチーフという観点からみると、プロコフィエフのピアノ・ソナタほど、統一感が感じられないといえる。
 以上の分析を通して、ショスタコーヴィチのピアノ・ソナタはあまりに多くの要素が詰め込まれており、散漫になっている部分も見受けられると感じた。しかしそれは、形式だけにとらわれず、現代音楽の研究や、音楽院での学びの中から影響を受けた作曲技法を盛り込んだからであると考える。打楽器的な楽器の使い方や、ピアノの最高音から最低音までを駆け回っていることなど、ショスタコーヴィチの初期作品特有の書法がふんだんに使われていることに、この作品の意義があるのではないかと感じた。


H. ホリガーの《合唱、オーケストラとテープのための「暁の歌」》――R. シューマンとF. ヘルダーリンの関係からみる作品解釈

安成紅音(愛知県立芸術大学大学院音楽研究科博士前期課程鍵盤楽器領域)

 本発表は上記の修了論文に基づき行われた。本論文は、スイスのオーボエ奏者であり作曲家のハインツ・ホリガー Heinz Holliger (1939-) が1987年に作曲した《合唱、オーケストラとテープのための「暁の歌」Gesange der Fruhe fur Chor, Orchester und Tonband 》を研究対象としている。この作品の元となったロマン派の作曲家ロベルト・シューマンRobert Schumann (1810-1856) の最晩年のピアノ作品《暁の歌 Gesange der Fruhe》作品133は、作曲家自身の自筆譜への書き込みによってドイツの詩人フリードリヒ・ヘルダーリンFriedrich Holderlin (1770-1843) との関連が指摘されている作品である。ホリガーがシューマンとヘルダーリンの結びつきに着目し作曲した約30分に及ぶ《暁の歌》では、シューマンやヘルダーリンに関する書簡等の文書資料やヘルダーリンの詩、シューマンの《暁の歌》などの旋律が数多く引用され、コラージュのように組み合わされている。本論文では、ホリガーが作品中で行ったテキストや音楽の引用に着目し、ホリガーがシューマンとヘルダーリンの関連性についてどのように捉え、表現しているかを明らかにすることを目的とした。
 本論文は全3章から成る。第1章では、シューマンとホリガーそれぞれの《暁の歌》の概要や成立背景について述べた。また、シューマンとヘルダーリンの晩年の創作に共通する受容の問題について述べ、両者の晩年の創作への伝統的な誤解に対し異議を唱えるホリガーの意志が、作曲の動機となっていることを明らかにした。第2章では、ホリガーが合唱パートの歌詞やテープの音声として引用したテキストに焦点を当てた。テキストはヘルダーリンの詩やシューマンの日記の一部、シューマンやヘルダーリンに関する書簡や文書など多岐にわたるが、それらを種類別に分け内容を明らかにし、引用の意図を考察した。その結果、ホリガーがシューマンとヘルダーリンの晩年の作品に共通する狂気性やそれを巡る問題を作品のテーマとしていることが明らかにされたが、中でも第三者であるベッティーナ・フォン・アルニムBettina von Arnim (1785-1859) の書簡を引用した点は興味深い。これによってホリガーが提示する問題意識が補強され、より説得力のあるものになったと言えるからだ。第3章では、ホリガーが引用したシューマンの音楽について楽譜を参照しながら整理し、テキストとの関連も踏まえて考察した。筆者は、ホリガーが《暁の歌》の終曲で、楽曲を原調のままではなくあえて移調して引用することで冒頭のモチーフの音列を示唆したのではないかという解釈を行った。ホリガーは作品中で、標題の「暁」という語に関して「夜明け」と「日没」、「誕生」と「死」が表裏一体であることを示しているが、音楽の調関係によってもそれを表現したと考えられる。
 本論文では、ホリガーが引用したテキストや音楽に焦点を当て、その内容を考察した結果、次のことを結論づけることができた。まず、ホリガーは自身の《暁の歌》を通して、シューマンの《暁の歌》で示唆されたシューマンとヘルダーリンの関連について、晩年の狂気性だけでなく、その評価においても共通点を見出し、私たち聴き手に問題提起を行った。また、ホリガーはシューマンの《暁の歌》とヘルダーリンの詩の引用によって、両者の晩年の創作に「日の出・日没」、「生・死」、「はじまり・終わり」という共通のテーマを見出し、引用したテキストや旋律を巧みに組み合わせることよって全曲を通して聴き手にそれを提示した。本論文の執筆を通して、様々な引用を行い音楽・文学の両領域からシューマンとヘルダーリンの関連性に迫ったホリガーの《暁の歌》は、シューマンとヘルダーリンの関連について新たな視点をもたらすとともに、両者の晩年の創作への理解を深め、解釈の可能性を広げることのできる非常に意義深い作品だと感じた。また、今回は及ばなかったが、引用だけではなくホリガーのオリジナルの部分にも目を向ければ、さらに多くのことが作品から導き出せるのではないか、という今後の課題・研究の可能性も浮上した。