日本音楽学会中部支部 第131回定例研究会報告

日時:2021年(令和3年)12月18日(土) 10時00分~13時00分

開催方法:オンライン開催

司会:金子敦子

内容:
〈講演〉

大西たまき(ノースカロライナ大学 グリーンズボロ校 政治学部准教授)
「新型コロナウィルス危機とロックダウン
――立ち上がる米国のクラシック音楽家達とイノベーション」

〈研究発表〉

村瀬優花(愛知県立芸術大学大学院音楽研究科 博士後期課程)
「18世紀前半のブラウンシュヴァイク大市におけるオペラ上演の独自性」


【発表要旨】

〈講演〉

新型コロナウィルス危機とロックダウン
――立ち上がる米国のクラシック音楽家達とイノベーション

大西たまき(ノースカロライナ大学 グリーンズボロ校 政治学部准教授)

 2019年12月に中国・武漢で確認された新型コロナウィルス感染症は世界中に広がり、 諸国で緊急事態宣言が発令された。アメリカ合衆国ではトランプ大統領が医療の専門家の助言よりも大統領選挙再選への政治的な影響を重視したため、 感染対策が深刻な遅れをとり、コロナ累計感染者数と死者数共に世界最多となり、 多くの州・市にて非常事態宣言下、集会禁止令が公布され、2020年初頭に10.3%の失業率となる厳しい経済危機に陥った。 特にエンターテイメント・レジャー産業などの接客産業の失業率は2020年4月のピーク時にはアメリカ全土で39.3%に達した。 集会禁止令はコンサートホールでの演奏会他にも適用され、芸術界の完全失業率は62%に上り(アメリカンズ・フォー・ジ・アーツによる2020年5月調査)、 ブルッキングス研究所は、音楽・芸術界が最も深刻な経済被害を受けた産業として挙げた。しかし、パンデミック影響下での、 芸術家・音楽家や、その団体の実態を扱った研究はまだ少ない。そこで本研究では、米国のオーケストラによる革新的な試みを4種のモデルとして分析した。
 モデル1として、シカゴ交響楽団による「既にあるリソースの多様なデジタル・プラットフォームにおける再活用」が挙げられる。 ホールで行う演奏を無料あるいは有料のプレミアム番組として放映する「シカゴ響オンライン・テレビCSOtv」が2020年急遽用意され、 デジタル・プラットフォームを活用して新たな観客も開拓できるよう、多彩なビデオやプログラムが用意された。例えば、「シカゴ響キッズ」 は子供対象の無料の音楽ビデオ・シリーズで、バッハの音楽に合わせて深呼吸を促すなど、 学校閉鎖による子供達の心理的ストレスに配慮したものとなっている。「シンフォニー・センター・プレゼンツ・オンデマンド」では、 ジャズ・アット・リンカーンセンター・オーケストラとの協働で経済差別や社会差別問題について提起された。 無料のポッドキャスト・プログラム「シカゴ響インターミッション」では、ヴィオラ奏者が同響内のチームワークを語るなど、 楽団員達の協力を得てシカゴ響の様々な面を見せた。新ラジオ番組「シカゴ響アーカイブ:最初の130年間」 では膨大な録音記録によってシカゴ響の歴代の名演が流された。
 モデル2のアトランタ響による「市民を巻き込むインクルージョン戦略」、モデル3のバッファロー・フィルによる 「観客の要望に徹底的に合わせる柔軟なアプローチ」は、シカゴ響に比べて歴史が浅く予算も限られたオーケストラによる戦略である。 アトランタ響はベートーヴェン〈歓喜の歌〉ビデオ作成プロジェクトに、自宅待機で外部との接触が断たれたアトランタ市民を参画させる企画をとった。 《第九》で本来使われる楽器に限らず、エレキギターや手作りの楽器なども可とすることで、プロ・アマ問わず誰でも参加できるよう企画され、 当初予想された30~50人を大幅に超える約800人の市民からの参加希望と演奏ビデオの送付があった。 母親と赤ちゃんによるピアノ演奏で始まり、クライマックスが近づくにつれ、 1画面が分割され多数の演奏者の同時演奏が映し出されるビデオはコロナ危機で人との繋がりを渇望していた多くの人達の反響を呼び、 地元のテレビでも取り上げられた。
 他方、バッファロー・フィルは、コロナ危機で金銭的に余裕のない人や、音楽の癒しが必要な地元の人達向けの無料プログラム 「アウト・オブ・ボックス」と、チケット購入が必要でもコンサートホールで演奏体験をヴァーチャルで得られる 「オンデマンド」の2企画を立ち上げ、観客との関係維持と財政確保の両方を目指した。 特に「トラベリング・ミュージック」という無料のヴァーチャル・プログラムでは、 マスクをした楽団員達が市民達に所縁の深い場所の風景を背景に演奏し、自宅待機中の市民達が地元の景観を楽しめるよう考慮された。
 モデル4「クラシック音楽家からアクティビストとしての新たな境地」は、パンデミックで浮き彫りになったシステマチック・レイシズムに対し、 人権活動家として立ち上がった黒人クラシック音楽家達の事例に基づく。ニューヨーク・フィル史上3人目の黒人楽団員で、 首席奏者としては初めての黒人であるクラリネット奏者のマギルは、ダイバーシティの重要性を説きつつ、 黒人音楽家は未だ少ない米国クラシック音楽界に、人種差別に対する抗議への参加を促した。具体的には、 元来片膝をつく姿によって象徴される人種差別への抗議に対し、完全平和表明を目指し両膝をつくべきだと訴え、 米国の愛国歌を演奏し自ら両膝をつくビデオを、“#taketwoknees"(両膝を付け)のハッシュタグとともにインスタグラム上で拡散し、 大きな反響を引き起こした。



〈研究発表〉

18世紀前半のブラウンシュヴァイクにおけるオペラ上演の独自性

村瀬優花(愛知県立芸術大学大学院音楽研究科博士後期課程)

 本発表は、18世紀前半のブラウンシュヴァイクにおけるオペラ上演の独自性を、 ヴォルフェンビュッテルの宮廷オペラとの比較を通して明らかにすることを目的とした。
 1678年、ハンブルクにゲンゼマルクト劇場が設立され、ドイツ語圏で公開オペラが始まった。それに次いで、 1690年にはブラウンシュヴァイクに公開劇場が設立され、年に2回開催された大市の期間中にオペラが上演されていた。
 ブラウンシュヴァイクは、1235年に成立したブラウンシュヴァイク=リューネブルク公国の主要な都市であり、 ヴェルフェン家によって治められた。公国内でとりわけ力を持っていたのがブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル侯領、 およびリューネブルク=ツェレ侯領であった。なお、ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル侯領の首都は、 1432年にブラウンシュヴァイクからヴォルフェンビュッテルに移され、宮廷はヴォルフェンビュッテルに置かれていた。また、 大市とは、中世中期から後期にかけて、皇帝や王、その他君主から付与される特権によって開催され、 外来商人が自由に交易を行うことができた定期市のことである。
 ブラウンシュヴァイクで2つの大市の開催が始まったのは1498年のことで、17世紀前半まで地域の中央市場として機能していた。
 1618年から1648年にかけて三十年戦争が起こり、ブラウンシュヴァイク大市は一度衰退するが、 1674年にブラウンシュヴァイク市議会によって大市の復興が行われる。そして、1681年にはルドルフ・アウグスト侯 (1627-1704、在位1666-1704)が、外来商人に対して関税を30年間免除することを決定した。 これによってブラウンシュヴァイク大市の重要性は急速に高まり、フランクフルトやライプツィヒといった国際的な大市に匹敵する地位を得ることになる。
 こうしてブラウンシュヴァイク大市が繁栄し始めた1690年に、ブラウンシュヴァイクに公開オペラ劇場が設立される。 この劇場を設立したのは、アントン・ウルリヒ侯(1633-1714、在位1685-1714)である。アントン・ウルリヒは、 キャバリア・ツアー(成人を迎えた男子が行う教育旅行)でパリに半年間滞在し、演奏会やバレエ、オペラ、演劇に頻繁に足を運んでいる。 そして帰国後の1657年から、自ら台本を執筆して、ヴォルフェンビュッテルの宮廷でオペラ上演を開始した。 1681年春から翌年にかけてはヴェネツィアに長く滞在し、ここでも多くのオペラを鑑賞している。 1685年に兄ルドルフ・アウグストの共同統治者となり、1687年には再びヴェネツィア旅行を行い、 1688年にはヴォルフェンビュッテルに宮廷オペラ劇場を設立した。そのわずか2年後の1690年に、 ブラウンシュヴァイクに公開オペラ劇場を設立したのである。この頃アントン・ウルリヒは、選帝侯位をめぐり、 はとこであるリューネブルク=ツェレ侯ゲオルク・ヴィルヘルム(1624-1705)とその弟エルンスト・アウグスト (1629-1698)と対立関係となっていた。この対立のなかで、アントン・ウルリヒはブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテルの軍事力を強化するため、 その費用を賄おうと貿易や商業に力を入れるようになる。すなわち、大市をより繁栄させるために公開オペラ劇場を作り、 オペラ上演をブラウンシュヴァイク大市の強みとして、他の大市との差異化を図ったのである。
 ヴォルフェンビュッテルの宮廷オペラと、ブラウンシュヴァイクの公開オペラのそれぞれの台本を見ると、 多くは表紙に上演の機会が記されている。ヴォルフェンビュッテルでは結婚や誕生日等の宮廷の行事に際してオペラが上演され、 ブラウンシュヴァイクでは年に2回開催される大市の期間に上演が行われた。また、公開オペラの台本には、 登場人物の一覧にその役を歌う歌手名が記載されているものもある。発表者は、 ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテルで年に1回発行されていたAdress-Calenderという文書の巻末に掲載された使用人一覧に含まれる歌手名(図)と、 台本の配役一覧に記載された歌手名を照らし合わせ、公開オペラの歌手らが劇場ではなく宮廷に雇われていたこと、 そしてその歌手らは同時に宮廷オペラの上演も担っていたことを指摘した。
 さらに発表者は、ヴォルフェンビュッテルとブラウンシュヴァイクで上演された作品の台本作家と作曲家、また台本がどこで作られたかという点に着目し、 それによって時期区分を行った。この考察の結果、ヴォルフェンビュッテルの宮廷オペラでは、別の地で作られた既存の作品が多く上演され、 新たに作る場合でも、すでにある台本に作曲家が音楽をつけるということに留まっていたことがわかった。 宮廷オペラは、君主や賓客の貴族らがバレエで参加し、自らが楽しむものであり、新作であるかどうかは重要視されなかったのであろう。
 ブラウンシュヴァイク大市の公開オペラは、パリとヴェネツィアでオペラに触れたアントン・ウルリヒが、他の大市との差異化を図り、 いわば政策のひとつとして設立した劇場であった。そして、ヴォルフェンビュッテルの宮廷オペラとブラウンシュヴァイクの公開オペラとを比較したことによって、 大市の娯楽という性質を持つブラウンシュヴァイクの公開オペラでは、当時人気のあったヴェネツィア・オペラがドイツ語翻訳で上演されるだけでなく、 ドイツ語で書かれたブラウンシュヴァイク・オリジナルの新作が上演され続けたということが明らかになった。

図. Adress-Calenderの使用人一覧から歌手の項目(1721年発行)