日本音楽学会中部支部 第128回定例研究会報告

第98号支部通信誌上開催

【教育フォーラム 卒業論文・修士論文合評(実技系修了論文含む)】

○卒業論文

岡奈津実(愛知県立芸術大学音楽学部作曲専攻音楽学コース)
「ロシア民謡に基づくロシアの管弦楽曲――チャイコフスキーを中心に――」

○音楽総合研究修了論文(大学院博士前期課程)

椎葉ふう香(愛知県立芸術大学大学院音楽研究科博士前期課程作曲領域)
「モートン・フェルドマンの後期作品における音楽的時間について―《クラリネットと弦楽四重奏》を題材に―」

山内佑太(愛知県立芸術大学大学院音楽研究科博士前期課程弦楽器領域)
「パウル・ヒンデミット〈ヴィオラとピアノのためのソナタ〉作品11-4における作風と構造の分析」

○修士論文(大学院博士前期課程)

所美樹(愛知県立芸術大学大学院音楽研究科博士前期課程音楽学領域)
「ウジェーヌ・ボザの《コンチェルティーノ》(1938)についての一考察――イベールの《コンチェルティーノ・ダ・カメラ》と比較して――」

村瀬優花(愛知県立芸術大学大学院音楽研究科博士前期課程音楽学領域)
「18世紀前半までのハンブルクとブラウンシュヴァイクにおけるオペラ――上演の実態と両劇場の関係性」


【発表要旨】

〈教育フォーラム〉

 中部支部では定例研究会の場で定期的に教育フォーラムを開催し、中部地区における音楽学関連の卒業論文・修士論文・博士論文の合評を行ってきました。 2020年 3月に予定されていた第 128回定例研究会では、2019年度に提出された論文の合評を行う予定でしたが、新型コロナウイルス感染拡大防止の観点から3月の開催を見送り、 9月の実施を目指して検討を続けていました。ところが周知の如く状況は改善せず、やむなく会場での対面形式の開催を断念し、発表予定者それぞれの研究内容を「支部通信」上に掲載し、 これを以て定例研究会での発表に代えることといたしました。
教育フォーラムは中部地区において、特に若い研究者を育てる上で大切な場であることは言うまでもありません。今回は「支部通信」での誌上開催となってしまいましたが、あくまで合評会です。 ご覧になった上でご質問やご感想などありましたら、支部代表までお寄せ下さい。各発表者に仲介して、何らかの形で意見交換を行いたいと思います。今後の教育フォーラムについても状況を見ながら、 オンラインでの開催も含めて継続して参りますので、会員の皆様のご協力を賜りますようよろしくお願い申し上げます。 (明木茂夫記)


「ロシア民謡に基づくロシアの管弦楽曲――チャイコフスキーを中心に――」

岡奈津実(愛知県立芸術大学音楽学部作曲専攻音楽学コース)

 ロシアでは、18世紀後半に初めてロシア民謡集が出版され、それ以降、オペラや管弦楽曲にロシア的なテーマや主題を用いた作品が多く現れるようになる。 ミハイル・イヴァノヴィチ・グリンカ Михаил Иванович Глинка(1804-1857)は、1848年に作曲した管弦楽曲《カマリンスカヤКамаринская》において、 ソナタ形式の枠組みの中で2つの民謡を用いた。《カマリンスカヤ》以降、ミリイ・アレクセエヴィチ・バラキレフ Милий Алексеевич Балакирев(1837-1910) といった民族主義を支持する作曲家たちや、音楽院でドイツの古典音楽に基づく教育を受けたピョートル・イリイチ・チャイコフスキー Пётр Ильич Чайковский(1840-1893) が《カマリンスカヤ》を基盤として、民謡に基づく作品を作曲、発展していく。
 本論文では、このような背景のもと、グリンカの《カマリンスカヤ》から、ロシア民謡に基づくロシアにおける管弦楽曲がどのように発展していったのか、変化していく過程をまとめ、 その中でもチャイコフスキーの作品をロシア民謡に基づく管弦楽曲の発展の流れの中で位置づけし、歴史的意義を考察することを目的とした。
 論文全体は3章から構成される。
 第1章「19世紀のロシアの音楽界」では、本論文で取り上げた作品が作曲された当時のロシアの音楽界について概観した。この時代、芸術音楽の発展途上国から脱するために、 アントン・グリゴリエヴィチ・ルビンシテイン Антон Григорьевич Рубинштейн(1829-1894)を中心に改革が進められていた。ロシアで初めての高等音楽教育機関であるサンクトペテルブルク音楽院の創立により、 正式な教育を受けた音楽家がロシアから生まれるようになった。その一人がチャイコフスキーであった。アントン・ルビンシテインの考えとは反対に、バラキレフを中心とした五人組は、 独学により音楽を習得した。彼らは自ら民謡を収集することもあり、ロシアの民族の素材を生かして自国ならではの表現を探求し、ロシアの芸術音楽の発展を目指した。
 第2章「ロシア国民楽派による、ロシア民謡に基づく管弦楽曲」では、ロシア国民楽派による、ロシア民謡に基づく管弦楽曲を取り上げ、民謡に基づく主題の扱い方に着目して楽曲分析を行なった。 第1節「グリンカ:《カマリンスカヤ》」では、グリンカ作曲の《カマリンスカヤ》を分析し、特徴を明らかにした。《カマリンスカヤ》において、主題は、提示された後に主題を奏する楽器や伴奏は変化するものの、 旋律自体の形は変えずに何度も繰り返される。グリンカは、主題の反復を中心として、《カマリンスカヤ》を一つの管弦楽作品に作り上げているのである。また、主題の伴奏として持続音を頻繁に用いることもこの作品の特徴として挙げられた。 続いて第2節「バラキレフ:《3つのロシアの歌の主題による序曲 Увертюра на темы трех русских песен》」では、バラキレフ作曲の《3つのロシアの歌の主題による序曲》を分析した。 《3つのロシアの歌の主題による序曲》は、主題の提示後に主題がそのままの形で楽器や伴奏を変えながら繰り返される点と、民謡主題の伴奏として持続音が奏される点で、グリンカの《カマリンスカヤ》の手法を引き継いでいる。 さらに、民謡主題は、変奏したり、断片のみで使用されて楽器間で掛け合いをしたり、重ねられたりするところが見られた。
 第3章「チャイコフスキーによる、ロシア民謡に基づく管弦楽曲」では、チャイコフスキーによる、ロシア民謡に基づく管弦楽曲について述べた。第1節「チャイコフスキーとロシア民謡」では、 チャイコフスキーの作品目録に掲載されている、3つの民謡集についてまとめた。チャイコフスキーは、依頼により3つのロシア民謡集を出版しており、 それらの収録曲がチャイコフスキー自身の作品に引用されることが多くあることがわかった。続いて、チャイコフスキー作曲の3つの交響曲を取り上げ、民謡主題の扱いに注目して楽曲分析を行なった。 交響曲第1番では、グリンカの《カマリンスカヤ》のような主題の反復を中心とした展開ではなく、主題の断片化や曲の発展のための旋律の一部を変更する展開が中心であった。グリンカの《カマリンスカヤ》 やバラキレフの《3つのロシアの歌の主題による序曲》では持続音の使用が目立ったが、チャイコフスキーの交響曲第1番では、和音による伴奏が中心であった。交響曲第2番は、 チャイコフスキーの作品の中でも民族主義的な作品とされており、曲中の民謡の扱いは、グリンカの《カマリンスカヤ》で見られる主題の反復や持続音の頻繁な使用といったもので、グリンカの影響が色濃く出ている。 交響曲第4番では、バラキレフの《3つのロシアの歌の主題による序曲》と同じ民謡を使用している。チャイコフスキーは、民謡を変化させて提示しており、民謡の性格を弱めている。民謡主題の展開方法は、 主題の繰り返しや主題の断片化が見られた。また、曲中で提示される民謡には基づかないもう一つの主題も民謡主題と同様の展開方法を示していた。
 ロシア民謡に基づくロシアの管弦楽曲は、グリンカの《カマリンスカヤ》の伝統が後世の作品に引き継がれ発展させられていることが明らかになった。バラキレフの《3つのロシアの歌の主題による序曲》は、 グリンカの《カマリンスカヤ》の手法を踏襲しながらも、一部で主題変奏や主題の断片化が見られ、より自由に民謡に基づく主題を展開させている。チャイコフスキーは、バラキレフの《3つのロシアの歌の主題による序曲》と同様に、 グリンカの影響を受けながら、より発展的に民謡に基づく主題を扱っている。しかし、国民楽派の2人の作曲家とは異なり、反復を中心とした展開ではなく、動機的に主題を扱い、展開させている。チィコフフスキーは、 音楽院で学んだ芸術音楽と自身に身近であったロシア民謡を自然に融合させることに成功した作曲家であると言えるだろう。


「モートン・フェルドマンの後期作品における音楽的時間について―《クラリネットと弦楽四重奏》を題材に―」

椎葉ふう香(愛知県立芸術大学大学院音楽研究科博士前期課程作曲領域)

 本論文は、モートン・フェルドマンMorton Feldman(1926-1987)の《クラリネットと弦楽四重奏》を題材に、後期作品における音楽的時間について考察したものである。フェルドマンは、アメリカ合衆国、 ニューヨーク生まれの作曲家である。抽象画から影響を受け、タイミングや音程・音価などが暖昧に指定される非計量的な記譜法や、長時間に亘るスタティックな音響を中心とした作曲スタイルを提唱し、 定量記譜や五線記譜法から離れた図形楽譜などの新たな表記法と組織体系を初めて採用した人物である。そして、本論文の研究対象であるフェルドマンの後期作品では、モチーフの反復や変容、 セクションの複雑な配置などの様々な特徴によって独自の音楽的時間が作られている。しかし、時間について考察された文献は少ないことから、《クラリネットと弦楽四重奏》の楽曲分析やフェルドマンの音楽美学から、 音楽的時間をどのように捉えられるかについて一つの回答を得ることを目的とした。そして、反復を主な技法とし、モチーフがパターン化されているこの作品は、後期作品の音楽的特徴が全曲に亘って扱われているため、 題材としては適当であると考えた。なお、本論文の研究対象時期となるフェルドマンの後期とは、1978年以降を指す。また、本論文における音楽的時間とは、日常的に使われる等間隔で区切られた単位としての時間ではなく、 始まりと終わりで区切られたもので、音楽の構造化に伴い単位や方向性等が変化し、またそれらを持つか持たないかさえも定義できる時間のことを指す。
 第 1章では、フェルドマンがなぜ後期作品の書法に辿り着いたのかを明確化するために、彼の音楽美学と作品の変遷について時代別にまとめた。初期では、伝統的な記譜法・表現方法からの完全な解放を求めて新しい表記法を模索し、 グラフィックスコアを発案したり、音価を相対的に記すなど、記譜するという行為を元に音楽的アプローチを試みた。しかしその方法に限界を感じ、1970年代以降は構造やテクスチャーへ様々なアプローチを施した。また、 後期作品では反復を主な技法とし、いくつもの長大かつスタティックな作品を残した。フェルドマンの扱う反復の書法では、聴覚的に認識しづらいリズムや、区切りのはっきりしない長いパターンを生成することで、 単純なパターンの反復を濁したり、回転方式やモジュール的構造を取り入れることで予測できないパターンの反復を作り出した。これによって聴衆の記憶を混乱させ、個々のジェスチャーの特徴を強調した。 これらは、ヨーロッパのシステム主義的な音楽への批判的態度や、視覚芸術からのインスピレーションなど、フェルドマンの音楽美学を達成させるための手段として実践されていた。
 第2章では、フェルドマンの後期作品の音楽的特徴を明らかにするために、《クラリネットと弦楽四重奏》の楽曲分析を行った。この作品は大きく6つの部分に分かれており、3つの大きなセクション間に移行部が挟まれ、 最後にコーダが現れる特殊な三部形式になっている。モチーフ操作では、各々のパートで数種類の限定されたモチーフがそのまま反復されたり、拡大や縮小を伴いながら変容され反復されていた。その際に、 モチーフの並べる順番を逆行させたり、ゲネラルパウゼや他のモチーフを挿入することで、単純な反復を避ける傾向が見られた。そして音程や音高では、和声的な規則は無く、音型モチーフの変化とは連動しないまま、 あくまで音響的モチーフとしてパターン化されており、それによって全体の構造がより複雑化されていた。また、似た音響が並べられることや、同じ音の組み合わせであっても音域を変化させたり、パートを入れ替えることで、 単純な反復ではなく絶えず微妙に変化してるように聞こえる書き方がされていた。この小さな変化に耳を傾けるような書法により、全体の構造は俯瞰できずに暖昧化されていることがわかった。
 第3章では、フェルドマンの音楽的時間について彼の音楽美学の観点から論じた。前章で述べた通り、モチーフと和音はそれぞれ明確な旋律や和声構造といった規則性や法則性を持たず、各々別のタイミングで反復されていた。 そのため音楽の全体の構造はモジュール的な造りになり、聴いている時にはこの全体構造を把握することは出来ない。また、全体構造を個々のパターンの織り重なりとして長く反復させて書くことで、 構造だけでなく時間的方向性が暖昧なものになっていた。全体構造や時間的方向性が暖昧になることで、聴衆の耳が瞬間ごとに生まれる音素材そのものに集中する時間が作られる。この時間こそが彼の音楽美学の根幹であり、 規則性を持たない反復がそれを達成させる手段になっていたと考えられる。そして、ミニマル音楽との大きな違いは、反復に対する考え方である。ミニマル音楽では、シンプルかつ最小の要素で倹約的に持続を生み出しており、 原初的で、聞き手に対する解釈の余地を多く含んでいる。しかし、フェルドマンの楽曲で見られる、あえて体系化しない複雑な反復は、音そのものに集中させる時間を作るという目的のための手段であり、 それ以上の解釈の余地を与えない書法であると考えられた。
 結論として、フェルドマンの後期作品の特徴である反復を使った書法は、彼の音楽美学を体現させるための手段であることがわかった。そして、フェルドマンの後期作品における音楽的時間は、あえて体系化されない複雑な反復が長時間に渡って続くことで、 音そのものを聴くという知覚行為を引き出すものであるという一つの回答を得ることができた。


「パウル・ヒンデミット〈ヴィオラとピアノのためのソナタ〉作品11-4における作風と構造の分析」

山内佑太(愛知県立芸術大学大学院音楽研究科博士前期課程弦楽器領域)

 独奏楽器としてのヴィオラのレパートリーが飛躍的に増えたのは20世紀に入ってからのことであり、その影にはライオネル・ターティスLionel Tertis(1876-1975)、パウル・ヒンデミットPaul Hindemith(1895-1963)、 ウィリアム・プリムローズWilliam Primrose(1904-1982)といった優れたヴィオラ奏者の存在があった。中でも作曲家であるヒンデミットによるレパートリーの拡大は、この流れを大きく前進させ、 ヒンデミットのヴィオラのための作品は現在でもヴィオラの主要なレパートリーと言える。また、また、ヒンデミットは理論家、教育者としても多くの功績を残し、いくつかの著書からその作曲理論の一端を垣間見ることができる。 しかし、ヒンデミットの作品はその作曲時期によっても作風が大きく異なり、また独特な和声法と複雑な対位法によって楽曲を分析することは容易ではない。そのためヒンデミットに関する先行研究は、 作曲理論と楽曲の分析をその趣旨とするものが多くみられるが、その多くはオーケストラやピアノの作品を対象としており、ヴィオラ作品に限定した先行研究はほとんど確認することができない。
 そこで、本論文ではヒンデミットのヴィオラのための作品の中で最も早い時期に書かれた《ヴィオラとピアノのためのソナタ Sonate fur Bratsche und Klavier》作品11-4を題材とし、ヒンデミットの作風の変遷や作曲理論をもとに楽曲分析することで、 和声と構造の両面でその特徴を明らかにすることを目的とする。
 第1章では、作曲家、ヴィオラ奏者、理論家、教育者とその活動が多岐に渡ったヒンデミットの生涯を概観する。ヒンデミットはアメリカに渡る1940年ごろまでは作曲家とヴィオラ奏者、アメリカを拠点にした1940年以降は作曲家と指揮者として活動しており、 この1940年というヒンデミットにとって大きな転換期となった年を跨ぐように教育者としての活動があることが分かった。
 第2章では、作曲家としてのヒンデミットを、その作風の変遷から初期、中期、後期の3つの時期に分けて概観する。ヒンデミットの作風は、表現主義的な作風から出発し、様々な様式を自作に取り入れ自らの進むべき道を模索した初期、 特徴的なリズムや複雑な対位法を用いた新古典主義的な作風から、アマチュア音楽家と接した経験により徐々に調性を重んじる方向へ移行していった中期を経て、それらを伝統的な様式の中で構築し、同時に新たな調性システムを探求した後期に至る。 同時代の作曲家の多くが調性から離れる姿勢を見せた中で、ヒンデミットは時代と逆行する立場をとったと言える。
 第3章では、ヒンデミットが旋律と和声について論じた『作曲家の手引 Unterweisung im Tonsatz 』について述べる。ヒンデミットは1927年にベルリン音楽大学で作曲を教えるようになったのを機に理論書の執筆に取り掛かり、 約12年かけてこの理論書を完成させた。ヒンデミットはこの著書の中で、1オクターヴ内にある12個の半音階も倍音列から導くことができ、完全な無調は存在しないと主張している。
 第4章では、第1章から第3章を踏まえて《ヴィオラとピアノのためのソナタ》作品11-4を分析する。これによりこの作品の構造は、第1楽章は第2楽章の変奏曲へ続く序奏、第2楽章は変奏曲、 第3楽章は第2楽章から続く変奏曲と広義のソナタ形式の二重構造を持つ楽章と考えられる。またこの作品は調性を重視して書かれており、初期の作品の中でも特異な作品であると言える。
 以上を踏まえて、《ヴィオラとピアノのためのソナタ》作品11-4はヒンデミットのヴィオラ作品の中でも一番初めに書かれた作品であり、その後のヴィオラ作品に繋がるという点で非常に重要な作品であると言える。 またこの作品は、調性を重視して書かれており、表現主義的な作風の多い初期において特異な存在と言え、構造面においても変奏曲と広義のソナタ形式の二重構造になっている点が非常に特徴的であり、 変奏曲の多彩さやフーガの展開など後の作品にも劣らない見事な書法が既にこの作品に備わっていると結論付けられる。


「ウジェーヌ・ボザの《コンチェルティーノ》(1938)についての一考察――イベールの《コンチェルティーノ・ダ・カメラ》と比較して――」

所美樹(愛知県立芸術大学大学院音楽研究科博士前期課程音楽学領域)

 ウジェーヌ・ボザ Eugene Bozza(1905-1991)はフランスの作曲家、指揮者、ヴァイオリニストである。ボザの音楽家としてのキャリアは、作曲家、指揮者、ヴァイオリニストの3つ全てにおいて成功しているが、 一般的には作曲家として知られており、とりわけ管楽器のための室内楽作品がよく演奏される。作曲家としてのボザのキャリアは、1932年にパリ音楽院に入学し、 フランスの若手作曲家にとって登竜門となっていたローマ賞を1934年に受賞したことから始まる。ボザは、ローマ賞の褒賞として、ローマのヴィラ・メディチに1935年から1938年まで滞在した。その頃、 パリのサクソフォーン界では、マルセル・ミュール Marcel Mule(1901-2001)の活躍が目覚ましかった。ボザはローマ滞在中の1938年、独奏アルト・サクソフォーンとオーケストラのための《コンチェルティーノ Concertino》を作曲し、 ミュールに献呈した。同様に、《アリア Aria》(1936) や《アンダンテとスケルツォ Andante et scherzo》(1938) もローマで作曲され、ミュールに献呈されており、《コンチェルティーノ》とともに、 今日でも演奏される作品となっている。しかし、これらの作品を含め、ボザのサクソフォーン作品に関する研究はほとんどないどころか、ボザのサクソフォーン作品の作品数すら把握されていないのが現状である。
 本論文では、《コンチェルティーノ》におけるボザの書法の特徴を明らかにした。第1章では、サクソフォーンの歴史と《コンチェルティーノ》の時代背景を概観した。1930年代のパリでは、 ミュールとミュールが率いる四重奏団の活躍が目覚ましかった。また、ドイツ出身で、ミュールよりも先にソリストとして名を上げていたシガード・ラッシャー Sigurd Rascher(1907-2001)もパリで演奏を行った。 彼らの活躍によって、サクソフォーンという楽器に注目が集まり、作曲家はサクソフォーンのための作品を作曲した。また、そのためにサクソフォーンという楽器の芸術的な価値が上がっていったとも言われている。 このような時期にボザの《コンチェルティーノ》は作曲された。
 第2章では、ボザとサクソフォーンについて論じるとともに、ヴィラ・メディチで作曲されたことの意味を考察した。管楽器のための室内楽作品で有名となっているボザだが、 その管楽器のための作品の中でもサクソフォーンという楽器は重要な位置を占めており、その楽器法にも精通していた。 ボザが《コンチェルティーノ》を献呈したミュールは、ボザの才能を認め、《アリア》、《アンダンテとスケルツォ》、《コンチェルティーノ》を重要な作品と位置付けている。 これらの作品は全てローマで作曲されているが、この頃、ローマ賞受賞者としてヴィラ・メディチに滞在していた作曲家のなかで、サクソフォーンのための作品を書いている作曲家は他にいなかった。 そのため、ボザが1938年にローマで《コンチェルティーノ》を作曲したことは珍しいことであった。
 第3章では、ヴィラ・メディチでボザと接点のあったジャック・イベール Jacque Ibert(1890-1962)の《コンチェルティーノ・ダ・カメラ Concertino da camera》(1935) とボザの《コンチェルティーノ》を分析し、 比較することで、《コンチェルティーノ》におけるボザの書法の特徴を考察した。この分析と比較によって、ボザとイベールの類似点が多く挙がった。拍子、速度、調性、楽曲の形式は類似していることが多く、 モチーフの類似もみられた。また、伴奏の仕方や、旋律に対してアーティキュレーションの指示を細かくしていることも共通点として挙げられる。一方で、ボザの特徴も浮かび上がった。第1楽章においては、 ボザは主題を労作しており、主題へのアプローチの仕方にイベールとの違いが出ている。また、教会旋法の使用、五音音階の使用は、ボザにしかみられない。特に、この教会旋法の使用によって、 あくまでも調性に縛られているイベールとは異なり、ボザは旋法の中心音に縛られている。
 以上の考察から、《コンチェルティーノ》におけるボザの書法の特徴として、主題の労作や、 教会旋法や五音音階の使用が挙げられた。一方で、イベールとの類似点もみられたため、ボザは《コンチェルティーノ》において、イベールの様式を受け継ぎながら、 そこに自身の書法を加えていると考えらえる。ミュールは、演奏活動の頂点とされるボストン交響楽団との合衆国ツアーに合わせてリサイタルを行なっており、その際、ボザの《コンチェルティーノ》を演奏している。 ボザの《コンチェルティーノ》を演奏したことは、ミュールがボザの《コンチェルティーノ》を世界に広めたということでもあった。


「18世紀前半までのハンブルクとブラウンシュヴァイクにおけるオペラ――上演の実態と両劇場の関係性」

村瀬優花(愛知県立芸術大学大学院音楽研究科博士前期課程音楽学領域)

 ドイツのバロック・オペラは、オペラ史においてしばしば忘れ去られ、重要視されない存在である。17世紀後半から、ドイツ語圏で公開劇場が作られるようになり、 それまで宮廷の専有物であったオペラが市民に開かれるようになった。ドイツ語圏における最初の公開劇場は、1678年にハンプルクに設立されたゲンゼマルクト劇場である。 これを手本として、1690年にはブラウンシュヴァイクのハーゲンマルクトに劇場が設立された。ゲンゼマルクト劇場の監督であったゲオルク・フィリップ・テレマン Georg Philipp Telemann(1681-1767) のオペラ《美の勝利 Sieg der Schonheit》(1722)は、ハンブルクでの初演後にブラウンシュヴァイクでも上演されたが、 これらの上演の際にゲンゼマルクト劇場とハーゲンマルクト劇場との間で歌手の派遣が行われたことが先行研究でわかっている。そこで本論文では、 ドイツ語オペラが上演されていた18 世紀前半までのハンブルクとブラウンシュヴァイクの劇場に着目し、両劇場におけるオペラ上演の実態を解明するとともに、 2つの劇場が歌手の派遣以外にいかなるつながりを持っていたのかを明らかにすることを目的とした。
 論文全体は2章から構成される。第1章では、18世紀前半までのハンブルクとブラウンシュヴァイクにおいてオペラ以外にどのような音楽生活が営まれていたのか、 それぞれの都市の当時の状況をふまえながら論じた。ハンブルクは港湾都市であり、 海上貿易で栄えた。三十年戦争中も財政的に繁栄し、18世紀までに並外れた経済成長を遂げ、北ヨーロッパで最も重要な都市のひとつとなった。宗教改革でルター派プロテスタントを受け入れたことで、 17世紀までに宗教音楽が興隆し、それに伴ってオルガン音楽が発展した。一方で、コレギウム・ムジクム Collegium musicum による公開演奏会の習慣、 また楽譜出版の普及によってアマチュアの音楽活動が盛んになった。ハンブルクは帝国直属都市であり宮廷に支配されなかったために、市民が力を持つことができ、 宗教音楽よりも世俗の音楽が優位になっていったのである。ブラウンシュヴァイクは宮廷都市であり、ヴェルフ家に統治されていた。内陸都市であるブラウンシュヴァイクは、 陸路でハンブルクを含むドイツ語圏のさまざまな都市と結ばれており、交通の要所であった。15世紀末からは見本市が年に2回開催されるようになり、 これらの見本市は17世紀後半以降にさらなる発展を遂げ、市は経済的に繁栄した。宮廷は楽団を有し、16世紀後半には公爵の指示により宮廷合唱団 Hofkantorei も創設された。 また、宗教改革以前の14世紀からすでに市のほぼすべての教会にオルガンが置かれており、何人もの優れたオルガン製作者がブラウンシュヴァイクにいた。 当時の公爵はオルガンに特に関心を持ち、宮廷専属のオルガン製作者を雇ったり、オルガニストを集めて会合を行ったりしていた。ブラウンシュヴァイクにおける音楽の発展は、 同地を治めていたヴェルフ家の影響を大きく受けた。
 第2章では、ハンブルクとブラウンシュヴァイクのオペラ劇場に焦点を当て、上演の実態を考察した。ハンブルクのゲンゼマルクト劇場は、 市民による音楽の世俗化の流れのなかで設立された。世俗化を恐れ、劇場設立に反対していた聖職者たちを納得させるため、宗教的な題材のオペラを多く上演していたことが特徴である。 また、上演は四旬節(復活祭前の46日間)を除いて、1年を通して行われていた。ブラウンシュヴァイクのハーゲンマルクト劇場は、芸術愛好家であった公爵の指示によって設立された。 年に2回3週間ずつ開催された見本市の期間に上演が行われており、見本市に客を引き寄せるためのアトラクションであったとともに、ヴェルフ家の人物の誕生日や結婚式等祝宴のためのオペラも上演され、 機械音楽としての側面も持っていた。そして、これまでに先行研究でまとめられている両劇場の上演演目の比較によって、2つの劇場が非常に似通ったレパートリーを持っていたことを明らかにした。 筆者はさらに、各劇場の年ごとの初演数の比較、両劇場で共通して上演された作品の分析を行った。ハンブルクとブラウンシュヴァイクの全体の上演数を考慮すると、 ブラウンシュヴァイクの方がより盛んに安定した数の初演が行われていたことを指摘した。また、ゲンゼマルクト劇場の初期から中期にかけての11作品が、 ブラウンシュヴァイクにもたらされている。ハンブルク上演後、20年から30年経過してからブラウンシュヴァイクに上演が行われた作品が見られるのも特徴である。 一方、ブラウンシュヴァイクからは多くの作品がハンブルクにもたらされた。ハーゲンマルクト劇場のほぼ全時期にわたる37作品が、 ブラウンシュヴァイク上演後ただちにゲンゼマルクト劇場でも上演されたことは特筆すべき点である。このことから、ハーゲンマルクト劇場はゲンゼマルクト劇場を手本として設立されたが、 オペラの上演に関してはハーゲンマルクト劇場がゲンゼマルクト劇場に大きな影響を与えていたと言える。