日本音楽学会中部支部 第126回定例研究会報告

日時:2019年(令和元年)7月6日(土) 13時30分~15時30分

場所:今重屋敷 能舞館(滋賀県長浜市元浜町23-17)

内容:「今重屋敷 能舞館」ガイドツアーと謡・仕舞体験
 ・館内ガイドツアー:能舞館職員 山岡亜裕未氏
 ・資料解説及び謡・仕舞体験:
  観世流能楽師・重要無形文化財総合指定保持者 古橋正邦氏


 長浜市は、能の前身である「猿楽」の大きな一派であった「近江猿楽」の拠点のひとつとして知られる町である。現在でも市内の神社には鎌倉、 室町時代からの能面や装束が伝えられており、長浜八幡宮には1778年に建築された能舞台も現存している。
 第126回定例研究会では、平成23年に長浜市元浜町に開館した能の展示場「今重屋敷 能舞館」を訪れ、特に近江、 湖北地域に縁の深い能の資料や長浜市民所蔵の能面や能装束、楽器などの見学と、能・仕舞の体験を行った。

【報告】

「今重屋敷 能舞館」見学と謡・仕舞体験に参加して

高山葉子(愛知県立芸術大学非常勤講師)

 開催日前日は全国的な悪天候で開催が危ぶまれたものの、当日はまずまずの空となった。蒸し暑さはあれど傘の必要もなく、JR長浜駅に集合した参加者全員で、 風情ある街並みを楽しみつつ会場へと向かった。
 目的地まではJR長浜駅から徒歩10分程度。歴史を感じさせる小道の一角に、涼しげな様子で建つ町家が「今重屋敷 能舞館」である。
 中に入るとまず目につくのが、屋内の一角に積み重ねられた陶器の酒瓶である。館内のガイドツアーをご担当下さった能舞館職員の山岡亜裕未氏によれば、 以前は造り酒屋を営む住宅だったとのこと。説明を受けながらよく見れば、建物内には大きな竃や深い井戸、中庭には高い煙突や分厚い壁を持つ蔵が今もどっしりとした姿で残されており、 この場所に暮らした人々の息遣いが伝わってくるようであった。
 伝統的な町家造りが保存されている土間を抜け、引き戸を開けると上がり口になっており、そこからが能の展示室である。入ってすぐ左手に美しい能舞台があり目を引いた。 元々建っていた町家に収めねばならなかったからであろう、サイズこそ実際の2分の1であるものの、鏡板には松が描かれ、小さいながらも橋掛かりや地謡座、 本舞台を取り囲む4本の柱なども持つ、本格的なものである。仕舞体験の際には本舞台に上がらせて頂けるとのことで、興奮を胸に秘めつつまずは次の展示室へと向かった。
 2つ目の部屋では、能の歴史や、能を構成する諸要素についての解説を見ることができた。四方の壁には写真入りのパネルが展示されており、分かりやすく能の概要が紹介されている。 簡潔で良い展示だなと思いつつ見てゆくと、諸所に今まで全く知らなかった興味深い情報があり、ハッとさせられる。例えば、能舞台についての解説では、 「能舞台の音響効果」について触れられていた。能を鑑賞していると、演者の足拍子が音楽の一部のように鳴り響き、場面に切迫感を与えることがあるが、 あのお腹に響くような音はただ檜の板を踏めば鳴るというものではなく、実は能舞台の床下や橋掛かりの下には複数の「甕(かめ)」が据えてあり、 鳴った音を増幅・反響させる工夫が施してあるのだとか。なるほど、それであのような迫力のある音が…!と深く合点がいった。また、滋賀県の地図上に展開させた 「謡曲マップ」も面白いものであった。滋賀県、すなわち近江国を題材にした能の曲は約50曲あり、なんと全謡曲中の5分の1を占めているようである。有名な演目で言えば、 長浜市は「竹生島」、竜王市は「烏帽子折」、高島市は「白髭」、大津市は「巴」「三井寺」「蝉丸」等の舞台である。それぞれの演目の内容や登場人物を思い浮かべつつ、 歴史上如何に近江国が重要な場所であったかを改めて感じさせられた。
 なお、この部屋で特筆すべきは、能面の展示である。材料や制作手順の詳細な説明や、徳川家より「天下一」の称号を受け、近江井関と呼ばれた面打の一族・井関家の二代目、 井関次郎左衛門親政が作成した能面の複製などと共に、来館者が自由に身につけることのできる能面が展示台に用意されている。これが大変楽しい。今回、 能関係資料の解説をお引き受け下さった観世流能楽師の古橋正邦氏に補助をお願いし、顔面の正しい位置に能面を固定して頂くと、面の穴から覗く視界の余りの狭さに驚愕する。 殆ど見えないと言って良いほどである。この視界では、客席はおろか、相手の演者との距離や自分の位置、姿など、視覚としてはほぼ確認不可能であることが立ちどころに分かる。 能楽師の方々はこの僅かな視界であのような舞台を務めるのだと思うと、そこにどれほどの修練と、極力視覚に頼ることのないところまで磨き上げられた体感があるのか、よくよく理解できた。
 部屋の中央の階段を上り2階へ進む。3つ目の部屋は能装束や帯などの展示室であった。展示物の殆どは古橋家所有の物とのことで、ご自身が装束を作成する際に意識すること (サイズに関することや模様について)等、現役の能楽師からでなければ伺えない貴重なお話をたっぷり聞かせて頂くことができた。
 山岡氏、古橋氏の解説で館内をゆっくり見学した後、いよいよ謡・仕舞体験となった。古橋氏が用意して下さった教材は「高砂」である。参加者全員、本舞台に向かって座り、 舞台上の古橋氏の謡い方を耳で聴きながら微妙な節回しを必死で真似する。古橋氏曰く、「能は口伝」。理解はできるがたった数行の節回しが真似できず、とても難しい。それでも耳で聴き、 謳いながら楽譜(謡本)を眺めれば、ひとつひとつの符号の意味が身体で理解できる。「謡は喉を締めて唸るようなイメージがあるが違う。腹から声を出し、はっきり口の形を作って発音して下さい」 との指導に従って懸命に声を出すうち、「なかなか良いですよ。初めてにしては上等です!」と温かい言葉を頂きホッとした。続く仕舞体験では、白足袋を履き、遂に本舞台上へ。 ひとり1本ずつ扇を借り、まずは基本の「構え」から指導を受けた。足を揃え、重心を下に落とし、胸を張り、肘をやわらかく曲げて広げ、僅かに前のめりに。これがもうできない。 しかし、何故そのような姿勢をとる必要があるのか、その理由も教えて頂きながらの練習は、とてもやり甲斐のあるものだった。自分自身の身体を通して、 これまで観てきた能の舞台がどのような身体性によって支えられていたのかを、一部ではあるが理解することができたのは大きな喜びであった。
 その後、摺り足による「運び」の練習、そして古橋氏による「高砂」実演の鑑賞等を経て、最後の質疑応答へ。檜の板張りの舞台はほんのりと温かく正座していても心地好かったが、 それでも板は板。「この上に長時間正座するというのは流石に玄人と言えど大変なのではないか?」という質問に、古橋氏から「実は、各地の能舞台それぞれで、 檜舞台の “柔らかさ”に差があるのですよ」とのお答え。柔らかければ当然足への負担は少なく長時間の正座にも耐えられるが、堅い時は覚悟するとのこと。 最後まで実感のこもったお話を伺うことができ、大満足の研究会となった。
 なお、今回の定例研究会に際し、暖かいご指導と詳しいご説明を頂いた観世流能楽師の古橋正邦氏、行き届いたご配慮を頂いた能舞館職員の山岡亜裕未氏に対して、 この場をお借りして心からお礼申し上げます。誠にありがとうございました。