日本音楽学会中部支部 第124回定例研究会報告

日時:2018年(平成30年)12月22日(土) 13時30分~16時30分

場所:名古屋芸術大学東キャンパス5号館301教室

司会:金子敦子(名古屋芸術大学)

第1部 研究発表

1. 七條めぐみ(愛知県立芸術大学非常勤講師)
「大正期の名古屋におけるドイツ兵俘虜の音楽活動
     ――板東、習志野の両収容所の事例と比較して」

2. 馬場雄司(京都文教大学)
「農村のポピュラー文化
     ――タイにおけるグローバル化と伝統文化保存・復興運動のはざま」

第2部 特別講演

(ヅォンティンティン)(中部大学国際関係学部)
「中国琵琶ティンティンが語る ――五行と五臓と五音」



【発表要旨】

大正期の名古屋におけるドイツ兵俘虜の音楽活動
             ――板東、習志野の両収容所の事例と比較して

七條めぐみ(愛知県立芸術大学非常勤講師)

 第一次世界大戦で日本軍の俘虜となった中国・青島のドイツ軍は、1914(大正3)年10月から1919(大正8)年12月にかけて、 日本各地の収容所に留め置かれた。俘虜収容所というと一般に、第二次世界大戦下にくり広げられた非人道的な扱いという印象が強いが、 大正時代の日本では名実ともに近代国家になろうとする気運のもと、俘虜に対してきわめて人道的な扱いがなされた。ドイツ兵俘虜たちは、 たんに収容生活を送るだけでなく、器械体操や演劇、音楽などのスポーツ・文化活動、収容所内外での労働を行うことができた。 彼らは当時の日本にとって、戦時捕虜でありながら、先進的な技術やすぐれた文化をもつ「客人」でもあったのだ。
 本発表では、このような俘虜による音楽活動に注目した。2018年は徳島の板東収容所でベートーヴェンの交響曲第9番が日本初演されてから 100年の記念年であることから、俘虜収容所に対する一般的な関心も高まっている。ただし、徳島の事例はあくまでも収容所の中で俘虜向けに 行われた演奏会だった。本発表で取り上げた名古屋収容所は、例外的に都市部に作られたという立地条件を生かして、住民との交流が活発に行われ、 音楽面では地元の音楽隊による演奏披露や、俘虜の楽団による公開演奏会も行われた。本発表ではまず、名古屋における俘虜の音楽活動について 述べた上で、板東、習志野収容所の事例との比較を行うことで、名古屋の音楽活動の特色について考察した。
 名古屋収容所における俘虜の楽団は、ドイツで音楽教育を受けた人物が中心となりながら、職業軍楽隊以外の軍人や民間人によって構成され、 鈴木政吉などからの寄付や自ら製作した楽器を用いて活動した。彼らによる音楽活動は、第一次世界大戦の休戦協定が結ばれた 1918(大正7)年11月以降に目立って行われるようになり、同年12月の陸軍将校向け演奏会、1919(大正8)年4月の中京音楽会会員向けの 演奏会を経て、5月の鶴舞公園における音楽運動会と、6月の俘虜製作品展覧会での演奏という、2回の一般公開の催しへと結実した。 この間に演奏されたプログラムは、1919(大正8)年4月の演奏会ではオペラの前奏曲や合唱曲、舞曲などが中心であったのに対し、 同年6月の演奏ではドイツ皇帝軍への帰属を示すような、軍楽隊ならではのレパートリーが多く含まれた。このようなレパートリーが選択された 背景には、俘虜たちの帰国が決まり、彼らが軍事色の強い音楽を演奏することに対して日本陸軍側の規制が緩められたことが考えられるだろう。 また当時の新聞・雑誌記事によれば、名古屋の人々は俘虜の演奏に対し、音楽的な質の高さや異国情緒に感じ入ったとあり、俘虜の楽団が 大きな文化的インパクトを与えたことが窺える。
 一方で、板東収容所と習志野収容所の事例を見ると、エンゲル、ハンゼン、ミリエスといった、上海や青島の楽団で主導的な地位にあった人物が 加わることで、純粋にクラシック音楽の演奏会として成立するような、高度な演奏活動が展開されていたことが分かった。また、これらの演奏会は 主に収容所内で俘虜向けに行われ、プログラムを発行するなど組織的に行われていた。このような事例は、大規模収容所ならではの印刷設備や 音楽的素養の高い人物の存在、収容所の比較的寛容な管理体制が組み合わされて生じたものだと考えられる。ただし、板東、習志野いずれに関しても 日本側住民の反応については十分な調査がされておらず、今後地元の新聞報道や住民の証言に当たることで、俘虜の音楽活動が地域文化に与えた インパクトを精査する必要がある。また、板東や習志野で演奏されたレパートリーが、上海や青島で演奏されていたものとどのような関連性を もつのか、という視点の比較考察も必要となるだろう。
 楽団の大小やレパートリーの多寡にかかわらず、音楽活動がドイツ兵俘虜にとっての重要な娯楽であり文化活動であったことは、 当時の収容所全体に言えることだろう。その上で名古屋収容所に注目すると、俘虜の音楽活動が新聞や音楽雑誌といった、日本側の資料から 裏付けられることが特徴的である。このことは、名古屋収容所が都市部に置かれていたことや、所外労働を通じて住民との距離が近かったことが 背景にあると考えられる。それにより、音楽活動が当初から収容所内で完結するのではなく、住民に開かれたものを念頭に展開していったこと、 すなわち音楽を通して交流を切り開いたことが大きな特徴だと言えよう。今後は、各収容所の音楽活動についてより詳細な調査を行うことで、 ドイツ兵俘虜の音楽活動の全容と、それが近代日本文化に与えた影響について明らかにすることが目標である。

農村のポピュラー文化
            ――タイにおけるグローバル化と伝統文化保存・復興運動のはざま

馬場雄司(京都文教大学)

 ポピュラー文化は、従来、都市と切り離された「伝統的な民俗文化」に対照されるものとされてきたが、今日のタイ農村では、 労働・就学、商品の流通、メディアの影響など都市的文化と連続した生活にもとづいた新たな芸能文化が生み出されている。いわば、 「農村のポピュラー文化」である。
 タイ北部ナーン県ターワンパー郡N村は、タイ系民族の1つタイ・ルーの村であるが、19世紀に中国雲南省西双版納(しいさんぱんな) タイ族自治州東部のムアンラーから移住した人々が建てた村で、3年に1度、故地ムアンラーの守護霊を祀ってきた。
 80年代終わりから始まる冷戦の終結によって周辺の社会主義諸国との国境が開放され、北部タイの地域開発は国境を越えた開発の一環として 進められ、同時に地域の観光化をもたらした。また、急速なグローバル化、経済発展による近代化に対して、伝統文化の見直しも叫ばれ、 地方の知恵に目をむける政策も提出された。更に90年代後半以後の経済危機ののち、地域再生のため、家族やコミュニティの機能の回復や 一村一品運動などの政策が登場した。開発の進展と社会の変化にともない、村人の工夫による様々な芸能が繰り広げられるようになった。 そこには、伝統的芸能の衰退とその再編をめざす動きと、伝統にこだわらず様々な音楽・芸能を取り入れていく動きがみられる。
 儀礼において神を呼ぶなど中心的役割を果たしてきたカプ・ルー(タイ・ルー伝統歌謡)は衰退し、高齢者伝統音楽クラブ、 ついで若者伝統音楽グループが登場した。また、タイ・ルー舞踊が意図的に強調された。これらは、一度、衰退した文化にかわり、 意図的に「伝統文化」を強調する動きであるが、タイ・ルーの真正性にこだわらない新たな芸能の創出でもあった。カプ・ルーに代わって登場した ドントリープンムアンと呼ぶ楽団形式は、北タイ全体でみられる伝統音楽であり、舞踊の強調は、視覚的に観光客をもひきつけるためであった。
 一方、1993年の儀礼から村内に設営されるようになったステージには、伝統にこだわらない新たに生み出された様々な芸能が登場した。 若者によるポップス、小中学校の生徒や幼稚園児などの演技、主婦達による、中部タイ、東北タイなど他地域の踊り、美人コンテストの パロディとして「誰が美しくないか」を競う老女のコンテストや、高齢女性たちによる守護霊に対するエアロビの「奉納」まで現れた。
 これらの芸能は、観光化、伝統文化の見直し、家族や高齢者の問題、一村一品運動など、様々な政策に対応しながらも、村人自身のアイデアで 彼ら独自の世界を描くものであった。また、夜のステージでは、村内の5組対抗パフォーマンスが行われてきたが、一時帰郷者を含め村外にも 広がる親族が共同で出し物を考案する機会であり、村外移住者が村人意識を維持する機会となってきた。
 村人の芸能にみる様々な指向は、伝統の強調と他地域への拡散という一見相異なる方向の中にある。N村のコミュニティは、村外に広がる人々の ネットワークの集積であり、そのシンボリックな中心が故地の守護霊である。守護霊というシンボリックな中心とかかわる「伝統」を強調した 芸能と、様々な地域に拡散した村人をむすぶ役割を果たす様々な「伝統」にこだわらない芸能の存在は、再編され続け強調されつづける中心と 中心からの離脱の可能性をはらむ周辺の村外居住者とのゆらぎを示している。
 グローバルな動きの中に身をおきつつ、教育・研究の中で今後の地方のあるべき方向を示すための理念を示す研究・教育者は、伝統文化に 根を求める。しかし、そこには、それを推進する個人の背景が関わる。北部タイ、チェンマイ大学のティティポン氏(40代)は「人間であること」 (自然とともにあること)、東北タイ、マハーサラカム大学のチャルーンチャイ氏(70代)は東洋の知恵を重視し、それらが伝統にこだわる理念の 中心になるが、現役を自認する前者がより新たな芸術の創造に力を注ぐ立場をとり、後者がより次世代への伝承に力点を置く立場をとる。
 村人が必要とするのは、人々のつながりの求心力の要となる「伝統」であり、形を変えつつ村人の中からわきあがってきたものである。 そこには「正しい」芸能のあり方は必ずしも必要とされない。そうした村人の自発的な意識と教育・研究者の理念の一致が、今後の地域文化の 行方に必要である。チェンマイ大学芸術学部での、学生の出身地をフィールドに選んでフィールドワークを行わせる方法、チャルーンチャイ氏の、 村人の中から師を発掘するという方法は、村人と教育・研究者の重要な協力の方法であり、今後の展開が期待される。
 伝統にこだわる動きは西洋化やグローバル化に対する懐疑でもあるが、日常生活に深く影響を及ぼしている西洋化、グローバル化はここでは 容認されている。伝統へのこだわりは、そうした中での、生活や精神のあり方のバランスをとろうとする動きでもある。
 ここでは、農村で進行する地域の現実と、あるべき理想をもとにした地域の将来に向けた取りくみの双方の検討を通して、グローバル化の中で 「伝統」にこだわる必然性や意味について考えた。混沌とした現状の向う方向を解きほぐすヒントになれば幸いである。
 

【傍聴記】

特別講演「中国琵琶ティンティンが語る ――五行と五臓と五音」傍聴記

明木茂夫

講師紹介:(ヅォンティンティン)氏
 中国琵琶奏者・歌手、中部大学国際関係学部国際文化学科専任講師。中国西安市出身、6歳から琵琶を始め、西安芸術学校卒業後1997年 留学生として来日。以後広く演奏活動を展開し、中部大学大学院にて博士号取得、2007年より現職。

 今回のティンティン氏の講演は、前半で五行思想に基づく音楽療法を紹介し、後半はそれに関連した楽曲を琵琶で演奏するという、 レクチャーコンサート形式で行われた。「陰陽五行」とはこの世の中を陰陽と五行の組み合わせで説明しようとする、古代中国の世界観の 根底にある思想である。その内の五行とはこの世界を構成するとされる五つの元素、即ち「木・火・土・金・水」のことであり、この世の様々な 物事をこの五行に配当するという考え方が「五行説」である。例えば、
「五時」(五つの季節)は、
  春=木、夏=火、土用=土、秋=金、冬=水
「五方」(五つの方角)は、
  東=木、南=火、中央=土、西=金、北=水
「五色」は、
  青(緑)東=木、紅(赤)=火、黄=土、白=金、玄(黒)=水
「五常」(五つの徳目)は、
  仁=木、礼=火、信=土、義=金、智=水
の如くである。そして特に音楽療法と関係が深いのが「五音=宮・商・角・徴・羽」と「五臓=肝・心・脾・肺・腎」である。「五音」は 現代我々の用いる「ド・レ・ミ・ソ・ラ」に相当する五つの階名、そして「五臓」は人体の代表的な五つの臓器たる「肝・心・脾・肺・腎」である。 それぞれ、
  角=木、徴=火、宮=土、商=金、羽=水
  肝=木、心=火、脾=土、肺=金、腎=水
のように五行に配当される。つまり、五音の内の「角」の音と、人間の「肝臓」とはいずれも五行の「木」に配当され、五音の内の「徴」の音と、 人間の「心臓」とはいずれも五行の「火」に配当される(以下同様)、ということであり、同じ五行に配当される物事は互いに通じ合う ということである。
 氏の紹介された音楽療法はこの「五行説」に基づく健康法で、ある五行に配当される音を用いた音楽をそれに配当される時刻に聴くと、 同じ五行に配当された臓器を整える効果がある、というものである。例えば午後の時間に水に当たる羽の音を用いた音楽(特に打楽器や水の音) を聴くと腎臓の代謝を促す、等である。氏は、こうした音楽療法は古くは『黄帝内経』にまで遡れると述べ、「亦楽亦薬」「楽先薬後」という言葉を 紹介された。これは「亦楽にして亦薬」「楽を先とし薬を後とす」と訓ず。臓器に応じて音楽の処方箋を出す、投薬よりもまず音楽を聴くことから 始める、と言うことであろう。
 報告者の按ずるに、「亦楽亦薬」「楽先薬後」と言った語句は実は『黄帝内経』には見えない。この言葉自体は音楽療法(代替医療)の実践者が 近年用いた言葉であるらしい。数ある音楽療法の中で特に陰陽五行思想に結びつけた音楽療法は、陰陽五行が中国人の世界観の奥底に根付いている だけに効果を上げるということはあろうし、その実践を事象として分析することは興味深い研究になると思われる。それをいかに文献的検証に 結びつけるかが今後の課題であろう。
 研究発表に続く後半では琵琶の演奏が披露された。演奏曲目は前半で触れられた五行と五音の対応を踏まえて、この演奏の行われる時間帯に 対応する「羽=A」の音が特徴的に用いられる曲を選んだとのことであった。一曲目は「彝(イ)族舞曲」で、雲南地方の少数民族彝族の民謡に 基づいて1965年に王恵然により作られた琵琶独奏曲。二曲目は「天山之春」で、維吾爾(ウイグル)族の楽器ラワープ(熱瓦甫)の曲を王範地が 1961年に琵琶独奏曲に編曲したもの。三曲目は納西(ナシ)族の民謡「浪陶沙」で、実際の納西族の歌声の録音に合わせて演奏された。