日本音楽学会中部支部 第120回定例研究会報告

日時:2017年(平成29)7月22日(土) 13時30分〜16時00分

場所:中京大学名古屋キャンパスセンタービル6F 0603教室

司会:明木茂夫(中京大学)

<研究発表>

畑陽子(愛知県立芸術大学大学院音楽研究科博士後期課程音楽専攻 音楽学分野) 「『ビルボード』におけるヘンテ・デ・ゾーナ――米玖国交回復がキューバ音楽にもたらす影響」

水野みか子(名古屋市立大学) 「1930年代のピエール・シェフェールに関する記述と資料」


【発表要旨】

畑陽子(愛知県立芸術大学大学院音楽研究科博士後期課程音楽専攻 音楽学分野)

『ビルボード』におけるヘンテ・デ・ゾーナ――米玖国交回復がキューバ音楽にもたらす影響

 2015年、米国とキューバの国交は正式に回復された。キューバ革命(1959年)をきっかけに米国との国交が途絶えて以来、米国を中心とした国際市場において、キューバ在住の、つまり亡命していないキューバ人アーティストが活躍することはほとんどなかった。しかし、2014年、公式に国交回復宣言がされる数カ月前から、キューバの若い音楽ユニットであるヘンテ・デ・ゾーナGente de Zona (2000頃-) が、突如として『ビルボード billboard』紙面に現れ、同誌によるチャート「ラテン・ホット・ソング Latin Hot Songs」の1位を飾ることになる。
 発表者は、キューバ人音楽家の米国進出の先駆けとなったヘンテ・デ・ゾーナに焦点を当て、現在のレゲトンの状況について研究を行っている。今回の発表では、『ビルボード』の記事とチャートをもとに行った彼らの活動と需要の調査を報告するとともに、彼らの米国市場進出前後の作品の比較し、変化を示すことで、彼らがターゲットとして想定する聴衆の違いによってどのように作品づくりを行っているのかを考察した。
 ヘンテ・デ・ゾーナはキューバのレゲトン reggaetón と呼ばれるジャンルのアーティストである。レゲトンは元々ニューヨークに住むラテン・アメリカ系移民の若者たちのよって始められた音楽であり、スペイン語の歌詞やデンボウ・リディム dembow riddim と呼ばれるリズムセクション、ラップの唱法が用いられているなどの特徴を持つ。レゲトンは、2005年頃には既にキューバへ渡り、徐々にキューバ流に変化した(クバトン、レゲトン・クバーノと呼ばれることもある)。米国からもたらされたレゲトンはキューバで変化し、2014年にヘンテ・デ・ゾーナが米国市場へ進出したのを皮切りに、今度はレゲトン・クバーノが米国市場にもたらされることとなった。
 主にキューバ国内の聴衆に聞かれていた時代のヘンテ・デ・ゾーナのレゲトン・クバーノは、歌詞にキューバのスラング(外国人、主に米国人に対して軽蔑的なニュアンスを含むもの)やキューバ国内の情勢を反映させた内容が盛り込まれていた。音楽的にも、キューバの伝統音楽と融合されているレゲトンの作品が多くみられた。一方で、2014年以降にリリースされた楽曲では、キューバ人同士でのみ通じる外国人嫌悪的なスラングや、キューバ人同士が共感できるような内容は消え、国際的に理解されやすい歌詞に取って代わられていた。しかし「ルンバ」や「コンガ」など、外国人にとってもキューバを容易に想像しやすい単語は積極的に用いられていた。
 また、音楽的には、キューバの正式な伝統ではなく、表象的なキューバの表現が多く用いられていた。例えば、キューバ(や、キューバでなくてもトロピカルな場所)をイメージさせるような楽器(サルサなどによく用いられるコンガ、グイロ、ブラス・セクションだけでなく、スチールギターや、またキューバの楽器とは言い難いスチールドラムやマリンバなど)が用いられる一方で、それらの楽器は伝統的なトゥンバオやモントゥーノといったリズムをそのまま刻むのではなく、より装飾的な役割を果たしている。楽曲の構造においても、もともと繰り返し構造を持ってる作品がほとんどだった一方で、米国市場に進出して以降の作品には、Aメロ、Bメロ、サビのような展開がみられる構造となっており、より多様なコードの進行やメロディが用いられている。また、楽曲に合わせて制作されたミュージック・ビデオにも、キューバの街並み、国旗、楽器、ヤシの木など、トロピカルなイメージを助ける視覚的要素が盛り込まれていた。
 ヘンテ・デ・ゾーナのレゲトン・クバーノは、米国市場に進出したのをきっかけに、歌詞やリズム、音楽の構造において国際的な聴衆に受け入れられない要素が弱められ、欧米のポピュラー音楽の響きに近づいている。その一方で、歌詞における特定の言葉、楽器、視覚的要素でキューバらしさを保持している。結論として、ヘンテ・デ・ゾーナは、より開かれた聴衆に理解される音楽づくりを行っている一方で、キューバの「エキゾチックな」表現を強みとして作品作りを行っていることを示した。


水野みか子(名古屋市立大学)

1930年代のピエール・シェフェールに関する記述と資料

1. 背景
 1929年にポリテクニックに入学したピエール・シェフェール(1910-1995)は、1943-44年に最初のラジオフォニック作品《惑星のコキーユ》を制作するまでのおよそ15年間、多様な分野で創造活動を展開した。たとえば、スカウト仲間との演劇実践、ラジオ放送における技術的工夫、ヴィシー政府時代の大スペクタクルの実施、ラジオ芸術に関する美学的思索とその執筆、演劇やラジオフォニック制作のための人員公募とワークショップの開催などである。そうした活動の計画と実践の経緯やそのときどきの心象および未来への期待感などについて、シェフェール自身は、同人誌やスカウト系の小冊子に記事を書き、多くのメモや草稿を残している。また、1970〜80年代には、自身の日記に基づく回想録という形で、戦中の出来事を含む自伝的ドキュメントを出版した。
 発表者はこれまで、フランスにおけるシェフェール関連資料研究の動向を踏まえて、1940年代のシェフェールの演劇活動とラジオフォニックの制作実施状況、および劇作とラジオ作品の内容について、日本音楽学会全国大会で発表してきた。今回の発表では、1940年以前の2つの資料をあらためて取り上げ、1970年以降の回想録での記述との関連を考察し、それら資料の意義を検討するとともに、そこから読み取ることができるシェフェールの音楽観について報告した。取り上げた2つの資料は、ナディア・ブーランジェ宛の手紙と定期刊行物La Revue des Jeunesである。

2. ナディア・ブーランジェ宛の手紙
 ナディア・ブーランジェに宛てたシェフェールの手紙は、1933年から1979年までの12のアイテムとしてフランス国立図書館に保管され、それらは8つのグループに分けられている。12のアイテムは、フランス国立図書館が所有する、ナディア・ブーランジェが受けとった全手紙のうちの第356番から第367番に該当する。なお、第355番は、シェフェールの最初の妻エリザベスがナディア・ブーランジェに宛てて書いた手紙である。
第360番の葉書には差出人住所として、すでに「プチ・シャン通り13番地」が記されている。第362、363、364番は1971年7月11日と記された書簡と封筒、サンパウロの一連の写真、そして、ブラジルの若手作曲家ラウル・ド・ヴァレをフランスのギィ・リーベルに推薦することを請う、タイプ打ちの書類である。シェフェールの要請に従ってブーランジェがギィ・リーベル宛に作成した推薦状の写しには、1976年9月17日の日付がある。
 1930 年代のシェフェールの音楽観や音楽家との交友関係を証すのは第356〜359番である。「突然のお手紙で失礼いたします」という書き出しで始まる第356番は、1933年と記されており、おそらくブーランジェへの最初の手紙と思われる。手紙の末尾には、後に使いつづけられることになる、十字を切るような独特な形状を持ったシェフェールのサインが記されている。この手紙の文面を、1934年9月15日発刊のLa Revue des Jeunes 25-9号すなわちL’Etoile Filante10号に掲載された、「音楽」と題された記事と照合することは興味深い。「音楽」と題されたこの記事は、ナディア・ブーランジェ嬢のお宅での2時間半のコンサートを描写している。そこでは、ドラコウスカ夫人とポリニヤック夫人の演奏、あるいは、指揮をしながらピアノを弾くブーランジェの姿が、感動さめやらぬ熱い筆致で書かれている。この手紙と記事の両方において、「音楽美への信頼」が「神を敬う信念」と同等に強調されている。
 1940年1月10日と記された第357番の2枚の便せんは、第358番、第359番へと続く。6枚の便せんにぎっしりと文字の書き込まれたこの手紙には、「音楽は真実、美、宇宙と対峙するもの」というシェフェールの音楽観が記されている。

3. La Revue des Jeunes
 シェフェールが創刊から携わったスカウト向けの小冊子L’Etoile Filanteは、La Revue des Jeunesの後援を受け、両者は合併誌として印刷された。シェフェールが学外で発表した最初の神秘劇《東方三博士》は、La Revue des Jeunes 24-11号(1933年9月15日付)に掲載された。それ以後シェフェールは、往復書簡の形をとる《クロテール・ニコール》、神秘劇《パンとワインの劇》などの文芸や演劇台本を、1938年1月までLa Revue des Jeunesに掲載した。小冊子の編集と原稿執筆によって、スカウト仲間とアマチュア演劇に携わる人たちの間でのシェフェールの知名度はおおいに上がった。
 La Revue des Jeunes26-5号(1935年5月15日付)すなわちL’Etoile Filante 18号では、シェフェールの監修によって「スカウトたちの音楽」が特集されたが、ここには、ジャック・シャイエによる分析的論考も寄せられた。
 La Revue des Jeunes28-9号(1937年9月15日付)において、シェフェールは初めて演劇人募集の告示を掲載した。これは10月から稽古に入るための急募であり、「エキップ・ソシアルの仲間のように、社会的・美的共同意識を持つアマチュア」に対する呼びかけだった。
 La Revue des Jeunesに掲載された戯曲台本には、しばしば、舞台演出の詳細なコメントや劇中で歌われる音楽の楽譜が掲載されている。たとえば、1935年7月20日のストラスブールのカテドラル前広場で上演され、半年後にLa Revue des Jeunesに掲載された《パンとワインの劇》の台本には、役者の立ち位置や道具の配置の図とともに、「即興的に台詞を吹きかけて」ドラマにリズムを作る役割の人について書かれており、「オーケストラの指揮者のように、台詞やアクションの早さを演出家が指揮する」と記されている。