日本音楽学会中部支部 第115回例会報告

日時:2015年(平成27)12月12日(土)13時30分~16時40分

場所:名古屋女子大学 東館504講義室

司会:井上さつき(愛知県立芸術大学)

【シンポジウム】「幕末から明治の名古屋の伝統芸能」

パネリスト:清水禎子(愛知県史編さん室) 寺内直子(神戸大学) 飯塚恵理人(椙山女学園大学)

 今回のシンポジウムは、パネリストに日本音楽学会外から名古屋の芸能史研究の第一人者である清水禎子氏と飯塚恵理人氏、西日本支部所属の雅楽研究者、寺内直子氏を迎え、尾張藩に庇護されてきた雅楽と能楽が、幕末から体制崩壊後の明治期においてどのように伝承されてきたのかを楽人や能楽師の動向、素人愛好家や名古屋商人たちの果たした役割などを通して浮き彫りにするという試みであった。当日は「芸どころ名古屋」の芸能史研究の死角に光を当てる企画として中日新聞社の取材が入り、12月24日(木)の紙面で大きく取り上げられた。
 3人の研究者の報告を通して、同時期の名古屋では、雅楽や能楽などの人的ネットワークが重なり合っていることが浮き彫りとなり、音楽学、歴史学、国文学などの分野を超えた多面的・学際的な研究が必要であることが明らかになった。実は、この人的ネットワークは明治期の洋楽受容に関しても重なる部分がある。今後、諸分野の研究者が連携することにより、幕末から明治にかけての名古屋の芸能研究が大きく進む可能性が示唆されたといえよう。(井上記)

【発表要旨】

清水禎子(愛知県史編さん室)

「幕末から明治初期の尾張の雅楽」

 これまで、江戸時代の音楽は、武家の式楽である能楽、朝廷の式楽である雅楽、民間の人々が嗜む琴や三味線、といった固定観念のもと語られてきた。報告では、尾張における雅楽の受容と民間への浸透について触れながら、能楽や雅楽が実際には民間にも広く浸透していたことを示そうとしたものである。
 元和4年(1618)、名古屋東照宮が創建され、寛永7年(1630)に尾張に召された「朝廷の伶人」による舞楽奉納が、名古屋東照宮祭礼舞楽の始まりである。その後、尾張藩には楽人が置かれて雅楽を奏するようになった。江戸時代の尾張における雅楽は、東照宮祭礼と密接に結びついて発展した。『尾張年中行事絵鈔』(『名古屋叢書』三編第五巻所収))には、名古屋東照宮祭礼における奉納舞楽や神幸行事における楽人の行列を、名古屋城下の町人や、名古屋近在の人々が見物する様子が描かれており、民間の人々にとって雅楽が遠い存在ではなかったことが窺える。
 尾張藩士の名簿である「藩士名寄」、南都方楽人辻家による「楽所録」、天王寺方楽人東儀家による「楽所日記」からは、尾張藩に召し抱えられた名古屋東照宮附楽人の存在が確認出来、彼らは東照宮祭礼以外にも尾張徳川家の法事等に参加した。
 江戸時代後期の尾張における雅楽を考える上で重要なのが、文化5年(1808)に加藤納寛が編集した「張藩習楽人物誌」(『名古屋市史風俗編』所収)である。楽器または皆伝の楽曲・師家ごとに延べ180名の尾張の奏楽人の姓名を記載している。これらの中から重要と思われる人物を紹介する。
 名古屋玉屋町浄土真宗覚正寺の僧釈恵了は、尾張における雅楽の中間師匠であった。音律に詳しい人物として広く知られており、桑名藩士駒井乗邨の「知多日記」(国立国会図書館蔵)にも記載されている。また、恵了の取次により金森隆助秘蔵の笙が、息子の金森元政から尾張藩重臣大道寺玄蕃直寅へ譲渡されている。大道寺玄蕃は覚正寺に雅楽を学んでいる。なお、富永から玉屋町に覚正寺が移転した後に残ったであろう富永覚正寺の僧も、地域の村役人を勤める家の者に雅楽を教授している。大道寺家家臣である水野雅風は、師家の東儀家との取次や、美濃高須の豪農吉田家を通して、大道寺玄蕃の為に笙を購入しようとしている。尾張藩重臣志水家の儒医である小川簾次や尾張藩付家老成瀬隼人正同心の平岩元珍は、楽書を著して雅楽への理解を深めようとした。
代々実証的な古典解釈を行う国学者を輩出してきた河村家の河村益根は、独自の雅楽理論に基づき、詩を朗詠した後に雅楽を奏する「郷飲酒」という敬老儀礼を開催した。「郷飲酒」の参加者には、覚正寺や水野雅風をはじめ「張藩習楽人物誌」に記載の人物を少なからず確認出来る。
 尾張での雅楽普及の背景には、①名古屋東照宮祭礼で民間の人々が身近に思う②三方楽所楽人による名古屋や美濃・三河への出稽古③朝廷儀式への憧れ④取次人・楽器師・装束師の存在⑤身分を超えて雅楽を楽しむサロン⑥実証的に雅楽を追及する国学⑦音楽学の見地から雅楽を捉える楽所の出版、が挙げられる。
 明治元年(1868)の大政奉還、同4年の廃藩置県によって、名古屋東照宮祭礼を取り巻く環境は激変し、尾張藩が行ってきた東照宮祭礼はそのままの形で名古屋藩には継承されなかった。舞楽奉納は、尾張徳川家の取扱いとなり、舞楽奉納に必要な諸品調達の為の費用も尾張徳川家の家禄で賄うこととされた。東照宮附楽人は、職制改正により欠役となって番兵に組み入れられ、雅楽掛として尾張徳川家から給料を支給される身分となった。
 名古屋の呉服商松坂屋伊藤次郎左衛門家、名古屋東照宮祭礼における雅楽存亡の危機において力を発揮した。明治12年(1879)の名古屋東照宮祭礼舞楽に伊藤祐昌が参加している。同14年には、旧尾張藩士を中心とした士族と名古屋商人を中心とした名古屋市民の希望によって東照宮祭礼の存続が決定した。祭礼の存続は舞楽奉納の継承にもつながったと推測され、実際に継承を牽引したのは、楽人や商人、浄土真宗を中心とした僧侶であり、継承が可能であった背景には、江戸時代の遺産があったと言える。
 今後の課題としては、雅楽の普及と浸透に大きく関わったと思われる浄土真宗について解明することである。また、歴史学だけでなく、音楽学(理論・技術論)や民俗学・宗教史といった方面からもアプローチが必要と思われる。


寺内直子(神戸大学)

「名古屋における素人愛好家の雅楽伝習 〜「趣味」から地域文化の復興へ〜」

 この発表は、名古屋の旧家に伝わった雅楽関係資料を紹介し、素人愛好家が伝承していた雅楽の実態を明らかにするとともに、彼らの活動が果たした社会的意義を考察することを目的とする。名古屋城下、本町筋にあった油商・高麗屋は、第二次大戦の名古屋空襲の被害を辛くも免れ、蔵に江戸時代以来の種々の資料を保存して来た。様々な経済資料、美術工芸品、文化資料の中に、雅楽の楽譜、伝授書、写真、演奏会目録等がある。楽譜や伝授書類はいずれも明治期のもので、宮内省楽人の山井基萬、辻則承、林廣継から高麗屋当主(七代目高麗屋新三郎)への伝授奥書がある。また、写真や演奏会資料から、高麗屋当主は、他の数名の愛好家とともに、明治後半に復興された熱田神宮の舞楽などに出演し、明治初頭に途絶えた名古屋の雅楽伝承の復興に重要な役割を果たしていたことがうかがえる。
 名古屋では熱田神宮や東照宮などの神社の祭礼で古くから雅楽が盛んに行われて来た。また、江戸時代、尾張藩では、藩主や上級武士が雅楽を愛好したほか、東照宮の祭祀のために藩士の幾人かを「楽人」として召し抱え、扶持を与えていた。地理的に関西に近いこともあり、18世紀中葉から、いわゆる禁裏/幕府に仕える世襲的楽人が名古屋をしばしば訪れ、また名古屋の弟子が上京して雅楽の伝授(受)が行われた。明治時代の高麗屋当主の雅楽習得はこのような江戸時代以来の素人愛好家の雅楽伝習の延長線上に位置している。
 詳しく調べたところ、高麗屋の雅楽譜は機能の点で、1)実際の管絃楽会や舞楽会で使用するための実用譜、2) 免許取得上の伝授証明としての楽譜(実際にはほとんど演奏機会がない楽曲、例《萬秋楽》など)、3) 研究、好学上の資料としての「遠楽」「稀曲」の楽譜、に分けられることがわかった。
 さらに楽会の目録(演奏プログラム)からは、高麗屋当主はじめ、名古屋の財界人、文化人が、私的な管絃演奏会をしばしば催していることがわかる。このような楽会では、唐楽管絃と催馬楽、朗詠などの古典的レパートリーに加え、〈新年〉〈松上鶴〉のような自らが創作した新作歌曲(宮中の歌会始のお題に取材)が歌われた。その意味で、これら素人愛好家の雅楽演奏は、江戸時代から続く禁裏楽人との交流を背景にした「伝統」であると同時に、新曲を創作して楽しむという革新的な行為も含み持っていたと言える。
 一方、愛好家らの活動は、財界、文化人サロンの私的な楽しみに留まらず、熱田神宮、東照宮の舞楽復興という、地域全体の文化活動にも関わっていた。楽曲目録によれば、明治40年代の熱田舞楽では、東照宮や熱田社の旧楽人に混ざって、高麗屋などの財界人、文化人が、演奏、舞で活躍している。さらに、愛好家の中には、楽器製作者、楽器店主なども数名含まれている。これらの財界人、文化人の雅楽活動は、単なる愛好家の趣味活動を越えて、明治初頭に衰退した名古屋の雅楽伝承の復興を、演奏などの音楽的側面、楽器などの物質的側面など多方面から支えていたと考えられる。

(本発表に関連した論文をインターネット上で公開している。
 (http://www.lib.kobe-u.ac.jp/repository/81008882.pdf)


飯塚恵理人(椙山女学園大学)

「幕末から明治20年代の名古屋能楽界 ~能楽の新しい担い手の顕在化~」

 江戸時代、尾張藩の式楽としての能楽を支えた御役者(藩に抱えられた能役者)を載せた『慶応四年名簿』(笛方藤田六郎兵衛家所蔵)には36名の名前があり、その中には無息(無給)の者もいる。江戸中期以降の尾張藩は、シテ方なら喜多流を除く四流を抱えるなど御役者を幅広く揃えるがその給禄は安いという点に、能楽の保護における一つの特徴が見られる。
 さらに御役者の中に名古屋でなく江戸・京都・奈良に在住している者がいるのも大きな特徴である。先程の名簿には尾張藩から「合力米」という扶持を与えられている金春八左衛門が載っていない。彼は幕府の金春座の役者でもあり、主に江戸と奈良を行き来して暮らしていた。京都・奈良在住の御役者は禁裏の能と興福寺の薪能に出仕し、江戸在住の御役者は幕府の催しにも出仕している。尾張藩は自らが扶持を与えて養成した優れた役者を、幕府・禁裏・興福寺などに「派遣する」ことによってそれらを助力していたと言えよう。
 幕末、儀式としての能は減り、異国船などに対する警備のため御役者の斎田七三郎・松下信蔵などは文久3年に銃隊に加えられた。ただ江戸中期以降、関戸家・岡谷家など尾張藩御用を勤める御用商人達「旦那衆」が謡曲や囃子を愛好するようになった。幕末の「大野氏能興行の図」などに見られるように宝生流の大野時太郎・大野藤五郎父子が役宅に能舞台を構えて能を興行できたのは、尾張藩からの扶持だけに拠るとは考え難く、大野家で宝生流謡曲を習っていた民間の謡曲愛好者の後援によると考えるのが自然であろう。ただし旦那衆が自ら能・狂言を演じたり、囃子を舞う江戸時代の番組は名古屋では管見になく、装束に関する奢侈禁令の影響で表立っては行えなかったと考えられる。
 明治維新によって身分制度が崩壊し奢侈禁令がなくなると、御役者以外の元藩士や商家の旦那衆が自ら能を演じたり、弟子を取って謡曲や狂言を教えるようになる。明治10年代初頭に出版された『愛知県人物誌 正・続』には、井上菊次郎(和泉流狂言方)のような旦那衆である者が載っており、『能楽人名簿 二種』(太鼓方鬼頭家所蔵)には元尾張藩御用商人の内田豊(宝生流シテ方 シテ方は謡ったり舞う役柄)などが載っている。彼らが明治維新になってから稽古を始めたとは考えがたく、前述の通り能楽以外の「家業」を持ちながら江戸時代密かに能・狂言を習っていた者達が、職業選択の自由を得て本業と能楽教授の兼業を始めるようになったのである。
 明治10年代、華族が「能楽会」を組織して青山御所での天覧能などを行うようになり東京の能が再興に向かうと、山脇和泉(和泉流狂言方)・木下敬賢(観世流シテ方)・寺田左門治(金剛流シテ方)など旧尾張藩の御役者は旧尾張藩主の保護を当てにして上京し、名古屋能楽界は地元に残った彼ら「兼業」能楽師が、関戸家・岡谷家のような旦那衆をパトロンとして運営していく。明治27年6月、名古屋財界が中心になって名古屋博物館に能舞台を寄贈した時、舞台披に出た旧尾張藩の御役者は西村大蔵(高安流ワキ方)と藤田清次郎(笛方藤田流)しかおらず、後は家業を持ちながら能楽を愛好、教えるようになった者達であった。こうして御役者出身ではない地元の能楽師が能・狂言を上演、名古屋の「芸道取締」として素人弟子を育成するようになる。また大きな催しには観世清廉(観世流家元)や喜多六平太(喜多流家元)など東京や関西在住の家元や名人を招くようになり、このことは後にマスメディアとの関わりで流儀内での謡い方を家元や東京のものに統一していく原因になる。
 また明治中期以降の能楽愛好者は、江戸時代の大名のように自分や贔屓の能楽師が能をする為に能装束を揃え舞台を用意し、必要な人数も揃えるという者が少なくなり、謡曲や仕舞に加え小鼓や太鼓の稽古をして舞囃子を上演する事を好むようになった。舞囃子は「楽器+謡+舞」なので装束や多くの人手がいらず、能よりも大掛かりにならずに出来るからである。このような囃子中心の稽古をしているとリズムを取ること、他の楽器とリズムを合わせることが大切になり、謡や舞の稽古もそうなっていく。このため古くはシテの舞や謡に囃子が合わせて演奏したのに対して、明治末年頃から囃子に合わせてシテが謡い、また舞うように芸の質が変化して行った。また稽古者が自分の師匠の舞台を模範演技の勉強として観るようになったため、明治20年代以降の名古屋能楽界では田鍋惣太郎・田鍋惣一郎(幸清流小鼓方)、先代藤田六郎兵衛(藤田流笛方宗家 田鍋惣太郎二男で養子として藤田家を相続した)などの囃子方が中心となって催しが行われるようになる。  このように名古屋能楽界における幕末から明治20年代は、尾張藩御役者の家柄ではない新しい能楽師が現れ、その中でも囃子方が中心となり旦那衆の後援を受けて発展していく大きな転換期であった。


〈傍聴記〉

小沢優子

シンポジウム「幕末から明治の名古屋の伝統芸能」

 第115回中部支部例会では、尾張藩に庇護されてきた雅楽と能楽が、幕末から明治にかけての社会の大変動期の中でどのように受け継がれてきたのかをテーマとするシンポジウム「幕末から明治の名古屋の伝統芸能」が行われた。パネリストは愛知県史編さん室の清水禎子氏、神戸大学の寺内直子氏、椙山女学園大学の飯塚恵理人氏の3人で、寺内氏は西日本支部の所属、清水、飯塚の両氏は非学会員。過去の例会記録をつぶさに調べたわけではないので確かではないが、ゲスト・パネリストのみによるシンポジウムは中部支部でははじめてのことではないかと思う。さらには中日新聞の取材も入り、異例尽めとなった今回のシンポジウム。高い関心が寄せられ、中部支部の会員のほかに、熱田神宮の雅楽の演奏団体である桐竹会の方や、宝生流の能楽師の方、寺内氏に資料を提供した名古屋の豪商“高麗屋”吉田家の現在の当主である吉田友昭氏など、さまざまな方々にお越しいただくことができた。パネリストによる発表が各々40〜45分、討論と質疑応答が40分。合計3時間ほどの長丁場ながら、最初から最後までギャラリーは熱心に聞き入っていた。
 まず、能楽を武家の式楽、雅楽を朝廷の式楽とする従来の固定観念を再考する時期にきているのではないか、という印象的な提言で始まった清水氏の「幕末から明治初期の尾張の雅楽」では、名古屋東照宮祭礼舞楽を藩士だけでなく城下の町人も見ていたこと、三方楽人の尾張への出稽古、雅楽の中間師匠としての浄土真宗僧侶の存在、国学者の河村益根や豪農の吉田家と雅楽との関わり、などが当時の絵図、『張藩習楽人物誌』、書状、日記を通して述べられ、そのような江戸時代の雅楽受容があったからこそ明治維新後の名古屋の雅楽の継承が可能であったという。
 続く寺内氏の「名古屋における素人愛好家の雅楽伝習〜趣味から地域文化の復興へ」は、戦災を免れた油商の高麗屋の蔵に保存されていた雅楽関係の資料を中心とした発表。七代目吉田種彦(1870〜1918)の雅楽伝習と奏楽の様子が伝授書、楽譜、写真、楽曲目録といった貴重な資料の数々を通して紹介されるとともに、吉田種彦や、彼と同じように裕福な素人愛好家である伊藤祐民らが明治期の名古屋の雅楽復興に大きな役割を果たしたことも明らかにされた。明治28年から明治37年までの熱田神宮の舞楽の曲目数は35曲にものぼるが、豪華な装束や面が必要とされる舞楽の伝承が立派に果たされた背景には、楽人や浄土真宗僧侶に加え、富裕な素人愛好家たちの力があったのである。
 休憩をはさみ、後半は飯塚恵理人氏の「幕末から明治20年代の名古屋能楽界─能楽の新しい担い手の顕在化─」。『慶応四年尾張藩御役者名簿』や明治期に作成された『愛知県人物誌』、能楽人名名簿などの資料を用いながら、尾張藩の能楽の実態や、尾張藩御用商人など御役者以外の者たちが明治に入ると舞台に立ったり、共同出資して能舞台を作るようになったことが説明された。この能楽の新しい担い手である旦那衆は維新前からすでに能、狂言を家で稽古していたというので、能の新たな受容のあり方は江戸時代にすでに準備されており、雅楽と似たような状況であったことがうかがえる。名古屋の能楽に詳しい飯塚氏ならではの、稽古をしたらその成果を人に見てもらいたいと強く思うのが名古屋人、という芸どころ名古屋の傾向についての指摘も興味深かった。
 研究業績豊富な3氏の発表はそれぞれが一つの講演に匹敵する密度の濃い内容だったが、討論と質疑応答においても、雅楽、能楽、和歌の人々のネットワークの重なり合い、養子縁組でつながるネットワークなどが話題となり、幕末から明治の名古屋で伝統文化に関わった人々の関係性を考察する時のさらなる課題や展望も浮き彫りにされた。
 最後に、司会の井上さつき氏から、最近見つかった明治34年の名古屋音楽倶楽部の演奏会プログラムと、評議員や賛成員の名前も記された名古屋音楽倶楽部設立の趣旨の資料が紹介され、能楽や雅楽における人的ネットワークは受容が始まったばかりの洋楽の分野においても重なることが示された。学問の各分野の垣根を取り払い、総合的、立体的、現実的な姿勢で研究に向き合う重要性を認識させる意義深いシンポジウムであった。