第114回例会報告

日本音楽学会中部支部 

日時:2015年(平成27)7月18日(土)13時30分~16時50分
場所:名古屋芸術大学東キャンパス(音楽学部)5号館301教室


司会:安原雅之

【研究発表】
梶田美香(名古屋芸術大学音楽学部非常勤講師):「芸術への興味の深化――長久手市文化の家「おんぱく2014」にみる芸術普及のあり方」
森本頼子(愛知県立芸術大学非常勤講師):「シェレメーチェフ家の農奴劇場におけるフランス・オペラ受容――トラジェディ・リリック上演をめぐる試み(1784~97年)を中心に」

【講演】
神田可遊先生(尺八研究家):「名古屋の尺八」



【発表要旨】

森本頼子(愛知県立芸術大学非常勤講師)

シェレメーチェフ家の農奴劇場におけるフランス・オペラ受容――トラジェディ・リリック上演をめぐる試み(1784~97年)を中心に

 本発表は、発表者が2014年度に愛知県立芸術大学大学院音楽研究科に提出した博士論文「シェレメーチェフ家の農奴劇場(1775~97年)におけるトラジェディ・リリック上演――フランス・オペラ受容からロシア・オペラの創出へ」にもとづく。
 ニコライ・ペトローヴィチ・シェレメーチェフ伯爵(1751-1809)が中心となって運営した、シェレメーチェフ家の劇場は、農奴劇場の代表格として知られる。ニコライは、21万人にも及ぶ農奴のなかからすぐれた人材を選んで一座を組織し、モスクワとその近郊に専用劇場を建て、招待客の前で公演を行なった。この劇場は、多くのフランスのオペラ・コミックをロシア初演したことで知られるが、その一方で、フランスの二つのトラジェディ・リリックのロシア語上演を行なったことは、ほぼ見過ごされてきた。トラジェディ・リリックは、高度なテクニックをそなえた歌手、大規模なオーケストラと合唱団、踊り手、豪奢で複雑な舞台装置などが求められる点で、オペラ・コミックよりも上演にはるかに手間のかかるオペラ・ジャンルであり、当時のロシアでは、宮廷劇場を含むあらゆる劇場で上演されておらず、また世界的にみても、この取り組みはごく珍しいものであった。
 それにもかかわらず、これまで、この劇場におけるトラジェディ・リリック上演については、上演作品の少なさからまったく注目されず、掘り下げた研究も行なわれてこなかった。そこで、本論文では、シェレメーチェフ家の劇場におけるトラジェディ・リリック上演がいかなるものであったかを、露仏双方の資料(関係者の書簡、現存楽譜、台本等)をもとに明らかにし、その取り組みをロシア・オペラ史のなかに位置づけることを目的とした。
 本発表では、トラジェディ・リリック上演をめぐるさまざまな試みについて、三つの段階に分けて年代順に考察した。まず、第1期(1784~86年)は、トラジェディ・リリック上演に向けてさまざまな試みがなされた時期だとみなせる。この時期に交わされたニコライと、イヴァール(パリ・オペラ座のチェロ奏者で、シェレメーチェフ家の劇場のオペラ上演を多方面からサポートした)の書簡には、トラジェディ・リリックに関する話題が多くみられるようになり、多くの楽譜や台本がイヴァールから送られた。また、1785年に上演されたグレトリのオペラ・コミック《サムニウム人の婚礼》は、正歌劇の性格をそなえており、上演にあたって、この特性がニコライによっていっそう引き立てられたことから、この作品の上演は、トラジェディ・リリック上演の試金石となったと位置づけられる。
 第2期(1787~92年)は、グルックの《アルミード》とサッキーニの《ルノー》という二つのトラジェディ・リリックの上演が実現した時期である。本発表では、このうち1788~92年頃に上演された《ルノー》を取り上げ、現存する楽譜をもとに、ロシア語上演の実態を明らかにし、この作品の上演には、正歌劇をロシア化するという狙いがあったという結論を導き出した。さらに、1790~91年頃に、イヴァールを通じて台本が創作された《マッサゲタイの女王トミュリス》が、トラジェディ・リリックに類似した性格をそなえており、さらに、創作にあたっては、ニコライがトラジェディ・リリックの枠組みを使って、ロシア語による正歌劇を創り出そうとしていた可能性があることを指摘した。
 第3期(1793~97年)には、ロシア・オペラ《ゼルミーラとスメロン、またはイズマイル占領》が創作・上演された。このオペラには、トラジェディ・リリックに類似した「抒情劇」という名称がつけられているほか、現存台本からは、大人数の出演者や大がかりな舞台装置、音楽とバレエの重視といった点で、トラジェディ・リリックとの関連性を見出せたほか、その筋書きは「救出オペラ」と酷似していることが明らかになった。したがって、このオペラは、この劇場における幅広いフランス・オペラ受容のもとに創出されたものであったという結論に至った。
 本発表を通じて、ニコライがトラジェディ・リリック上演を強く志向し、試行錯誤のなかでロシア語による上演を実現し、さらには、それを足掛かりにしてロシア語の正歌劇を創出したという、シェレメーチェフ家の劇場におけるオペラ上演のダイナミックな流れが浮き彫りになった。同時にそれは、この劇場が、あくまでもオペラというジャンルに強い志向性をもち続け、オペラ文化黎明期のロシアで、「オペラ劇場」としてその発展を支える存在であったことを示唆している。
 さらに、この劇場におけるトラジェディ・リリック上演は、これまでロシア・オペラ史のなかでその存在が軽視されてきた農奴劇場が、実際には、きわめて豊かなオペラ文化を創出する場として重要な役割を果たし、ロシアの人々のあいだに19世紀のオペラ文化の開化を受け入れる素地をつくるのに寄与していたことを示すものでもある。また、この取り組みは、フランス・オペラ受容を通じてロシア・オペラが創出された事例の一つとして、ロシア・オペラ史におけるフランス・オペラの影響力の大きさをあらためて浮き彫りにするものである。したがって、本研究は、イタリア・オペラ受容の側面から描かれることが多かった、従来のロシア・オペラ史観を大きく塗り替える端緒にもなりうるだろう。




梶田美香(名古屋芸術大学音楽学部非常勤講師) 

芸術への興味の深化 ―長久手市文化の家“おんぱく2014”にみる芸術普及のあり方―

1. はじめに
 1.1研究の背景
 芸術は、文化芸術振興基本法の成立(2001.12)の頃から「公共の財産」として捉えられるようになり、「劇場、音楽堂等の活性化に関する法律」成立(2012.07)以後は、文化施設の自主事業によって精力的に「芸術との出会い」の機会を創出することが推奨されるようになっている。結果、公教育機関へのアウトリーチや文化施設の館内外での各種ワークショップ、大規模アートイベントにおける館外展示などが増加し続けている。これは芸術における複数の領域において微細な違いはあるものの、ほぼ共有する現象である。
しかしながら芸術普及という文脈でこれらの現象をみると、出会いの創出への傾斜と単発性という課題を恒常化しており、芸術に出会った後のプログラムは充実しておらず、出会いの創出が十分に生かされていないという現状を認めざるを得ない。
 1.2研究の課題と方法
 そこで本発表では、「芸術との初めての出会い」を既に終えた市民に対してどのように芸術を普及していくべきなのか、という日本の芸術普及活動が抱える課題に取り組むこととした。研究の手法は、1.文化施設の自主事業であること2.市全体をフィールドとするアートイベントであること3.芸術普及活動としてのアウトリーチ活動とワークショップを数多く行っていること、という要素を兼ね備えた、言わば2000年以降の日本の文化政策の流れに合致した事例として、長久手市文化の家「おんぱく2014」を取り上げた。

2.対象事例
 事例として取り上げる「おんぱく2014」は、開始年の1994年から既に10年が経過している長久手市文化の家のいわゆる「看板」とも言える事業で、2014年度は「まちなか」へのアウトリーチ活動(9か所)を積極的に行い、また例年通り館内全てを開放してのワークショップ(9種類)、コンサートホールでのホール公演も加えた構成で、2014年7月19日から8月3日までの約2週間を開催期間として行われた。

3.調査内容
 3.1調査概要
 「おんぱく2014」期間内の全ての来場者に「おんぱく2014」への参加が初めての鑑賞体験か否かについて調査した。その後、「おんぱく2014」が初めての鑑賞体験ではない参加者がどのような行動を「おんぱく2014」において選択したかどうかについて調査した。その結果、年間鑑賞回数による嗜好性を見出すことを目的とした考察を行い、興味関心の深化の傾向を読み取ることを試みた。
 3.2  結果
 3.2.1 全体像
 調査の結果、まちなかイベントには、日ごろは鑑賞する場に「行かない」参加者がいるものの、館内イベントではその割合が急激に下がることが分かった。つまり、「芸術との出会い」は館外で行われ、館内では「出会い」以後の接触が起きていることが分かった。
 3.2.2 館内イベント参加者の嗜好
 館内イベント参加者については、ワークショップ参加時に質問紙による調査を行った。ワークショップ参加者のほとんどがホール公演を鑑賞していることから、その嗜好性は特に参加したワークショップに表れていると推測できる。まとめると以下の通りである。

4.考察 ―まとめにかえて―
 表2から、年間鑑賞回数が増加するにしたがって、音楽の要素に近づいたり(リズム☆パラダイスへようこそ!)、体験したり(ミュージカルダンスSTUDIO!・ペーパーヴァイオリンでステージに立とう!)、アーティストの内面に近づいたり(アーティストの部屋)する傾向が表れることがわかった。つまり、鑑賞頻度の高さは、音楽やアーティストのより深い部分に目を向けさせることが推測できる。であるならば、「出会いの創出」以後のプログラムは、音楽を構成する多様な要素やアーティストの生の姿、実際の体験などを柱としてしたもので考案し、それらを提供することによって芸術への興味関心を深化させられることになる。
 ただ、本調査は、年間鑑賞回数を基軸に行っているため、日ごろの鑑賞の機会がどのようなものか具体的に調査できていない。今後は、芸術普及活動の対象者について丁寧な調査を行ったうえでの基軸を構築していきたい。




【傍聴記】

加藤いつみ

「神田可遊先生の“名古屋と尺八”を拝聴して」

 神田先生の講演は、7月17日(土)3時10分からおよそ2時間に亘って行われた。そのテーマは、“名古屋と尺八”という、今までには聞いたこともないものであった。参加者は40名くらい。皆時を忘れて熱心に耳を傾けた。
 神田氏は、新潟県生まれで、尺八は中央大学卒業後に始められた、という。演奏の傍ら、全国の尺八奏者を訪ねて誰も知らない話を収集したり、楽譜の発掘など、30年に亘って研究を続けてこられた。今回は、中部大学の研究誌“アリーナ”に発表された論文(第2号 2005年)を中心に①江戸初期―尾張の虚無僧「児派」、②『虚無僧雑記』に見る虚無僧の実態、③尺八指南所と尺八譜、④東照宮祭礼での虚無僧行列―謎の笛「相切」、⑤東西尺八の交流地―西園流の成立、について演奏を交えながら話を進められた。
 名古屋は、虚無僧寺がなかったために尺八に関する古文献は江戸や京大坂と比べると驚くほど少ない。とはいえ、尾張には児派(ちごは)と呼ばれる妻帯の虚無僧がおり、後になって家康公を御祭神と仰ぐ東照宮(現在でも4月16・17日に行われる御祭礼)の住僧として供奉している。
 名古屋藩士・奥邑(村)徳義(1793-1862)によって書かれた『虚無僧雑記』の中には、名古屋での虚無僧のマナーなどが詳しく記されていた。それによると、
・往来では同道は2人まで。3人は禁ずる。往来の両側を立ち別れての吹笛は禁止。
・天蓋(虚無僧の編み笠)を脱ぎかけて額を見せるのを「アゲ天蓋」といって無礼とする。天蓋を脱ぐのは論外。
・村に入るときはまず高音(たかね)を吹く。先だって入っている者があれば同じく高音で答える。道中、先行く者を呼ぶ時も同様。
・忌日などに虚無僧を招いて吹竹の供養をなすことがある。その時は「虚鈴」という曲を吹く。等である。
 尺八を学びたい者は、尺八指南所(教室)で、まず古伝三曲(恋慕<霧海篪とも>・虚空・虚鈴)を学び、ある程度吹けるようになったら、本則を虚無僧寺に取り次いでもらう。その際、虚無僧寺と指南所に本則代金を払う。これが名古屋では200匹(1784年の単位では1匹=20文。4000文=1両 現在のおよそ13万円)だったらしい。
 名古屋では、「西園流」という尺八流派があり、11曲が伝承されている。この流派は、日本の家元では珍しく世襲制ではない。名古屋の尺八は、江戸と上方の中間にあったためか、双方の影響を受けて発展した。西園の門人・樋口對山(名古屋時代は鈴木姓)が京都に移り、東福寺塔頭の善慧院に明暗寺が再興された際(明暗教会)、その尺八指南役となったことによって、全国に広まった。一般に明暗流とも明暗對山派ともいうが、現在、「古典本曲」の中核をなすのは、名古屋で育まれたこれらの曲であり、現在でもほぼ同じような形で吹き継がれている。という内容のものであった。
 講演終了後も質問が相次ぎ活気に満ちた会であった。