第113回例会報告

日本音楽学会中部支部 

日時:2015年(平成27)3月21日(土)13時30分~16時30分
場所:中京大学 名古屋キャンパス センタービル7階0703教室


司会:水野みか子

【修士論文・実技系修了論文発表】
金丸友理絵(愛知県立芸術大学大学院博士前期課程 鍵盤楽器領域):「ベートーヴェンのピアノソナタ作品31-2 第1楽章における楽想研究」
田中文恵(愛知県立芸術大学大学院博士前期課程 弦楽器領域):「ターティスのトランスクリプション作品についての考察」
加藤(水野)希央(愛知県立芸術大学大学院博士前期課程 音楽学領域):「新美南吉が聴いた音楽—−安城高等女学校教員時代の日記を手がかりに」

【講演】
薦田治子先生(武蔵野音楽大学教授):「名古屋における平家の伝承について」



【発表要旨】

金丸友理絵(愛知県立芸術大学大学院博士前期課程 鍵盤楽器領域) 

ベートーヴェンのピアノソナタ作品31-2第1楽章における楽想研究

 本発表は、愛知県立芸術大学大学院音楽研究科に、平成26年度音楽総合研究修了論文として提出した「ベートーヴェンのピアノソナタ作品31-2第1楽章における楽想研究」に基づくものである。
 本論文は、ベートーヴェンLudwig van Beethoven(1770-1827)のピアノソナタ作品31-2の第1楽章について、作品を音楽的内容の観点から見直すために、作品構造について総合的な考察をすることを目的とした。これまでも作品31-2についての分析研究は盛んに行われてきたが、この第1楽章の構造解釈については研究者の間でも意見が分かれており、様々な解釈が多く存在しているのが現状である。
 そこで本論文では、分析における先行研究から作品構造について考察し、この曲の楽譜について、11に及ぶエディションの比較をした上で、分析研究が楽譜に反映されているかを検証した。
 本論文は4章から構成される。第1章「作品31-2について」の第1節「楽曲解説」では、作品31-2第1楽章の構造について述べた。第2節「作品31-2の研究について」では、作品31-2についての先行研究の内容を総括し、特にこの作品について、ハイリゲンシュタットの遺書や、この時期に悩まされていたとされる難聴と結びつけて解釈する傾向があることについて問題提議した。
 第2章「作品31-2の研究について」では、作品31-2についての分析研究について、最も重要だと思われる5人の研究者、アドルフ・ベルンハルト・マルクス Adolf Bernhard Marx(1795-1866)、フーゴー・リーマン Hugo Riemann(1849-1919)、ルドルフ・レティ Rudolph Rèti(1885-1957)、チャールズ・ローゼン Charles Rosen(1927-2012)、カール・ダールハウス Carl Dahlhaus(1928-1989)の研究に焦点を当てて考察をした。その結果、第1楽章の冒頭20小節は導入部であると同時に、このソナタを構成する主要動機がすべて含まれているため、ソナタ形式の提示的役割をも担った重要な楽段であること、したがって、第1主題は21小節より始まり、第2主題は41小節からとする見方が強いことを述べた。
 第3章「エディションの比較・考察」では、初版譜と後続版の11に及ぶエディションの比較・考察を行い、出版社によって異なる表記について言及した。
 第4章「楽想研究とエディションとの関連について」では、第2章で取り上げた分析研究と第3章のエディション研究をもとにして、分析研究とエディション研究との関連性について考察した。研究の結果、ソナタの形式的区分が直接譜面に記されている楽譜が存在するだけでなく、分析的なことが直接記されていなくても、テンポ表示や強弱記号、冒頭のアルペジオや提示部の第1主題部分の3連符の奏法の指示などから、分析研究との関連性をいくつも見つけることができ、それらは特に実用版で顕著に見られることがわかった。この研究により、楽譜の校訂に分析研究が影響を与えていることが明らかとなり、分析研究と楽譜の表記との間に強い関連性を見出すことが出来たことを述べた。




田中文恵(愛知県立芸術大学大学院博士前期課程 弦楽器領域)

ターティスのトランスクリプション作品についての考察

 本発表は、愛知県立芸術大学大学院音楽研究科に修士論文として提出した「ターティスのトランスクリプション作品についての考察」に基づく。
 ライオネル・ターティス Lionel Tertis (1876-1975)は19世紀末期から20世紀初頭にかけて活躍したイギリスのヴィオラ奏者である。ターティスの活躍以前のヴィオラの評価は「独奏楽器としては通用しない」というものであった。しかし、彼は卓越した演奏技術でその評価を大きく覆した。しかし、当時ヴァイオリンやチェロと比べるとヴィオラの既存の独奏作品は非常に数が少なかったため、ターティスは多くの他楽器の作品を、自らヴィオラ用に編曲した。また現役引退後は、腕にあまり負担を掛けずに低弦の良い音を得ることを追及した、彼自身の設計によるオリジナルのヴィオラ“ターティス・モデル”の製作、宣伝に尽力した。
 本研究では、自ら手掛けた編曲およびトランスクリプション作品に着目し、彼の生涯について自伝を基にまとめるとともに、その作品の中から数曲を取り上げ、それらの分析を行った。研究の目的としては、第一に楽器の特色を最もよく理解している奏者自身が直接トランスクリプションを行うことで、奏者のヴィオラに対する認識や演奏の経験がどのように作品に反映されているかを解明すること、第二に、それらを通して、ターティスがヴィオラの音色についてどのような表現を理想としていたか考察し、明らかにすることと設定した。
 論文は全4章で構成しており、章立ては以下の通りである。


第1章 ヴィオリストとトランスクリプション
  第1節 1900年前後のヴィオラのレパートリー
  第2節 編曲・作曲を行ったヴィオリストたち
第2章 ライオネル・ターティスについて
  第1節 ターティスの生涯
  第2節 ターティス・モデル・ヴィオラ
第3章 ターティスのトランスクリプション
第1節 トランスクリプション作品概観
第2節 楽曲分析
第1項 エルガー《チェロ協奏曲》
  第2項 リスト《愛の夢》
第3項 ブラームス《愛の歌》
第4章 結論

 発表では主に第3章の「ターティスのトランスクリプション」を取り上げ解説した。
 第3章では出版された楽譜および録音からターティスのトランスクリプション作品をまとめ、それを分類し、そして原曲と譜面を用いての比較を行った。第1節ではそれぞれ現存する作品がどのような形で残されているか、またそれらはどの楽器の作品からの転用であるか分類した。その結果、ターティスはヴァイオリンの作品を最も多くアレンジしていることが判った。それはヴァイオリンが最もヴィオラと構造が近いためであると考えられるが、他にも声楽曲やピアノの小品など、編曲元の作品としてはスタンダードなものを原曲として選択する傾向にあったことが判明した。第2節ではそれぞれ原曲が弦楽器のチェロ、ピアノ、そして声楽のものと、種類の違う3曲を取り上げ譜面の比較を行った。これらの分析の結果、彼の作品の中でも最も大曲であるチェロ作品では、音域も含め可能な限り原曲に忠実にトランスクリプションされており、その上でヴィオラのソロがオーケストラに埋もれてしまわないよう音域を上下させたり、更にはヴィオラでは得られない残響などのチェロの演奏効果までも再現しようと音型を工夫したりするなど、チェロ作品に関してはターティスが大きなこだわりを持っていたことがうかがえた。また、原曲がピアノ作品の場合は、基本的にヴィオラが原曲の主旋律を担当し、その他をピアノに振り分ける形になっているものが多く、新たに伴奏を付け加えるケースはなかった。ただし、原曲の主旋律に含まれる和音はほとんど1音に省略されている場合が多く、その他にもカデンツァなどは簡略化されている部分も見受けられた。またソロをより効率的に際立たせるためか、原曲にはない強弱や伴奏のペダルの指示が付加されている場合も多くあった。そして声楽作品の場合は、操作はほとんどが調と強弱のみにとどまり、音域はヴィオラ作品としての価値をより与えるためか、くり返しの際に1オクターヴ上げる程度の変更しか行っていなかった。ピアノ伴奏は転調した場合を除き、原曲のままとなっているものが殆どであった。
 本研究の結果としては、演奏家であったターティスはヴィオラの魅力は低弦の響きにあると認識していたので、それを活かしたアレンジを行っていたこと、また、中音域故に他の音に紛れて聞こえにくくなるというヴィオラの弱点とも言える部分を多くの演奏経験から理解していたので、編曲作品では例えば伴奏への細かなペダル指示や音域の上下の工夫によってそれを回避し、それぞれ独奏ヴィオラを十分に聞かせることの出来る作品として仕上げていることが、研究を通して明らかとなった。
 ターティスは編曲する際、独奏楽器としてのヴィオラの音色を聴かせるために様々に趣向を凝らした上でアレンジを行った。本研究を通して見えてきたターティスの編曲作品の意義は、作品の出来そのものではなく、後世のヴィオラ奏者のために、ヴィオラ奏者が自身の経験と知識を元に自ら手がけた、まさに独奏ヴィオラのために書かれた多くの編曲作品を遺したことにあると言えるのではないかと、本論文では最終的に結論付けをした。




加藤(水野)希央(愛知県立芸術大学大学院博士前期課程 音楽学領域)

新美南吉が聴いた音楽――安城高等女学校教員時代の日記を手がかりに

 本発表は、発表者が2014年度に愛知県立芸術大学大学院音楽研究科博士前期課程(音楽学領域)に提出した修士論文に基づいて行なった。
 論文は、童話作家の新美南吉(1913–1943)が残した日記を手がかりに、1938(昭和13)年から1942(昭和17)年、すなわち国民精神総動員法制定から太平洋戦争開戦直後にいたる時期の、地方中小都市「安城」における西洋音楽の様相を明らかにし、「新美南吉が聴いた音楽」を浮かび上がらせることを目的とした。代表作『ごんぎつね』で知られる新美南吉(以下、南吉)は、愛知県知多郡半田町(現・半田市)に生まれた。30年に満たない短い生涯において多くの作品を著すと共に、旧制半田中学時代からその死の前年にいたるまでの日記を残している。日記には、南吉が西洋音楽を愛好していたことを示す記述が散見される。南吉にまつわる音楽について、日記に残るいわゆるクラシック音楽に分類される楽曲については、これまでにも紹介され、コンサートなどの企画に取り上げられることもある。しかし、日記には当時の音楽に大きな比重を占めていた国民歌・軍歌についての記述もみられるが、南吉の周囲に存在した音楽として、これらの楽曲についてはこれまで触れられてこなかった。
 論文全体は、序章と終章をふくむ6つの章から構成される。第1章「新美南吉と安城」、第2章「安城高等女学校における蓄音器と楽器」、第3章「安城高等女学校における音楽活動」、第4章「南吉が聴いたラジオの音楽」と題し、南吉が教師として赴任した安城高等女学校(以下、安城高女)在職中に書かれた日記を軸に、当時の新聞や同校に残された資料、南吉が担任した安城高女第19回生へのインタビューより得られた証言を重ね、南吉が聴いた音楽を考察した。なお安城高女第19回生は1938(昭和13)年、南吉の同校赴任と同じ年に入学し、卒業までの4年間、南吉が持ち上がりで担任をつとめたクラスの女学生たちである。本研究では、連絡を取ることができた第19回生22名に対し、面談および電話でのインタビューを行なった。
 ここに浮かぶ「新美南吉が聴いた音楽」とは、第1に勤務先の女学生たちが歌う唱歌・外国曲や合唱曲、第2に青春時代から親しんだ芸術音楽としての西洋音楽、第3に太平洋戦争へと向かう時代を表す国民歌・軍歌の3つに要約することができる。南吉が生きた時代の音楽には、明治時代から受容され続けた様々な西洋音楽と、時の政府の意向を反映してこの時期大量に発表された国民歌・軍歌が混在していた。それらの音楽は、蓄音器やラジオなどメディアの発達により、大都市だけでなく地方の生活にも同様に届いていた。国家はメディアの持つ力および音楽の力を認識しており、それをプロパガンダに用いるべく入念な準備を進め、実行に移していた。南吉の日記および安城高女に残された資料からも、当時、同校における学校行事のほとんどで、国民歌・軍歌が歌われたり流されたりしていたことがわかる。南吉の日記にみる限りそこに悲壮感はなく、唱歌などと一緒に《父よあなたは強かった》、《愛国行進曲》などが歌われている。やがて英語の排斥が論じられるようになり、時局が緊迫の度を増していっても、それまで親しまれていた西洋音楽が、人々の間からいきなり消え去ったわけではない。第19回生へのインタビューからは、当時の安城高女においては歌唱を中心とした音楽の授業のほか、オルガンやピアノにも親しむなど、充実した音楽教育が行なわれていた様子がうかがわれる。1939(昭和14)年から1940(昭和15)年の間に、南吉がラジオで聴きその印象を日記に書き留めたショパンやベートーヴェンの演奏に関する記述には、南吉が最も音楽に親しんだ青春時代の友情の反映と、穏やかな生活のなかにある幸いの感覚を読み取ることができる。そして、太平洋戦争開戦直後の1942(昭和17)年2月ないし3月に行なわれた安城高女における予餞会で、南吉と第19回生たちが歌ったハワイアンソング《アロハオエ》に関して、インタビューした第19回生の多くが、当時この曲を歌うことに対し反感を持つことはなかったと証言している。しかし一方で、時局を認識しやすい環境に育った女学生の数名が、この時期に外国曲を歌うことに対し違和感を持ったと話した。つまり、南吉の周囲において開戦直後の時期ではまだ、外国曲に対する反感意識は全体的に非常に薄く、敏感な者がわずかに不安を感じる程度という状況であったことが、南吉の日記および第19回生のインタビュー証言等により明らかとなった。
 新美南吉の日記には、当時の地方生活における音楽の実態が記録されている。その個人的音楽聴取の記録は、昭和戦前期から太平洋戦争開戦直後における、音楽を通し浮かぶ人々の様々な意識を、現代に伝える貴重な資料といえる。




【傍聴記】

森本頼子(愛知県立芸術大学非常勤講師)

薦田治子先生による講演「名古屋における平家の伝承について」傍聴記

  第113回中部支部例会では、日本音楽研究の第一人者でいらっしゃる薦田治子先生をお迎えし、平家に関する講演をしていただいた。当日は、会員のほか一般の聴衆も大勢会場に詰めかけ、用意しておいた30部の配布資料が瞬く間に「売り切れ」となるほどの盛況ぶりだった。
 90分に及んだ講演は、全3部から構成された。第1部「平家の誕生と歴史」では、「平家」の定義がなされたうえで、『平家物語』の成立史や、現代に至るまでの平家の歴史について説明があった。第2部「平家と日本音楽の諸種目」では、古代から近世に成立した、雅楽、声明、平家、能楽、三曲、文楽、歌舞伎音楽という日本音楽の諸種目のなかで、平家がその中間にあたる中世に成立したことや、古今の諸種目と音楽的に深いかかわりをもつ重要なジャンルであることが解説された。
 第3部「名古屋と平家」では、名古屋という地で、荻野検校によって『平家正節』が編纂され、現代に至るまで平家が伝承されていることに着目し、名古屋と平家のかかわりについて考察がなされた。薦田先生の解説によれば、名古屋では、平家は、歴代藩主および文人らに愛好されたほか、国風音楽会の活動によって古くから伝承されてきたそうである。さらに、近年に至るまで、尾張徳川家やお旦那衆らが平家を保護し続け、戦後には、国文学者によっても保存伝承の努力がなされたことにより、平家が名古屋の地に生き残ることになったのである。こうした話には、会場に訪れた聴衆も興味津々の様子で聴き入っていた。
 講演は、終始豊富な画像と音源を交えながら進められたため、目と耳の両方から平家について学ぶことのできる貴重な機会となった。また、薦田先生の生き生きとした語り口には、平家研究に対する先生の大きな情熱が表れているようであり、先生のお話に魅了されるうちに、あっという間に90分が過ぎ去ってしまったという印象である。
 講演の終盤には、薦田先生の促しにより、名古屋平曲保存会会長を務められた藤井知昭先生(中部支部会員)にもお話をいただいた。藤井先生からは、薦田先生の講演に対して謝辞が述べられるとともに、かつて藤井先生が、お父上の藤井制心先生とともに平家を採譜されたことや、ご自身が井野川検校のもとで3年間にわたり平家を習われたことなど、先生の実体験にもとづくきわめて貴重なお話が披露された。とりわけ、先生が平家を習われた際に、井野川検校の音程が日によって変わることに疑問をもち、それについて尋ねたところ、「その日の一番いい声の調子でやるんだよ」と返答され、伝統文化の貴重さを学んだというエピソードは、非常に感慨深いものであった。
 さらに、講演後の質疑応答では、フロアから多くの質問が飛び交い、薦田先生から一つずつ丁寧な回答と解説をいただいた。このように、例会の参加者をみる限り、名古屋の人々の平家に対する関心は非常に高いように感じられた。しかしながら、薦田先生は、名古屋で開かれる平家鑑賞会の聴衆が少ないことを懸念されておられた。その一方で、今日に至るまで、荻野検校顕彰会などによって、平家の保存活動が精力的に行なわれていることも紹介された。かくいう筆者も、恥ずかしながら、そのような「守るべき音楽遺産」が名古屋の地にあることを初めて知った一人である。今回の薦田先生の講演を機に、この名古屋の地で平家に対する関心が高まり、保存伝承活動が進むことを大いに期待したい。