第106回例会報告

日本音楽学会中部支部 

日時:2012年(平成24年)12月15日(土)
午前の部(宇治平等院周辺の散策、希望者のみ)
午後の部(第106回中部支部例会)14:00〜17:00
場所:宇治市生涯学習センター(京都府)


【研究発表】司会:馬場雄司(京都文教大学)

1  馬場雄司(京都文教大学):北タイ、ナーン県、ルワの竹楽器ピをめぐって:農具と楽器のはざまで
2  協力:宇治田楽実行委員会(代表/会長 中谷雅夫)担当:馬場雄司:「宇治・宇治田楽」を例に、伝統芸能の歴史と伝承を考える



【発表要旨】

1 馬場雄司(京都文教大学)

北タイ、ナーン県、ルワの竹楽器ピをめぐって:農具と楽器のはざまで

 東南アジア大陸部には多くの竹楽器がみられる。ラオスから東北タイにみられるケーン(笙)をはじめとして、ピー(横笛)、クルイ(縦笛)などと呼ばれる笛類は各地でみられる。この他、竹製の口琴や、竹筒の表皮を線状に剥いで弦にしたり、金属弦を張ったりする竹筒琴(ティントン、カットンなど)、竹筒を地面でたたくことで音を出すもの(トラティークなど)、竹筒を竹棒で叩くもの(プレ、ピ)、細い竹筒に割目を入れて手に当てて鳴らすもの(ダウダウ)など様々なタイプのものがみられる。特に、ラオスのカムにみられるトート(鼻笛)、ダウダウ(割れ目を入れて手に当てる)、トラティーク(竹筒を地面でたたく)は、フィリピンのカリンガにみられるトガリ、バリンビン、トガトンに類似しており、今後、大陸部の竹楽器と島嶼部の竹楽器の関係についても検討される必要がある。
 これらの竹楽器は、構造が比較的単純で、特に専門家でなくても比較的簡単に作ることができ、農民自らが農具をつくるような営みの延長上にこうした楽器の制作があるとも考えられる。また、これらの竹楽器は、旋律楽器として用いるものだけではなく、音を出すことそのものが目的のものもある。例えばラオスにおいて、クラーン(ししおどし)、クロッなど鳥や獣から作物を守るために音を出す農具(音具)がある。カムのダウダウは女性が山道を歩く時に危険を避けるために用いるといい、同種の楽器であるフィリピンのバリンビンも畑への道で蛇を脅すために用いられるというが、これらは、旋律を奏でるというよりも、先の音具と性格が似ている。また、カムのトラティークは地面をたたいて音を出すことで稲魂を呼ぶといい、更に農事にかかわる霊的世界と結ぶ意図をもっている。ここで扱うルワのピも「稲魂をもてなす」という意図で用いられる。しかしピは、いくつかの決まった旋律をもっており、旋律楽器という性格をも持つ。これらの竹楽器に注目することで、農具(音具)と楽器の連続した側面を浮かび上がらせることができる。
 ピは、東南アジア大陸部に広く分布するモン・クメール語系民族の一つルワのうち、タイ北部ナーン県にかけて分布するルワ・マーンと呼ばれる集団に限られる。ここでは、その代表的な村であるナーン県プア郡のトゥイ村で毎年8月に行われる、ボン・チョートの儀礼をとりあげる。トゥイ村は、プーカー山国立公園内にある約100軒からなる山地の村で、仏教と精霊が信仰される。陸稲栽培が生業の中心であり、ボンチョート儀礼は、この陸稲の魂を迎えもてなすために行われる。
 ボン・チョート儀礼は、稲魂を祀り今年の収穫を予想する目的で行われる。毎年8月、陸稲の種を播いたあとに行われる。この期間は食事を作る以外仕事をせず、ルワ語以外禁止される。儀礼期間は、10日間行われ、3日目にピをつくって稲魂を迎え、7日目と10日目に村人たちがピを鳴らしながら、村内を行進し、10日目にピを森に返し、翌日、稲魂を畑に返す。
 以下、2011 年の儀礼の10日目にあたる8月12日の概要である。
 (1)稲魂をもてなす儀礼(司祭1の家):稲魂は儀礼の期間、家々に訪れて「健康」をとり戻して美しい稲となり、豊作が訪れる。
 (2)森の祠での儀礼:土地の主(精霊)への報告。
 (3)村内の行進:村人ピを鳴らしつつ、司祭1の家、プーカー山の守護神チャオルアン・プアの祠を経て、ぷりーすと司祭2の家へ向かう。
 (4)鶏供犠:鶏を殺してピに血を塗る(司祭2の家)
 (5)村内の行進:村人ピを鳴らしつつ、司祭2の家、司祭1の家を経て、チャオルアン・プアの祠へ向かう。
 (6)村の洗い場でピについた鶏の血を洗う
 (7)司祭2の家にピを捨てる
 ピは、ルワ・マーンと呼ばれる集団のみが用いる楽器であり、ボン・チョート儀礼の期間のみ村内のみで使用するもので、村外で演奏したり、村外に持ち出すことは禁じられている。県の民族文化祭で演奏の依頼をうけたこともあるが神聖な楽器であることを理由に断っている。村人の誰もがたたけるものであり、人数・楽器の数は限定されない。最初に製作専門家(サラー)が毎年儀礼後に捨てずに3セット保管してあるマスターの長さを測り、作れる人々が集まり作り始める。材料はマイ・ヒヤという比較的山地に生える肉厚が薄い竹を用いる。ピの構造は、中心になる竹筒の長い部分(ボーン)、竹筒下方の穴に指し込まれた竹棒(チャーン)、チャーン叩く竹棒(アウォン)からなり、チャーンをアウォンでたたくことで音を出す。通常、長さの異なる3本を指の間にはさみ、高音・中音・低音の3つの音の組み合わせで旋律をつくる(写真1)。同時に、大きめの竹を地面に置いて音を発するアンコームピ(長さの異なる2本で2つの音を出す)も用いる(写真2)。これらはサイズによって10種あり短いもの程高音を出すことができ、4オクターブ以上の音域をカバーすることができる。ピの旋律は10種類ほどあり、トクヤー、タムロなど旋律に名まえがつけられている。 稲魂はマイヒアの中に存在するわけではないが、マイヒアがなければ稲魂は来ないという。稲魂はマイヒアでつくったピに宿り、鶏を食べる。ピに鶏の血を塗るのはそれを表している。ピを鳴らす行進では、アンサンブルがみられるが、音楽を奏でる楽器というよりも、稲魂のあるいは稲魂にメッセージを伝える音具という性格に、報告者は注目している。旋律そのものの持つ意味などを更に検討し、農具(音具)と楽器の連続性について考えてみたい。
 現在、神聖な楽器(音具)として儀礼期間限定・村内限定のピであるが、県の民族文化祭からの誘いがあったり(現在は断っている)、村内で、7本のピを用い、西洋音階でポップスなどを遊び半分で演奏する光景もみられる。ピが文脈から切り離され「音楽」を演奏するための「楽器」となり、ステージでのパフォーマンスに用いられる可能性も少なからず存在するように思う。


写真1.ピの演奏


写真2.アンコームピ




2 宇治田楽実行委員会(代表/会長 中谷雅夫)

田楽の歴史と宇治田楽

 田楽は農耕民族である我々の祖先が行なった神への祈りが原点であり、一年間の農作業の無事を、そして豊作を、祈ったもの。神を喜ばせる、楽しませることが現在「神楽」として継承されているが、田楽はその「神楽」の中で、田や農作業に関連するものであり、そのルーツは大きく分けて二つあり、「農事予祝」と「田植え田楽」である。
 「農事予祝」とは神様の前で豊作と一年間の農作業の無事を祈り、一年間を通しての農作業の真似事をするもので「田遊び」と呼ばれ各地の田楽に今も残る。「田植え田楽」は田植え作業を囃して重労働であった作業をすこしでも楽しく行なおうという意味と豊作を祈り田の神様に楽しんでもらう意味の両方ではなかったと推測できる。
 このように最初は神様に見ていただく、喜んでいただくという田楽の原点から、そういった田楽を一般の人々が真似ることにより流行した「風流田楽」、そして大陸から渡来してきた「散楽」の要素が、混在した人に見せる田楽へと変化していく。 この流れを年代的に検証すると、地方では851年に72年毎に大祭礼が行なわれることでも有名な金砂大田楽の第一回大祭礼があり、都では876年に祇園御霊会(のちの祇園祭)が開催され、田楽が行道したと考えられる。また『栄華物語』の記述の中で、「1023年5月に藤原彰子が田植え(田植え田楽)見物をしている。1094年には素人による風流田楽の流行がみられ、1096年永長の大田楽ではその馬鹿騒ぎが高足、一足、腰鼓、振鼓、銅鈸子、編木、植女、養女の類が日夜絶えることなく喧騒をきわめ、官人、神官、僧侶もこれに加わり、洛中が宛も気の狂ったように街頭を踊り廻り、都全体が狐霊に憑かれているようである」と記されている。しかし、ここまでは所謂鑑賞化される以前の民俗行事であったようだ。
 藤原忠実の日記『殿暦』には1116年5月16日に田植え見物をした記述があるが、この時には鑑賞を前提とした屋外芸能(田植え田楽)へと変化していたようである。
 この変化の過程で宇治という場所は非常に重要な役目を果たしたと考えられる。1052年に、頼道は道長から受け継いだ宇治別業を寺に改め平等院とした。1069年~1074年に記された藤原兼仲の日記『勘仲記』によると、この頃より藤原氏一族による離宮祭(現、宇治上神社、宇治神社の祭礼)への援助が始まったようである。また、藤原忠実の日記『殿暦』1110年~1116年ではほぼ毎年のように離宮祭を見物しており、その離宮祭がいかに盛大であったかの記述が右大臣藤原宗忠の日記『中右記』1133年5月7日にみられる。宗忠が見物した宇治離宮祭の様子は、「今日宇治離宮明神離宮祭也。宇治辺の下人之を祭る。未時計に平等院透廊に行き向かい見物す。巫女・馬長・一物・田楽・散楽、法のごとし、雑芸一々、遊客勝げて計うべからず、見物の下人数千人、河の北岸に着く小船数千艘、甍を竝ぶるごとし」とある。
 1133年頃宇治に田楽の本座ができ、1278年宇治猿楽の座ができ、それが南都進出し大和猿楽となり能楽の基礎となる。1153年に忠実より60余人の田楽法師に衣装が与えられるが、田楽は衰退し社寺の勧進興行に利用されることで残るものの、散楽的な傾向の強い技芸へと変化していく。 これらの記述では、地方では素朴な田楽が土地の人々によって伝承されていったのとは対象的に、この宇治の地においては、人に見せる田楽、そして神社の祭礼において重要な役割を果たす田楽となり、宇治離宮祭での田楽は、京の都から大勢の見物客が押し寄せるほどのものになったことがよくわかる。そこには藤原氏の援助があり、そこで田楽を見せることを生業とする田楽衆が生まれるが、やがて貴族の衰退とともに田楽も衰退し、田楽は社寺勧進興行として奈良の社寺へ進出し、それが現在の能の元となったのである。 宇治ではこの衰退し、失われた芸能である「田楽」を現在に甦らせ、各地の田楽の視察に行き、自分達のオリジナルの作品を創り上げて現在も進歩し続けている。
 2008年に「茨城県国民文化祭」に出演、2011年に「国民文化祭京都2011」において宇治市で「全国田楽祭」を開催、2013年1月に山梨県で開催される「国民文化祭」に出演予定など、活躍の場が広がっている。

 最後にこれらの田楽に使用される楽器について簡単に説明したい。
 田楽に使用する楽器として絶対に欠かせないものが「ささら」であるが、その「ささら」には、すりざさら「簓」(写真1)とびんざさら「編木」(写真2)がある。語源は「ささくれたもの」であることを考えると「簓」が連想される。「編木」は、散楽と一緒に大陸から渡来したものだろう。主に田遊びや田植え田楽では「簓」が使用されていることでもわかるが、その使用される演目が「鳥追い」であることからも農作業に関わるもの、また農耕具から派生したものではないか。一方、「編木」はある程度田楽が芸能化してから使用されたもののようである。
 また太鼓も同じように芸能化以前の田楽では音の悪い模擬品のようなものが使われていたのに対して、芸能化への変化の中で音も重視されたのか、あまり厚みの無い音の高い太鼓へと変化している。
 どちらも民衆の神への祈りの中から生まれ、身近にあったものを利用して囃していたものが、人に見せるもの、芸能としてより洗練されたものへと変化していく過程が見てとれる。
 蛇足ではあるが、宇治田楽ではささらと同じルーツをもつ茶筅をモチーフにしたオリジナルの楽器「茶ちゃら」(写真3)を考案し使用している。



写真1.すりざさら


写真2.びんざさら

写真3.びんざさら