第102回例会報告

日本音楽学会中部支部 

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日時:2011年7月9日(土)13:30〜16:30
会場:中京大学名古屋キャンパス センタービル7階 0703教室


【研究発表】 司会:明木茂夫(中京大学)

1  鈴村真貴子(東京藝術大学大学院音楽研究科ピアノ専攻 博士論文):フランシス・プーランク ピアノ作品演奏法の考察
2  井上さつき(愛知県立芸術大学):恒川鐐之助と明治期日本の音楽

【新刊紹介】

3  金子敦子(名古屋芸術大学)
名古屋芸術大学音楽総合研究所(2010年発行) 『日本大正村所蔵 音楽器総図録』



【研究発表】 司会:明木茂夫(中京大学)

1 鈴村真貴子(東京藝術大学大学院音楽研究科ピアノ専攻 博士論文)

フランシス・プーランク ピアノ作品演奏法の考察

 フランス近代の音楽文化が日本に紹介されて既に久しいが、フランシス・プーランク(Francis Poulenc 1899~1963)の非常に個性的な世界は未だ十分に知られているとは言い難い。そして、作品の演奏法に関しても、口承的に受け継がれているプーランク作品独自の演奏法が、朧げにその姿を確立されようとしているのだが、何が根拠となってそういった演奏のあり方が求められているのかということがあまり明確になっていないのではないかと私は疑問に思っていた。
 本論文は、そうした私の疑問と、これまでに多くのプーランクピアノ作品を演奏してきた際に抱いたプーランク作品の演奏法に関する疑問への一考察である。
 プーランクは、自身の思い描いていた通りの自作品の音楽が「プーランクの音楽」として演奏され続けることを切に望んでいた。従って、プーランクが望んだ彼の音楽のあり方を探る一考察として、まず本論第1章では、音楽家プーランクのルーツともいえる、彼が施されたピアノ教育の様子を明らかにした。プーランクが最も影響を受けたと語る、師リカルド・ヴィニェスについては、彼がどういった人物であったかを探り、プーランク作品演奏法におけるヴィニェスの影響点を明らかにした。特に、ペダルを多使用するというプーランク作品独自の演奏法は、このヴィニェスのピアノテクニックが根源となっていることが判明した。
 続く第2章では、ピアノ作品の演奏法に関してプーランク自身が残している言葉を対談集などから抜粋し、日本語に翻訳して考察を行なった。その結果、プーランクが自作品演奏法に対し、ペダルの使用とテンポに関する事柄に、強いこだわりを持っている様子が明らかになった。テンポに関する点は、私がこれまでにプーランクと向かい合ってきた際にも自身の中で問題となってきた点でもある。従って、第3章ではこのテンポに関する考察を中心に、実際的な演奏法の考察を行なった。考察には、DAWソフトcubase4を使って、テンポの動きをメトロノーム数値化させたプーランクの自作自演録音を用いた。
 今回の例会発表では、どのようにDAWソフト分析を行ない、そこで得られたテンポマップを、どのように使用して論文内での分析と検証の資料としたかを、ノクターン第1番の分析例を用いて説明した。
 発表の際にも発言させていただいたのだが、本論文は、プーランクピアノ作品演奏法に関する一つの考察であり、プーランク作品の演奏法を定義したり、断定することを目的とはしていない。また、このように演奏すべきだという、プーランク作品の絶対的な演奏法の確立を目指してこの論文を執筆したわけでもない。そもそも演奏とはとても流動的なものであり、音楽において、その表現方法やあり方を断定的に定義する事は不可能だと私は考えている。しかし、作曲家の望む自作品への演奏法を知るためには、楽譜には書かれていない部分を学問的に研究・検証することが時に必要となる。本論文が、プーランク作品における、そうした演奏解釈・演奏法への一考察として、演奏者に対するアイデア提示となり、そしてまた、プーランクが演奏家達に強く望んでいたような、彼の理想としていた自作品の音楽のあり方から大きく離脱しない解釈・演奏法の1つの示唆となったら本望である。
 今後は演奏家として、この研究を生かしてプーランク作品演奏に取り組み、プーランクの魅力的な世界を音として発信し続けたいと考えている。またこの研究を応用して、プーランク以外の作曲家の作品演奏にも、積極的に取り組んでゆきたいと考えている。


2 井上さつき(愛知県立芸術大学)

「恒川鐐之助と明治期日本の音楽」

 名古屋の雅楽の家に生まれた恒川鐐之助重光(明治1?~明治39)は、音楽取調掛伝習生として西洋唱歌を修め、師範学校の音楽教師となり、後に数十冊に及ぶ著書を出版したが、地方での活動だったために中央ではあまり知られていない。本発表では、恒川鐐之助の活動を軸に、明治期日本の音楽状況を考察する。
 恒川鐐之助重光は尾張藩が東照宮の舞楽のために召抱えていた楽家のひとつ、恒川家の七世であった。尾張藩は名古屋城内に東照宮を設置し、1631年以来、藩士として楽人を召し抱えており、幕末には雅楽が盛んで門人も多かった。尾張藩においては、雅楽は教養のひとつとみなされ、ある程度学ぶ必要があった。東照宮附楽人は「芸道」保持のため、師家である三方楽人の稽古を受ける必要があり、門人を取る「中間師匠」的な存在であった。
 鐐之助の父六世恒川弥太郎重富は、小さいころから楽人としての薫陶を受け、雅楽全般の奥義を究めていたといわれる。明治初年頃の尾張藩の楽人の家は15家、総数は17人。弥太郎(笛・左舞)もその一人であった。明治3年6月、楽人の制が解かれたことにより、転職するものが多かった。そのなかで、弥太郎は音楽の道にとどまり、名古屋で唱歌教育が始まったときには請われて保育唱歌の作曲を行った。
 弥太郎は明治17年(1884)息子鐐之助の音楽取調掛伝習所への入学を愛知県に出願、同年9月20日、入学が許可された。鐐之助は正式な入学許可が下りる以前にすでに「一人一学級によって伝習をうけていた」ということが従来知られていたが、今回、愛知県行政文書の中に、恒川鐐之助の入学願書一式が発見されたことから、それが裏付けられ、さらに、恒川鐐之助の伝習所入学までの履歴等も新たに明らかになった。それによれば、鐐之助は「龍笛、鳳笙、篳篥、和琴、琵琶、箏、打物、朗詠、催馬楽、保育唱歌」を修行し、その後、龍笛、篳篥、鳳笙の稽古をそれぞれ宮内庁の伶人たちから受けていたことがわかる。
 鐐之助は音楽取調掛に入学半年後の明治18年3月には伝習を修了し、名古屋に戻り、師範学校などで教鞭をとるかわたら唱歌教員の育成を行った。唱歌は明治20年4月には必須科目として名古屋市の各小学校に課せられることになったので、唱歌教師の育成が急務となっていたが、この職をめざして鐐之助の元に唱歌のレッスンに通っていた中に、三味線屋を営んでいた鈴木政吉がいた。政吉は鐐之助の門人の一人が横浜で購入したヴァイオリンを借り受け、見よう見まねでヴァイオリンを作り上げた。そのヴァイオリンを鐐之助に見せたところ大いに励まされ、政吉はヴァイオリン製造業へ転身することになったのである。この後も、政吉と鐐之助の交流は、明治35年に政吉が出版した『ヴァイオリン独習書』の「閲」を鐐之助が引き受けるなど、さまざまな形で続いた。
 さて、恒川鐐之助は、音楽教師としては、明治19年に愛知県尋常師範学校へ就職し、明治21年7月に和歌山県師範学校へ転勤、さらに、明治24年からは三重県尋常師範学校で教え、明治39年に亡くなった。彼はそのかたわら、明治20年以来、『音楽入門』、『唱歌をしへ草』、『普通唱歌集』、『学校唱歌集』、『進行曲集』、『愛国唱歌』、『愛国式日唱歌』、『帝国唱歌』、『小学式日唱歌』、その他、多数の音楽書を出版した。
 一方、鐐之助は学校教育以外にも、地域の音楽活動全般に積極的にかかわっていた。明治27年7月25日発行『音楽雑誌』には、「伊勢の国津市、恒川鐐之助(・・・)会員を募り音楽会を設けて唱歌、オルガン、ヴヮイオリン、雅楽等を教授するという」という記述がみられ、三重県に赴任した後も同地でさまざまな種目を教えていたことがわかる。
 この記事に「雅楽」が入っていることからもわかるように、鐐之助は家業としての雅楽にも力を注いでいた。
 明治維新後、一時、雅楽の伝統も揺らいだが、旧藩の楽人であった恒川重富、岡村清根らが門人を率いて東照宮や熱田神宮で舞楽奉奏を行い、その伝統は保たれた。それをパトロンとして支えていた中には実業家の伊藤家などもあった。たとえば、松坂屋デパートを創設した15代伊藤次郎左衛門は、父14代次郎左衛門と共に、恒川鐐之助の雅楽の門人であった。明治期に、名古屋の雅楽が決して衰えていなかったことは、元々琴を製造していた小林倫祥が後に雅楽器製造も手がけるようになったことからもわかる。小林は明治33年(1900)に開かれたパリ万博には鈴木政吉のヴァイオリンと共に、愛知県から雅楽器を出品し銅賞を得ている。
 明治期の音楽のあり方は、特に名古屋においては、決して排他的なものではなく、雅楽も洋楽も並存していた。恒川鐐之助はその要にいた一人で、師範学校での教育に加え、地域の音楽活動を組織し、さらには家芸としての雅楽を守り続けた人物であった。


【新刊紹介】

3 金子敦子(名古屋芸術大学)

名古屋芸術大学音楽総合研究所(2010年発行)
『日本大正村所蔵 音楽器総図録』

 岐阜県恵那市明智町にある「日本大正村」は、昭和63年(1988)に村おこしのために開村したテーマパークである。村の中心施設である「大正ロマン館」、「大正時代館」、「おもちゃ資料館」には、大正時代を中心とするさまざまな貴重な資料とともに、紙腔琴、手風琴、大正琴、蓄音機等、明治、大正、昭和初期に日本および諸外国で作られた数多くの楽器や楽譜等の資料が数多く所蔵されている。しかし、それらの資料は、今までまったく整理整頓されることなく、収蔵庫に詰め込まれた状態であった。
 名古屋芸術大学音楽総合研究所(音楽学 代表:金子敦子)では、2年半がかりで音楽関係の全所蔵品の調査を行い、このほど総数1245点の写真とデータ資料を掲載した図録を刊行した。本図録が、「地域財産」の保護および諸方面の研究の発展に少しでもお役に立てばと願っている。