第101回例会報告

日本音楽学会中部支部 

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日時:2010年3月27日(日)13:30〜17:00
会場:名古屋市立大学芸術工学部 図書館棟 大講義室


【第1部:卒業論文】 司会:水野みか子(名古屋市立大学)

1  片山詩音(金城学院大学):胡弓の伝播とその現状に関する一考察
2  船江彩加(名古屋芸術大学):江差追分とその伝承
3  深堀彩香(愛知県立芸術大学):長崎県生月島のオラショの現在―歌オラショ《ぐるりよざ》の分析を通して―
4  吉内紫(愛知県立芸術大学博士前期課程・弦楽器領域):ベラ・バルトーク《ヴィオラ協奏曲》—旧版と新版の比較—

第2部【話題提供】

5  清野則正/水野みか子(名古屋市立大学大学院):1960-70年代の日本の音楽資料について

第3部【ワークショップ&ディスカッション:音/動作/映像のインタラクションで遊ぼう】


6  鈴木有昴(名古屋市立大学大学院)他
 ゲスト:堤淳喜(クラリネット奏者)
     杜川リンタロウ(俳優)
     安藤亜矢子(バレリーナ)



【第1部【卒業論文】【修士研究】発表

1 片山詩音(金城学院大学人間科学部芸術表現療法学科)

胡弓の伝播とその現状に関する一考察

 胡弓は日本の伝統楽器の中で唯一の擦弦楽器である。日本では弓は鳴弦の儀といった魔除けの道具や武具として用いられていたが、楽器としては胡弓の他にほとんどないのではないだろうか。胡弓は門付芸や三曲合奏において発展したが、尺八の登場等により衰退し、現在では伝統芸能や民俗芸能の中でわずかながら演奏されている。起源については諸説様々あるため明確ではない。本論文においてはあえてその起源を明らかにすることと共に、日本国内における伝播経緯もできる限り明らかにすることを目指した。
 『糸竹初心集』(寛文4年)には、琉球に弓を用いる三弦の小弓という楽器が存在したとある。また主に次の胡弓の伝来説・改造説が考えられている。伝来説には琉球からの伝来説、南蛮からの伝来説、中国からの伝来説がある。また形状や構造の類似性により、三味線の改造説も考えられている。胡弓は江戸時代初期頃には存在したと推定されているが、起源についてはこの記述や諸説から推測の域を脱し得なかった。しかし、少なくとも起源を推測する一要素となると考えられる。今後は、胡弓に関する初期の記述等から、起源についてさらに考察する。
 このように胡弓の起源を推測することと共に、日本国内における胡弓の伝播についても考察した。胡弓の現状から国内の伝播経緯を調査することにより、起源をたどる手がかりとなり、また現状を明らかにできるであろうと考えた。その現状に関する調査では、現在も胡弓が演奏されている民俗芸能ではおわら風の盆を、伝統芸能では歌舞伎を調査対象として設定した。それぞれの調査領域では、演奏を行う場や演奏内容、特に用途や楽器構造には違いがあることから比較を行った。各調査領域への胡弓の導入経緯については、考えられている諸説や言い伝え等を検討する共に、様々な可能性をも想定し、現時点で考えられる経緯を推測した。胡弓は発生もしくは伝来後、検校や遊女、鳥追や門付芸人・瞽女といった放浪芸人などによって広まったと考えられている。このような人々と調査領域との関連性について、おわら風の盆では瞽女、歌舞伎においては歌舞伎俳優が演じる門付芸人等との関わりについて考察した。この関連性についてはさらなる調査を行いたい。
 また、アジア・ヨーロッパ地域では多種多様な擦弦楽器が存在している。胡弓の独自の特性について、それらの擦弦楽器との類似点・相違点を比較した。胡弓を含めアジア・ヨーロッパ地域における擦弦楽器の理解も必要であると考え、より考察を深めていきたい。 胡弓の起源や伝播経緯に関する確証は得難いことではある。しかし、胡弓の現状を調査し日本国内における伝播経緯をたどることによって、起源に関してだけでなく、各調査領域における胡弓の導入経緯や特性について研究をさらに進めたい。加えて調査領域の胡弓を取り巻く文化的背景も共に裏付けていくことを目指す。また、弓の用いられ方や胡弓に求められている音楽性といった楽器そのものの理解等を深めていくためにも、様々な観点から本研究を続けていきたい。


2 船江 彩加(名古屋芸術大学音楽学部 音楽教育コース)

江差追分とその伝承

 本論文は、北海道の代表的な民謡の一つである≪江差追分≫に注目し、歴史と伝承について述べた後、北海道民と≪江差追分≫との関係について考察したものである。
 ≪江差追分≫の起源は江戸時代中頃にさかのぼり、元唄は信州の≪信濃追分≫であるといわれる。≪江差追分≫が誕生するまでの過程は以下の通りである。≪信濃追分≫は新潟県に伝承されて≪越後追分≫になり、≪越後追分≫は北海道の松前に伝わり≪松前追分≫が生まれた。その後、江差に伝承された≪松前追分≫は、≪江差追分≫へと変貌を遂げる。なお、現在の≪江差追分≫の歌唱法は、当時存在したさまざまな≪江差追分≫に対して検討が重ねられた結果、明治41年(1908)に“固定”されたものである。
 ≪江差追分≫の伝承活動が本格化するのは昭和22年(1947)以降で、それには≪江差追分≫を支える江差追分会の組織が深く関わる。組織は支部制をとり、平成22年現在、全155支部(国内150支部、5海外支部)、会員数は3,711名である。運営は江差町役場の江差追分課が担当している。なお、支部数と会員数はともに年々増加傾向を示している。
 彼らの活動の一つは、日本最古の民謡全国大会として名高い「江差追分全国大会」の開催である。昭和38年(1963)に始まった大会は、当初道内91名、道外5名の出場者であったが、現在では毎年400名を超える出場者で賑わいを見せる。大会の目的は、≪江差追分≫の優れた歌手を選出することだが、大会への出場者を県別に見ると、北海道を中心に全国から集まり、道外では東京からの出身者が目立つ。
 このことを受けて、北海道民と≪江差追分≫との関係について日本社会の移り変わりを念頭に置きながら考察したところ、次のようなことが明らかになった。≪江差追分≫の伝承が本格化する昭和22年以降昭和30年代にかけて、日本社会は戦後の復興期を経て高度経済成長期へと向かい、働き口の少ない地方の若者たちは、職を求めて都市部(特に東京)へ向った。そのような状況の中で、当時、都市部で人々の人気を集めたのが「民謡酒場」である。「民謡酒場」で故郷の民謡に触れ、さらにラジオ等のメディアを通して民謡を聴くことで、人々は故郷を偲び安らぎを感じたのだろう。また「のど自慢大会」で民謡を披露することにより、自己の存在を確認した。≪江差追分≫も例にもれず、北海道出身者の心を癒していたことは間違いない。昭和37年(1962)に、テレビの「のど自慢」民謡の部で≪江差追分≫の歌唱者が優勝したことをきっかけに、翌年には江差追分全国大会が開催されるようになる。その後、《江差追分》は昭和52年(1977)の北海道無形民俗文化財への登録、平成13年(2001)の北海道遺産への登録など経て、今では北海道を象徴、代表する唄になっている。このように、「社会の流れ」と「民謡の流行」がタイミングよく絡み合った結果、≪江差追分≫の人気は衰えることなく継続されてきたのである。《江差追分》は北海道の象徴的存在であり、道民のアイデンティティーといえるだろう。
 一方、この伝承の背景には学校教育の力も見逃すことはできない。平成20年(2008)の学習指導要領改定後、伝統的な歌唱として民謡の指導が示されるようになったが、江差追分会はそれ以前から教育委員会と協力し、後継者育成対策の一環として町内の小中高等学校で指導を実施してきた。民謡はかつて、放っておいても自然と伝承されていくものであった。しかし、情報機器の発展によりどこにいても故郷を感じることができるようになった今、若者にとって「民謡=故郷」という意識は薄れ、民謡は単なる一つの音楽ジャンルにすぎなくなってしまったようである。教育という場において伝承を試みない限り、民謡の継承は危ぶまれる状況に置かれている。この先世の中がいかに変化しようとも、民謡は我々の財産のひとつとして歌い継がれていくべきものだと思う。そのためには、学校教育の力も見逃すことはできないと考える。


3 深堀 彩香(愛知県立芸術大学音楽学コース)

長崎県生月島のオラショの現在

―歌オラショ《ぐるりよざ》の分析を通して―

 長崎県の北西部に位置する生月(いきつき)島には、現在もかくれキリシタンが存在し、独自の信仰形態を守り続けている。「オラショ」とはかくれキリシタンの祈りを指す言葉であり、オラショは基本的に声に出して唱えられることはない。しかし生月島では、オラショが声に出して唱えられ、さらにオラショに旋律がついた「歌オラショ」と呼ばれるものが歌われている。これらは生月のかくれキリシタンにしか見られない。生月島のかくれキリシタンは集落単位で組織が形成されており、潜伏時代には、たとえキリシタン同士であっても集落を越えて交流することはなかった。そのため、現在唱えられているオラショや歌オラショの言葉や旋律は、集落ごとに異なる変容を見せているのである。
 現在歌われている歌オラショは、《らおだて》《なじょう》《ぐるりよざ》の全3曲である。それぞれの原曲として、《ラウダテ・ドミヌム・オムネス・ジェンテス Laudate Dominum Omnes Gentes (すべての国よ、主を賛美せよ)》《ヌンク・ディミッティス Nunc dimittis (今こそ御言葉にしたがい)》《オー・グロリオーザ・ドミナ O gloriosa Domina (栄えある聖母よ)》という聖歌が皆川達夫によって推定されている。今日、生月島の北部の集落ではこの3曲の歌オラショが歌われているが、南部の集落で歌われているのは《ぐるりよざ》1曲だけである。
 本論文では、音楽的アプローチからかくれキリシタンの現状について言及していくために、過去の録音資料(1953年、1975年、1980年、1990年、2000年)とフィールドワークの成果を比較して近年約60年における歌オラショの変容を明らかにし、さらに、これまで試みられていなかった集落間における歌オラショの旋律比較をおこない、そこから見えてくる集落間の関連性についても考察した。旋律比較では、島の北部と南部の集落において共通して歌われている歌オラショ《ぐるりよざ》を取り扱った。
全体は3章から成り、第1章第1節では、かくれキリシタン全般を概観し、続く第2節で、今回の研究対象である生月島のキリシタン史を見ていきながら、生月島におけるかくれキリシタンについて概観した。
第2章では先行研究について述べた。かくれキリシタンの研究者の数は決して多くないが、これまでに多くの事が明らかにされてきた。本章では、文化的あるいは音楽的アプローチからおこなわれたかくれキリシタン研究の内容をまとめながらその価値と重要性について述べ、さらに、かくれキリシタン音楽の先行研究にみられる問題点を挙げた。
 第3章では歌オラショ《ぐるりよざ》に関する考察及び分析をおこなった。第1節では、フィールドワークをおこなった島の南側に位置する山田集落に焦点を当て、この集落におけるかくれキリシタンについて概観し、その特徴を探った。次に、山田集落のオラショについて述べ、山田集落唯一の歌オラショ《ぐるりよざ》の旋律を年代順に比較し、旋律の変容について考察した。第2節では、フィールドワークをおこなったもうひとつの集落である島の北側に位置する壱部(いちぶ)集落に焦点を当てた。第1節の山田集落と同様に、まず壱部集落におけるかくれキリシタンについて概観し、この集落のオラショについて述べた。次に、壱部集落の歌オラショ《ぐるりよざ》の旋律を年代順に比較し、旋律の変容について考察した。第3節では、第1節と第2節で取り上げた両集落の歌オラショ《ぐるりよざ》の歌詞や旋律を比較しながら集落間の相違点や類似点等を明らかにし、さらに、音楽以外の面からも両集落の関連性について考察した。
 以上の考察から、ここ20年程で山田集落の歌オラショの変容は加速しており、そこには信者の減少や歌う頻度等、複数の要因が関係しているということが明らかになった。かくれキリシタンの音楽は21世紀に入ってからはあまり詳しく研究されておらず、先行研究からは近年の歌オラショに関する情報を得ることができない。長いキリシタンの歴史からみると、本論文で考察した約60年という期間は歴史のほんの一部分でしかないが、歌オラショ《ぐるりよざ》の分析を中心におこなった本研究により、歌オラショをはじめ、オラショ及びかくれキリシタンの現状が明らかにされたと言えよう。


4 吉内 紫(愛知県立芸術大学大学院博士前期課程 弦楽器領域 ヴィオラ)

ベラ・バルトーク《ヴィオラ協奏曲》―旧版と新版の比較―

ベラ・バルトークBéla Bartók(1881-1945)の《ヴィオラ協奏曲》を演奏する上で、旧版と新版のどちらを使用するかは、演奏者にとって一考を要する問題である。なぜなら、この作品がバルトーク自身の手で完成させられたものではないからだ。ティボール・シェルイTibor Serly(1901-1978)による補筆完成版である通称「旧版」が出版されたのが1950年で、その後バルトークの息子ペーター・バルトークPeter Bartók(1924- )によって1995年に「新版」が出版された。本論文では、この2つをバルトークの自筆草稿や、書簡をもとに比較分析することで、相違点について考察し、それぞれの版の特徴を明らかにすることを目的とした。
比較分析の際の資料とした書簡は、バルトークがこの曲の依頼者であるウィリアム・プリムローズへ宛てたもので、1945年8月5日付(一通目)と9月8日日付(二通目)の二通がある。自筆草稿は、バルトーク・レコード社から出版されている「自筆草稿ファクシミリ版」を使用した。
 まず構成を比較すると、旧版と新版では相違点が大きく2つあることに気がつく。一つは楽想表記が違っていること、もうひとつは新版のほうにリトルネロが存在しているということだ。ここで8月5日付の書簡を見ると、その楽想表記が新版と対応していること、またリトルネロの記述があることなどから、新版の構成は書簡の記述を根拠としていることがわかった。それに対して旧版は、シェルイによってつけられた楽想表記になっている。これはこの書簡が実際には投函されていなかったことから、シェルイがこの記述を知らなかったためであると思われる。
 次にオーケストレーションの比較分析では、まず旧版と新版で異なっている部分を探し、さらにその部分を草稿と比べることで、なぜそのような相違が起きたのか考察した。その結果、旧版は草稿から変更された点が多く、これらの個所はシェルイによってヴィオラの音質、フィンガリングや移弦、跳躍の都合などが考慮された思われることが分かった。これは、旧版を完成させたシェルイ自身が、ヴィオラ奏者であり、自作のヴィオラ協奏曲もすでに発表していた経緯などから、このような変更を加えたと考えられる。それに対して、新版は ほとんどの部分が草稿と一致していることが分かった。このように、一見バルトークの意思である草稿からかけ離れていってしまっているようにみる旧版だが、一概にそうとも言えない。二通目の書簡にある、「一部が不適切であったり演奏不能であることも充分考えられます。これらについてはあなたの見解に従って、後日相談いたしましょう。」という記述から、バルトークはプリムローズと相談して多少音を変更するかもしれないと考えていたことがわかる。もしバルトークが生きていたとしても、案外旧版と同じような変更が行われていたのかもしれない。
 これまでの分析から結論として、旧版は二通目の書簡にあるとおり、演奏上の難易がシェルイによって十分に再考され、実際に演奏することをよく考えてつくられた「実用的」な版であると言える。それに対して新版は、一通目の書簡と草稿の意向に沿うことで、バルトークの意思を出来る限り汲もうとした、バルトークにとって「理想的」な版であると言える。演奏者は、それぞれの版の特徴を理解した上で、演奏に使用する版を選択することが重要である。


第2部【話題提供】

5 清野則正(名古屋市立大学大学院芸術工学研究科博士後期課程)
 水野みか子(名古屋市立大学)

1960~70年代の日本の音楽資料 −名古屋フィルハーモニー交響楽団の資料から−

0.はじめに
 戦後日本のクラシック音楽界については近年いくつかの書物が出版されたが、1960~70年代に関しては、資料の扱いや視点が著者によって様々である。その時代を生きてきた人の回想と、その時代には生まれていなかった世代による記述との間に差異があるのは当然だ。作曲家や音楽関係者の備忘録や個人的メモのような一次資料、その時代を生きた人の証言、「うたごえ」やオーケストラ設立など音楽活動全般の記録、新聞・雑誌等の記事などの資料は、たとえば名古屋に関してはどのように残されており、今後はどのように保存・伝承・整理していくのか。問題提起を含めて資料概略を報告した。

1. 名古屋フィルハーモニー交響楽団 設立当時の資料
 現在、名古屋フィルハーモニー交響楽団(以下「名フィル」)の設立について調査するには、当時の新聞記事や名古屋市史の文化面など、当時のメディアや行政のフィルターを通した資料が中心となる。これらが研究資料として価値があることに疑いはないが、「名フィル」という芸術実演組織の存在が生まれ地域性を獲得し、社会的価値を見出されてゆくことになる、その背景や現場での動きについては浮かび上がっては来ない。
 今回提供された資料からは「名フィル」の設立現場を垣間みることができる可能性がある。資料の内容は、当時の新聞の切り抜き、会計報告、公演当日の手書きのメモ書きや愛知県文化講堂の座席表などである。発表者は資料を大きく12の資料群にわけ、新聞の切り抜きでまとまっているスクラッチブックはそのまま①・②・③・④冊とし、その他の手書き書類等はナンバリング、合計145の資料となった(新聞記事のナンバリングは現在検討中)。
 今回はこれらの貴重な資料の一部を使用し、試論として「名フィル」の第一回定期演奏会開催までの活動を追っていく。

2. オーケストラ活動の胎動 名古屋フィルハーモニー交響楽団設立以前
 「名フィル」が設立される以前の全国的な音楽活動の展開として、既に設立されていた主なオーケストラ団体を(表1)に示した。「名フィル」設立の1966年(S.41)までに12団体が活動をはじめている。
その背景として1950年代、60年代の地方自治体における文化政策の方向性と、地方での文化施設状況を考察する必要がある。
 第1に、文化政策では、各地方自治体に文化担当部局が設置され、その振興の基盤整備が行われたという状況がある。また、文部省の助成の側面では、「社会教育団体補助金」(61)(64年には「芸術関係団体補助金」として独立)が設置され、オーケストラやオペラまで助成対象が拡大されていく。
 第2に、文化施設の側面からは、地方での文化活動の場として公会堂建築ブームがあり、文化施設は高いレヴェルの多目的設備を要求されようになる。
 このように名フィル設立当初は、政策・施設の両面から、地域社会の芸術環境が整備されることで、音楽活動を代表とする舞台芸術活動が身近なものとなり、それに応えるが芸術環境として整いはじめ、音楽活動が地域に根ざした時期であるといえる。
 名古屋では、1954年(S.29)初の学生オーケストラ、名古屋大学管弦楽団が活動を始め、続いて名古屋工業大学、名古屋市立大学、南山大学にもオーケストラが相次いで誕生し、名古屋オーケストラ連盟が結成された。同連盟は1962年(S.37)から「第九」の合同演奏会を催している。第3回までは山本昌弘氏(南山大学教授)が指揮を執っていたが、清田健一氏が第4回から指揮を執ることになる。この「第九」は1966年(S.41)まで5回続いた。こうしたオーケストラ活動が、「名フィル」の生まれる素地となる。

3. 名古屋フィルハーモニー交響楽団設立の目的 
 「名フィル」は、1966年(S.41)7月、有志により結成される。発起人有志は清田健一氏・本多忠三氏・松木章伍氏の3名であった。毎週1回の練習は、当時の河合楽器5階ホールにて行われていた。
 設立当初に楽団員全員へ配布したと思われる資料には、「①名称を「ナゴヤ・コンサート・オーケストラ」と決めたいこと、②オーケストラの目的、及び運営について、③演奏したい曲目・その傾向、④練習方法」の4点について意見集約した旨、記載されている。これは中京地区在住の演奏家達によって、自発的に結成した実演団体としての方向性を固めようとするものだと考えられる。
 次に、「名フィル」が財団法人化する前の活動の大きな目的について、「東海地区音楽文化発展向上に寄与すると同時に東海地区のオーケストラ運動の一環として役立つ様」と資料から読み取れた。
 この詳細について引用すると、「名古屋に自由な立場で少しでも良い音の出せるオーケストラを創りたいということです。名古屋では自由な立場でのプロのオーケストラは成立しにくいということですが、だからといって放置しておいてはいつまでたってもオーケストラはできません。我々音楽関係者が少しでも熱意をもって努力すれば、何れ立派なオーケストラが出来るものと信じる。立派なオーケストラがその都市に貢献する文化的意義は非常に大きいと思う。当オーケストラは以上のような考えに同意した中京地区在住の演奏家達によって、自発的に結成されたのである。我々は近い将来このオーケストラを一流にすると同時に、学校の音楽教育(視聴覚教育、音楽鑑賞教育etc)にも役立つように努力するつもりである。」とされた。下線部は「名フィル」における設立当初の目的や意義、主な活動内容を示唆する文言である。
 この中で「名古屋では自由な立場でのプロのオーケストラは成立しにくい」という部分に注目すると、「自由」の意味は一体何を指すのか。これを受けた立場での、「プロのオーケストラは成立しにくい」という舞台芸術を取り巻く芸術環境とは一体どのような社会であったのか。またそれは当時のオーケストラ設立が抱える問題として、全国的な物であったのか、それとも名古屋という地域、他の管弦楽団との関係性などが考慮されているのか。このような疑問が浮かぶ。現代の芸術環境と当時の芸術がおかれた環境の差異が、如実にあらわれる部分である。

4. 名古屋フィルハーモニー交響楽団 第一回定期演奏会までの実演記録
 「名フィル」が第一回定期演奏会を開くまでにどのような活動を行ってきたか。(表2)に演奏会の記録一覧を示した。第一回定期演奏会に至るまで演奏会の形態としては、各学校の記念演奏会、学生の合唱団との演奏会、学生対象音楽鑑賞会や第九演奏会など地域に密着した活動をしていた。このような活動をとおして地域性を獲得し、第一回定期演奏会が無事に開かれ、演奏会の成功に繋がったといえる。

 以下の方々に貴重な資料をご提供いただきました。今後も活用・保存させていただきますことも含め、大変感謝いたします。松木章伍様、田邊穣様、清田健一様、森明様、野々山亨様。ありがとうございました。


第3部【ワークショップ&ディスカッション】

6 鈴木有昂(名古屋市立大学大学院芸術工学研究科博士前期課程)
 ゲスト:堤淳喜(クラリネット奏者)、杜川リンタロウ(俳優)、安藤亜矢子(バレリーナ)

【ワークショップ&ディスカッション:音/動作/映像のインタラクションで遊ぼう】

 今回、インタラクションを楽しめる作品の提案として、人の動きと音・映像がインタラクティブに作用するシステムの制作を試みた。
 このシステムでは泡をイメージした映像と音が、人の動きに連動して変化することによってインタラクティブに作動する。人の動作をシステムの基本とした理由は、わずかな変化でもその様子が目に見えてわかりやすく、なおかつ誰でも手軽に参加することができるため、インタラクティブを体感できるシステムとして最もふさわしいのではないのかと考えたからである。
 インタラクティブ作品を楽しむ重要な点の一つとしてリアルタイムに近い反応の確保ということがある。近年の電子機器の発達した演算・解析能力、通信機能を活かすことで、アナログでは難しい即時性、また通信によるシステムを制作することで、これからの新しい技術にも対応でき、次に繋げることのできる作品ができるのではないかと考えた。
 このシステムではPCにカメラを接続しそこから映像を情報として取得する。それをopenFrameworksによって画像処理をすることによってそのカメラに映っている対象の形や色、またカメラから見た対象のXY座標をリアルタイムに値として取得する。openFrameworksとはC言語の中でもシリアル通信、静止画、動画、音声などが簡単に扱えるライブラリで、メディアアートでの分野で応用が利くものである。同様な他言語に比較して、動作が軽く、ある程度処理の大きいプログラムでも安定して動かすことがでる。
 openFrameworksで行っている最初の処理で、まずカメラに映っている映像を白黒画像に変換する。現在映っている画像を背景画像として一時保存し、数フレーム後にカメラに映っている画像と、背景画像ではどこが違うのかの差分箇所の情報を出し、さらにその差分箇所が一定以上の面積である場合に、そこの重心の位置を割り出し、その点から泡をイメージした映像を重ねて表示させ、動いている箇所から泡がでる仕組みになっている。これをGUIでカメラの画像を見ながら調整し、その場の環境にあった設定を簡単に行えるようにした。
 次に、その値を OSC (open sound control)と呼ばれる通信プロトコルを使って通信する。OSCはMIDIの代替を意図して開発されたものでネットワーク接続を基盤としているが、今回はLANケーブルの有線接続による情報の送受信をした。OSCに対応しているソフトウェアであればその値をソフトウェア内で送受信することができる。またインターネットの速度がそのまま使えるため、MIDIよりもリアルタイムなネットワーク通信を行うことが可能である。 そのため即興性のある作品での使用に向いており、今後このシステムをライブでの変化を必要とする作品に活用する際にアプローチできる幅を広げることができるようになると思われる。
 今回はそのOSCに対応した、音響合成を得意とするChuckというソフトェアを使用した。カメラから取得した値をChuckのソフトウェア内部で使用し、生成される音の音量、音程、反響の度合いが変化するように設定した。Chuckでは、値を受け取ることによって、泡をイメージした音が動きに合わせて自動生成されるプログラミングをしている。
 以上のようなシステムによって、カメラに映った人の動作に合わせて映像と音がインタラクティブに変化する。今後は、このようなインタラクティブのシステムを今後の舞台公演やパフォーマンス、またはインスタレーション等の作品に活かしていく。
 今回のシステムの改善点として考えられるのは、まず映像面では、マイクロソフトのKinectをPCに接続して使用することで、これまで難しかったZ軸の位置座標を取得、また人の体の一部だけを認識することを試みる。今よりもさらに限定的に情報を取得することで表現の幅が広がると考えらるからである。今回制作したシステムでも当初Kinectの使用を試したが、PC側との認識の問題、また情報処理の調整が上手くいかず使用を断念た。今後の公式対応に伴い、ドライバやツール等が揃うことによって、新しい表現への応用・利用ができると考えている。
 音の改善点としては、情報が多くなると音が飛んでしまう、思わぬノイズが出ることなどが起きることが多発した。現在の環境でどうすれば動作が改善できるのかプログラミング知識をさらに深めてく必要がある。
 なお、ご協力いただいた堤淳喜(クラリネット奏者)、杜川リンタロウ(俳優)、安藤亜矢子(バレリーナ)の三氏には、今回のみならず今後の舞台上演のため継続的に共同研究していただくことに心より感謝いたします。