第99回例会報告

日本音楽学会中部支部 

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日時:2010年7月10日(土)13:30~16:30
会場:愛知芸術文化センター 12階 アートスペースE・F


【研究発表】 司会:小沢優子

1  フローベルガーの組曲の書法—フランスの鍵盤組曲との関係—:七條めぐみ(愛知県立芸術大学大学院音楽研究科博士前期課程)
2  ピアノ基礎テクニックの定量化の試み—ピアノ初心者に必要なピアノ基礎テクニックの抽出—:藤原一子(名古屋大学大学院教育発達科学研究科)布目寛幸 池上康男(名古屋大学)
3  フッサールの「内的時間意識」から観た音楽時間:西崎専一(名古屋音楽大学)


【書評】

4  中尾友香梨著『江戸文人と明清楽』(汲古書院)の書評:明木茂夫(中京大学)



【研究発表】 司会:小沢優子

1 七條めぐみ(愛知県立芸術大学大学院音楽研究科博士前期課程)

  フローベルガーの組曲の書法—フランスの鍵盤組曲との関係—

 ヨハン・ヤーコプ・フローベルガー (1616-1667) は長らく、アルマンド—クラント—サラバンド—ジグという組曲の古典的配列を確立した作曲家と見なされてきたが、それは彼の死後の出版譜における配列が、編集者の意図によって変更、付加されたことに起因する誤った認識だった。こうした問題のために、出版譜における配列の見直しが進み、これまでに彼の自筆譜に基づく楽譜が作られてきた。1979年にショットによる『クラヴサン全集 Oeuvres Compl_tes pour Clavecin』、1993年にランペ による『新全集 Neue Ausgabe s_mtlicher Werke』が作成され、フローベルガーの組曲は正しい配列で伝わるようになった。2000年代からは、新しい筆写資料の発見や真作性に疑いのある作品の解明が始まり、研究価値のある作曲家として大いに注目されていると言える。
 フローベルガーはドイツの鍵盤組曲の発展に大きく貢献し、とりわけフランスの様式をドイツへ伝えた作曲家と見なされている。具体的には、リュートやクラヴサン用の組曲におけるアルマンド—クラント—サラバンドという配列の導入、「トンボー(墓碑曲)」「ラメント(追悼曲)」の組曲への挿入、リュート特有の語法の取り入れがこれまでに言及されてきた。しかし、フローベルガーの組曲がフランスの鍵盤組曲から影響を受けているとの指摘があるものの、両者の組曲の書法が詳しく比較されることはなかった。従って本発表では、フローベルガーの組曲と同時代のフランスの鍵盤組曲を比較し、楽曲分析を通じて、彼の組曲に見られるフランスの様式について考察した。
 今回は、比較対象とするフランスの鍵盤組曲にジャック・シャンピオン・ド・シャンボニエールJacques Champion de Chambonni_res (1601/02-1672) とルイ・クープラン Louis Couperin (1626-1661) の作品を取り上げた。この二人は、1652年にフローベルガーがパリを訪れた際に、彼ととりわけ強い関わりを持ったと伝えられている。シャンボニエールとルイ・クープランの組曲ではアルマンド、クラント、サラバンド、ジグの他にも様々な楽曲が含まれるが、今回はフローベルガーの組曲と一致する4つの舞曲のみを対象とした。楽曲分析の結果、スティル・ブリゼやノート・イネガルといったリュートに由来する語法が用いられ、様々な装飾記号が使われており、クラント、サラバンド、ジグでは、フランス型の拍子やリズムが見られることが主な特徴に挙げられた。
 フローベルガーの組曲は、現存する3冊の自筆譜の中で、1649年の『第2集 Libro Secondo』と1656年の『第4集 Libro Quarto』に含まれている。『第2集』はこの自筆譜に2カ月ほど先行するイタリア留学の成果がまとめられたものであり、『第4集』は1652年のパリ訪問後に作成されたものである。今回の分析では、『第2集』に含まれる組曲と『第4集』に含まれる組曲を比較することで、自筆譜の成立年による組曲の書法の違いに注目した。
 組曲の配列は、『第2集』ではアルマンド—クラント—サラバンド、『第4集』ではアルマンド—ジグ—クラント—サラバンドが主なものとなっている。この中からクラントを取り上げると、『第2集』では、スティル・ブリゼの多用と、バス声部で強拍をこえるタイが使用されることよって拍節感が弱くなっている。また、ノート・イネガルが適用される音型が少なく、ヘミオラは1曲のみで見られる。一方で『第4集』のクラントでは、『第2集』よりもスティル・ブリゼの用いられる範囲が局所的になり、バス声部のタイも減少し、拍節が明確になっている。また、スティル・ブリゼの減少に伴いノート・イネガルの適用箇所が増加し、更に、全てのクラントでヘミオラが見られる。
 他の舞曲についても、『第2集』ではスティル・ブリゼの多用によるポリフォニックな声部書法が目立ち、それによって拍節が不明瞭となっている一方で、『第4集』ではポリフォニックながらも拍節構造が明確になっている傾向がある。こうした『第4集』の組曲における特徴は、シャンボニエールとルイ・クープランの組曲の特徴と類似しており、『第2集』と『第4集』の成立の間に、フローベルガーがフランスの作曲家と交流を持ったことにより、書法の変化が見られたと考えることができる。しかし、フランスの鍵盤組曲に見られる装飾記号や拍子記号は取り入れられておらず、フローベルガーの組曲では装飾記号にはトリルのみが用いられ、拍子記号には音符の分割の比率を示す記号が使用されている。こうした要素に関して、例えば装飾記号については、イタリアの鍵盤音楽との一致が既に指摘されている。
 このように、フローベルガーはフランスの鍵盤組曲を知ることで舞曲の書法に影響を受けながらも、自らの組曲に取り入れる要素を選択していたと考えられる。彼の組曲は、ドイツの鍵盤組曲がフランスやイタリアの音楽から様々な影響を受けながら様式化されていく初期の段階を示していると言える。


2 藤原一子(名古屋大学大学院教育発達科学研究科)布目寛幸 池上康男(名古屋大学)

  ピアノ基礎テクニックの定量化の試み—ピアノ初心者に必要なピアノ基礎テクニックの抽出—

1 はじめに
 本研究では、楽曲からピアノの基礎的なテクニックを抽出する方法を確立するために、楽譜に書かれている音符(音長と音高)を忠実に打鍵することを「基礎テクニック」と定義し、定量化を試みた。また、ピアノ初級から中級への難易度変化の客観的な評価も試みた。
2 方法
 分析曲は、全音楽譜出版社「難易度別教本・曲集一覧」と、音楽之友社「ピアノ楽譜グレード表」に基づき、初級レベルはブルクミュラー『25の練習曲 作品100』、中級レベルはブルクミュラー『18の練習曲 作品109』とした。その中からテクニックの偏りが出ないようにそれぞれ8曲を選曲した。分析は、我々が独自で作成した以下の4つの項目 ((1)先行音から後続音への進行、(2)運指と移動幅、(3)指間幅と指の組み合わせ、(4)最短音及び音長の平均値)により行った。
2.1 先行音から後続音への進行
 まず楽譜中の音を「単音」と「重音」に分類し、また、ある指が「保留される場合」と「保留されない場合」に分類した。その上で、楽譜中のn音を「先行音」、n+1音を「後続音」とし、先行音から後続音への進行パターンを、「単音⇒単音」、「単音⇔重音」、「重音⇒重音」、「保留音を含む進行」の4つに集約し、分析した。
2.2 運指と移動幅
 松原ら(2006a,2006b)が行った類似の方法を用いて、先行音から後続音への運指と移動幅を調べた。今回は、先行音もしくは後続音が重音の場合は分析対象から外し、単音から単音への進行のみを分析した。
2.3 指間幅と指の組み合わせ
 指間幅とは、同時打鍵(重音および保留音)の打鍵指の幅のこととし、2音間の指間幅と指の組み合わせを調べた。その際、重音は、最高5音同時に押えられることとし、最低音から順に、打鍵している隣り合った指の組み合わせを分析した。
2.4 最短音及び音長の平均値
 各曲に含まれる最短音と音長の平均値を、その曲の指定テンポを基に秒に変換した。右手の最短音および音長の平均値は右手の演奏部分から計算し、左手も同様に分析した。最短音は、城戸ら(2003)の方法を一部参考にした。
3 結果とまとめ
 初級『25の練習曲』から中級『18の練習曲』への難易度変化を以下にまとめる。
 「最短音及び音長の平均値」においては、難易度の変化は見られなかった。しかし、『バイエルピアノ教則本』(初級)とツェルニー『30番練習曲』(中級)で最短音の比較を行ったところ、有意な差が認められたので(藤原ら2009)、全ての教材の初級から中級への難易度変化に最短音が関与しないとは言い切れない。さらに多くの教材を用いた分析が必要である。
4 今後の課題
 基礎テクニックを構成する要素を用いた定量化により、各レベルの特徴が明らかになり、そのことから、ピアノ学習者に必要なエクササイズ内容も明らかになると考えている。今後、分析曲を増やし、初級、中級、上級間の難易度変化を把握し、新しいフィンガーエクササイズの作成に役立てたい。
5 参考文献
松原正樹,遠山紀子,斎藤博昭(2006a)ピアノ初級者のための独習支援システムの提案.社団法人情報処理学会研究報告:79‐84.
松原正樹,遠山紀子,斎藤博昭(2006b)ピアノ初級者のための独習支援システムにおける戦略的練習計画の提示.社団法人情報処理学会研究報告:7‐12.
城戸透,森山伸,岸啓子,横山詔八(2003)ピアノ・エチュードの体系的研究Ⅱ−バイエルの研究(2).教育科学(愛媛大学教育学部紀要),50(1):119‐138.
Wagner,C.H.(1988)The pianist’s hand:Anthropometry and biomechanics.Ergonomics,31‐1:97-131.
青木朋子,木下博(2002)個々の指の動的運動機能差およびその長期的訓練の効果.バイオメカニズム,16:143-154.
Aoki,T., Furuya,S., Kinoshita,H.(2005) Finger-tapping ability in male and female pianists and nonmusician controls. Motor Control,9:23-29.
藤原一子,池上康男(2009)ピアノ基礎テクニックの定量化—「音の最短値」「先行音から後続音への進行」「指間幅と運指」を分析項目として—.日本音楽教育学会第40回大会プログラム:64.
藤原一子,布目寛幸,池上康男(2010)ピアノ基礎テクニックの定量化の試み.総合保健体育科学,33(1):31−39.


【第2部:研究発表】 司会:高橋隆二

3 西崎専一(名古屋音楽大学)

  フッサールの「内的時間意識」から観た音楽時間

 芸術が意識現象であることは、自明もことであります。針金細工のようなジャコメッティの「猫」のトルソーが、猫特有のしなやかさ、軽やかさを発揮するも、それを観る意識がそこに「形を超えた猫そのもの」を感受するからでしょう。
 フッサールの用語を使えば、芸術は「ノエマ・ノエシス」の関係性そのもの、意識されるものとそれを志向し、意識する作用の関係性そのものということができます。ただし、造形芸術の場合、知覚対象は、「ヒュレー・知覚素材」として意識志向(ノエシス)とは別に自律的に実在しており、言い方をかえれば、猫のトルソーは、それを見るものが居ようと居まいとそこにあるのであり、常にノエマ、志向対象として存在することを求められているわけではありません。
 こうしたシェーマは音楽においては素直に該当するとはいえません。存在論や現象学においては、現象は、それに関わる時間性格に関して、実在 と「出来事」のふたつの範疇に分類されます。その存在の性格が必ずしも時間の関与を必要としないものが実在であり、存在するために時間的持続を要求し、時間の関与を本質とするものが出来事である。音楽は、典型的な出来事(非・実在)である。
 音楽におけるヒュレーはいうまでもなく音響であります。音楽が典型的な非実在であるのは、このヒュレーである音響の現象が時間的持続を要求するという性格そのものによります。にもかかわらず、「音楽は実在なのか意識現象なのか」という問いは、近現代の西欧社会の音楽に重くのしかかってきた。この問いの厄介なことは、キリスト教的存在論における神学的規範に従って、つまり価値あるべき存在の永続性つまり実在性への確信にしたがって、答えがあらかじめ「実在である」ことに定まっていることである。
 この齟齬を克服するため、「音楽なるものは存在しない。あるのはただ音楽作品だけである」といった命題が掲げられることになります。知覚素材としての実在・ヒュレーとしての音楽、つまり音響から自律した音楽作品の憑代(よりしろ)を確保するために、中世以来「記譜法」が鍛え上げられてきます。
 そのため、音楽は「音の関数」のような様相を呈するとともに、この場合のウエイトは、音にではなく関数のほうに置かれます、楽譜は、音楽に対してその実在を担保する憑代(よりしろ)としての専横的な権限を主張し、この憑代の支配する「形式としての音楽」から「響きとしての音楽」を救い出すためにウェーベルンを祖とする近現代の作曲家はさまざまな工夫を重ねてきました。
 音楽に限らず現象するものの実在性は「時間」によっておびやかされる。実在とは現在存在するもののことであり、過去と未来は、この性質を欠く。従って、現存する時間である「現在・今」は、図形における点や線と同じように概念としては質量を欠きます。点や線は、一定の質量が与えられることによって、はじめて点や線として認知されることになりますが、点や線に与えられる質量は物理的に確保されるものであって、そこに意識の関与は必要ありません。
 しかし、今という時間位置は絶え間なく、過去に流れ去り、未来が流れ込み、今は常に瞬間として孤立せざるを得ません。この孤立する瞬間に質量を与えるためには、流れ去る過去の一部、流れ込む未来の一部を「今」のなかに保持することによって、時間持続としての今を確保するしかありませんが、これにはひとえに意識の働きの関与をまたなければなりません。記憶・想起と予知ないし予期と呼ばれる意識の働きであります。フッサールはこうした時間意識の働きを示す典型例として旋律の知覚をとりあげます。
 ドレミという音の流れ、旋律の知覚を例にとって見ると、レの音が現実に知覚されているときには、ド音の現出はすでに消失している。正確に言えばド音の知覚はすでに消滅しているが、現象学的に見ると、このときの意識(音の変化に向かう志向的経験)は、過去想起によってド音の現出をなお現在的に保持している。また、このとき、意識は、ミ音の現出をすでに現在的に予期している。
 こうした時間持続の成立を説明するためにフッサールが持ち出すのが、いくつかの音ないし数小節からなる旋律を、「通時的に同一なもの」と感受する意識の働きです。つまり、「いくつもの音がひとつの統握関連のなかで(つまり一連の動きを形成するものとして)意識された音の連鎖」をメロディーとして、感受することになります。
 フッサールの時間論は、この一連の統握関連を成立させる、知覚的志向的体験の構造、想起と予期の構造の分析に関わります。ドー・レーミと続く旋律において、今、レ音を聴いているとき、そのレ音が、ド音から流れ出したレ音として、ド音の記憶とともに保持されるとき、次に行く先はミ音であるという予期が生まれます。また、トニカの響きがサブドミナント、そしてドミナントへと移行してきたという記憶想起が次に響きは再びトニカへ回帰するだろうという予期を生みます。そこで働くのは意識に内在する調性感覚とでも呼べるものであります。この意識の働きが無ければ、音の連鎖をメロディーとして感受する、知覚的志向的体験は成立しません。
 従って、対象が(音楽を典型例とする)感覚的与件のような内在的対象の場合、知覚対象の変化の相と変化を知覚する意識の働きは区別できません。そのとき音楽は、「それ自身の内在的統一体を有し、あるときは速やかにあるときは緩やかに、進展する時間的統一体」として、音響現象をノエマとして成立させるノエシスの働きが確保されることになります。こう考えるときに音楽は実在か意識現象かという問いを止揚する方向性は開けることが期待されます。つまりヒュレーとしての音響現象は実在性を欠くとしても、それに関わる意識の働き、ノエシスがそれを補完するという展望が開ける余地を期待できる、という論旨が構築できるのではないかという展望であります。



【書評】

4 明木茂夫(中京大学)

中尾友香梨著『江戸文人と明清楽』(汲古書院)の書評,2010

 明清楽は長崎を通して伝来し、江戸から明治にかけて日本各地で流行した中国音楽である。明清楽研究の難しさは、国文学・中国文学・音楽学の三分野に渉る資料を駆使しなければならない点にある。日本で流行したものであるから、江戸〜明治の資料が基本となる。それも楽譜そのものに止まらず、文人の日記や書翰から絵画資料に至るまで、幅広い資料が必要になる。さらにその大本は中国から伝わったものであるから、中国文学の知識が不可欠である。そして、楽譜そのものの解釈や旋律復元、楽器の考察などには音楽学の知見も必要となる。
 本書は、著者の中尾友香梨氏の博士論文を元に刊行された明清楽研究の集大成である。明清楽の伝来と普及に関わる楽譜などの一次資料は言うまでもなく、江戸時代の文献を幅広く収集し、文人から大名・武家に至る明清楽活動を詳細に研究している点、琴曲や戯曲・俗曲に至るまで、中国側の音曲・歌辞などを広く参照している点、投壺(一種の矢投げの遊戯)など、明清楽周辺の事項も幅広く言及している点、旋律の復元(五線譜化)を行っている点などは、特筆すべき特徴だと言えよう。中尾氏はこうした学際的研究にまさにうってつけの人材である。殊に中国明清文学の合山究・江戸文学の中野三敏という両大家に師事し薫陶を受けられたことは、氏の研究においてまことに大きなことだったに違いない。日中双方の資料をこれほどに駆使することは余人の及ぶところではなかろう。
 評者は過日、名古屋の名刹曹洞宗浄元寺のご厚意により同寺所蔵の古籍『雲烟供養図録』を拝見する機会を得た。そこには煎茶のお茶会に際して演奏された明清楽の曲目と楽器図が掲載されている。当時明清楽がどのような形態でどのような場所で演奏されたか、特に煎茶道との関係は未だ十分に論じられているとは言い難い。本図録はその意味で、名古屋における明清楽の演奏活動をめぐる重要な資料である。評者が本図録を拝見した際、辞書代わりに傍らに携えたのが本書であった。図録掲載の曲目・人名・楽器などは本書内にことごとく言及があり、おかげで直ちに図録の内容の概要をつかむことができた。
 中尾氏には本書を新たな出発点として、明清楽の演奏実態などさらなる研究に進まれんことを期待したい。