第96回例会報告

日本音楽学会中部支部 

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日時:2009年7月18日(土) 13:30~16:30
会場:名古屋市立大学芸術工学部 M101 教室


【研究発表】 司会:小沢優子

1  「モーツァルトの歌劇《フィガロの結婚》における音楽とドラマトゥルギー  —4幕フィナーレを中心に—」: 横家志帆(愛知県立芸術大学大学院)
2  「低地ラオ社会における歌唱文化『ラムlam』の実態」:黒田清子

3  「コラボレーション・アートの制作空間におけるインタラクティビィティ —愛知県文化情報センター自主事業計画の制作事例をもとに—」:清野則正・水野みか子(名古屋市立大学大学院)
4  「指定管理者制度の含むさまざまな問題点」:山田純(名古屋芸術大学)



【研究発表】

1 横家志帆(愛知県立芸術大学大学院)

  モーツァルトの歌劇《フィガロの結婚》における音楽とドラマトゥルギー ー4幕フィナーレを中心にー

 歌劇《フィガロの結婚》は物語のテーマが強いという点から、これまで数々の研究がされてきた。しかし、それらが音楽的表現といかに結びついてドラマトゥルギーを生み出しているかについて言及されている研究は少ない。 本研究では歌劇のテクストと音楽から、物語のテーマと音楽的表現の特徴を考察した。それらがどのようにドラマトゥルギーと結びついて作曲されているか歌劇全体から考察し、第4幕フィナーレを対象に検証し研究を行った。 歌劇全体の音楽的表現としては、重唱における会話表現化と、一貫性をもった音楽の中で複数の異なる感情を同時に描く技法により、各キャラクターの感情を見事に表現するとともに、音楽と演技の見事な融合を導いたことがあげられた。また、アリアにおいてもドラマとしての一貫性を求め、ドラマの前後関係と連携したアリアの組み入れがされるようになった事、アリアによって身分や立場を音楽で表すと共に、セリア的要素を加えることで歌劇全体を引き立たせていることも特徴としてあげられた。
 歌劇全体の物語のテーマとしては、「貴族批判」「男女差別批判」「男女の間の真実の愛」という3点が挙げられた。戯曲『気の狂った1日、あるいはフィガロの結婚』は、上下関係(主従関係)と男女関係の2つの軸から成り立っている人間関係を覆す、批判的なテーマを理念として描かれていた。ダ・ポンテは上演許可を得るために直接的な批判を削除しぼかしたが、それでもこのテーマは物語の中にちりばめられている。また、歌劇の多くは、恋愛的要素を含んでおり《フィガロの結婚》もその例外ではない。幼く淡い初恋から、相思相愛の恋、熟年夫婦の恋愛模様など、聴衆が共感しうる様々な男女間の恋愛模様が描かれ、これらを通して男女の「真実の愛」のあるべき姿を聴衆に伝えたかったと考察した。 以上の考察をもとに、第4幕フィナーレを検証すると、音楽的表現の「重唱における会話表現化」と3つの物語のテーマが融合されていると考察できる。 第4幕フィナーレの物語としては、「男女差別批判」が「騙す女、騙される男」として、「上下関係批判」が「騙す召使、騙される主人」として、「男女の間の真実の愛」が、フィガロ・スザンナ、伯爵・伯爵夫人の愛の再生による「真実の愛」として描かれている。
 このような物語の状況の中で音楽は、表で実際に行われている会話部分と、陰にいる異なる複数の人物の心の中の独白を同時に描いている。また、物語の進行と共に展開していく一貫した音楽の中で、各キャラクターの異なる複数の感情をも同時に描いている。
 結論として、モーツァルトは《フィガロの結婚》において、当時の世相を反映させた物語のテーマを、上記した音楽的表現により、音楽と見事に融合させ、ドラマトゥルギーを生み出していると考察できた。とりわけ、第4幕フィナーレでは、物語の締めくくりということもあり、これらの要素の多くが集約されていると考察した。


2 黒田清子(中部大学 国際人間学研究所)

  低地ラオ社会における歌唱文化「ラムlam」の実態

本研究は、低地ラオ社会を中心に実践されている歌唱文化「ラムlam」を対象に、音楽人類学研究を実践したものである。博士論文では、第一部の「音楽人類学形成史」と第二部の「低地ラオ社会の歌唱文化ラムの実態」という二部構成のかたちで考察を行なった。第一部ではいわゆる非西洋「音楽」研究に関わる分野、民族音楽学、音楽人類学のリビューを行ない、その問題点について考察した。絶えず変化するという「音楽」の特性から、「音楽はその一過性に価値のある合理的理解を超えた何かである」とチェルノフ(Chernoff:2002)は「音楽」現象の可塑性と非理性性を述べた。しかし、一過性と同時に再現性・連続性も議論されなければならない。「ラム」で例えるなら「ラム」の演奏という一過性と、「ラム」というコンセプトの再現性である。この「音楽」現象の一過性と再現性・連続性をキーワードに「ラム」の実態を考察したのが第二部である。第二部では、①資料や先行研究からのラオス史における「ラム」の考察、②実際に見聞きした「ラム」の分析考察、③歌詞内容の分析考察、④「ラム」の担い手であるモーラムとの聞き取りによる「ラム」認識の考察を行なった。
 発表では第二部を中心にとりあげた。①では、隣国タイや強国フランス、アメリカの支配に翻弄されたラオス史の中で「ラムを歌うこと」が「ラオ人」「ラオス国」のアイデンティティの大きな要素であったことが把握できた。同時に、「ラム」が政治的に利用されやすい、つまり人々へ伝えやすいという特性をもつことが確認できた。この「ラム」が歴史的にもってきた政治性はラム概念の再現性・連続性として把握できる。②では、合奏伴奏のはじまり方や太鼓のリズム、歌のはじまり方などにゆるやかな共通性がみられたものの、歌い手や音楽グループが異なれば音楽的特徴なども異なってくるため、異なるコンテクストにおける「ラム」の一過性として捉えることができた。③では、古くから伝えられた暗喩を含んだ複雑な知識深い歌詞がある一方、いわば「踊るための」歌詞という二極の様相がみられた。共通している点を挙げれば「ラム」が歌われると人が集まり、その詩や踊りを楽しむ点である。歌唱内容の一過性と、人が集まり楽しくなるという連続性・再現性として捉えた。④では、伝承者、習得方法、演奏機会、モーラムの評価などについて共通するパターンが把握できた。一番印象的であったのはモーラムの「ラムは昔も今も変わっていない」という「ラム」認識であった。
 発表では、「音楽」現象の一過性、連続性・再現性という視点のもと「ラム」の実態を多角的に捉えた。「音楽」現象をどう捉えるべきかについてはまだ議論を深める必要がある。博士論文では、「ラム」にこだわり、その実態を描くことに努めた。しかし、ラオス文化自体研究が少なく、疑問点も多いので、引き続き研究を行っていきたい。


3 清野則正(名古屋市立大学大学院芸術工学研究科)

  コラボレーション・アートの制作空間におけるインタラクティビティ

  ー愛知県文化情報センター自主企画事業の制作事例をもとにー

コラボレーション・アートは、複合文化施設としての行政的活用と、アーティストの表現要求としての2つの側面が存在する。たとえば愛知県では、愛知芸術文化センターの複合文化施設という特性を活かしたコラボレーション・アートが実践され続けているが、これは芸術的なジャンル越境というよりも行政的な複合文化施設のため行政的活用に基盤をおいていると考えられ、越境のための芸術的要求と行政的な制作傾向の間には、しばしば齟齬が見られた。
 日本の文化政策の状況を概観すると、国と地方自治体では同じ文化行政でも、行政の対象としての「文化」に差異があることが指摘できる。次に現在ヨーロッパで進行している「文化政策の転換」を整理すると、「文化」と「政策」は変化が見て取れる。こうした欧米の文化施策を背景に、今後の文化政策のあり方について伊藤裕夫は2004年に、「アート・フォー・オール(万人のための芸術)」、「プライバタイゼーション(民営化)」、「クリエイティブ(創造)」という3つのキーワードを挙げている。
 コラボレーション・アートの表現形式と地域性について、複合文化施設である愛知芸術文化センターの中でも多くのコラボレーション・アートを制作・実践している「愛知県文化情報センター」を取り上げ、愛知県文化情報センターのコラボレーション・アートをはじめとする自主企画事業を、内容の変遷や理念などに基づいて整理し、愛知県という地域におけるコラボレーション・アートのあり方を概観する。
 次にコラボレーション・アートは美学的にどのように規定できるのかについて、媒介作用を中心に考察する。幾人かのアーティストが同一のテーマやコンセプトを通して、ある種拡散している芸術表現の内側において各表現形式を収束させ、コラボレーションを成立させると考えるのであれば、「多数のアーティスト→作品→鑑賞者、受容者」という、今までの個人のアーティストの作品を前にしての鑑賞と、受容という絶対的な前提が崩れ、作品が成立するその前の各芸術的表現のみならず各アーティストたちの関係性が顕在化する地点がコラボレーションなのではないかと仮定できる。コラボレーション・アート、もしくは「一つの作品」として存在する空間の諸芸術の表現形式の関係性を分解、再構築することにより、コラボレーションの関係性が明確になるということである。
 本発表は、愛知県という地域性がもたらした特徴的なコラボレーション・アートを行政的/芸術的両面から考察する、より大きな研究の一部である。研究全体は、芸術表現形式であるコラボレーション・アートの創造的制作における多元的な相互作用空間を、愛知県文化情報センターの事例と照合して考察するものであり、創造プロセスにおける媒介機能のプロトコルを導出しようとするものである。


4 山田 純(名古屋芸術大学)

  指定管理社制度と諸問題

1 指定管理者制度とは
 平成15年9月2日、地方自治法の一部を改正する法律が施行され、公の施設の管理に関する従来の「管理委託制度」が改正され、新たに「指定管理者制度」が創設された。
 これまでの管理委託制度において、地方自治体が公の施設の管理を委託できるのは、公共団体や公共的団体及び自治体が出資する第三セクターなどに限定されていた。また、管理受託者は、委託契約に基づき具体的な管理の事務や業務を執行することができるが、管理の権限と責任は引き続き設置者である地方公共団体が有しており、施設の使用許可など処分(取り扱いを決めて物事の決まりや処理を行う)に該当する業務は委託できなかった。
 一方、指定管理者制度のもとでは、地方自治体が指定した「指定管理者」に、使用許可を含む施設の管理を行わせることができる。また、指定管理者の範囲については法律上の制約がないため、民間企業やNPOなどを含む法人その他の団体が、指定管理者として公の施設の管理を行うことも可能となった。
2 指定管理者制度の要点とメリット 
●要点
・コスト削減をねらった規制改革の一環である。
・多様化する住民の要求、より効果的、効率的に対応するため、公の施設の管理に民間の能力を活用する。
・バブルの時期に作り過ぎた「箱物」の管理を民間に託したもの。
●メリット
・施設の効率的管理による経費削減効果がある。(行政側)
・事業の機会均等が図られる。(事業者側)
・公共施設のサービスが向上する。(住民側)
3 愛知県の主要公共的施設と管理形態
 平成20年度の公立文化施設協会、通称公文協の資料を見ると、愛知県にある95の公立施設のうち、直営で行っているところが31施設で、約32パーセント、指定管理者制度を導入しているところが62施設で、約65パーセント、その他が2施設ある。全国2191施設では、直営が1129で、半分を超えている。直営以外の運営形態で経済的効率のみを追求すると問題がでてくる。結局、事業を行わない貸し館主体の施設管理だけになる恐れがあるからである。
①愛知県女性総合センター  指定管理者 CSPウィルあいち
②長久手町文化の家  直営
③幸田町民会館  指定管理者 幸田町文化振興協会
④小牧市市民会館  指定管理者 小牧施設活用協会
⑤愛知芸術文化センター 直営
⑦尾張旭市文化会館  指定管理者 構成団体代表 愛知県舞台運営事業協同組合 
(NHKプラネット中部/サンデーフォークフロント/旭興業株式会社)
⑧刈谷勤労福祉会館(廃止) 指定管理者 財団法人愛知県労働協会
⑨名古屋市の各文化小劇場 指定管理者 名古屋市文化振興事業団
⑩名古屋港水族館  指定管理者 名古屋みなと振興財団
⑪三重県文化会館 指定管理者 財団法人三重県文化振興事業団
⑫武豊町民会館    直営
4 その他の公共施設と管理形態
①石川県立音楽堂   指定管理者 石川県音楽文化振興事業団(指名)
②びわ湖ホール   指定管理者 財団法人びわ湖ホール(非公募)
③東京文化会館   指定管理者 東京都歴史文化財団グループ
              (東京歴史文化財団/NHKアート/サントリーパブリシティ・サービス)
④神奈川県民ホール   指定管理者 神奈川県芸術文化財団
5 指定管理者制度に関する様々な(反対)意見
(1)日本音楽マネジメント学会(2008年11月)
・5年間の指定期間で協定した管理料総額が減額される。→財団が経営努力して得た利益の分が管理料から減額されてしまう。つまり経営努力をすればするほど、収入が減ってしまう。
・して管理期間が5年間のため、オペラ制作など長期にわたっての自主制作が困難。
・職員の雇用が不安定で長期雇用を前提とした人材確保ができない。
・人材育成を行うための人材の余裕や予算的にも困難になってきている。
・施設の老朽化に伴って県との協定で定められている100万円以上の工事が増えている。
・地方自治法が変わらない限り、民間活力を利用した効率運営目指すという流れは変わらないであろう。
・民間の企業はそもそも「利益を上げ株主に還元する」ことを目的としている。長期的に文化芸術環境を育て、根付かせるという劇場や公立文化施設にはそぐわない制度。→制度的な抜本的な見直しが必要。
・指定管理の期間延長や継続的な指定管理者の指名を行わないと、制度的な破綻が来ることも予想される。
 (2)世界劇場会議名古屋(2009年2月)
・貸し館だけのファシリティーの部分だけだったら、一定程度の規模の企業体なら比較的どこでもできる。その仕事をルーティン化してしまえば何でもない。しかし、専門性が必要とされるようなインスティテュートには指定管理者は馴染まない。
・比較的小規模な施設、あるいは図書館や博物館などは、施設の市民化、社会化という点で文化NPOが指定管理者として活躍できる。しかし、専門性の高い文化ホールではNPOが運営することは不可能だ。
・文化ホールや劇場をアートNPOに任せるのは残酷だ。荷が重すぎるはず。
・アメリカはNPOがホールを運営しているところが多いが、ヴォランティアNPOではなく、「ノン・プロフィット」という企業だ。
・指定管理者の文化ホールに関する5年という選定期間は残酷な短さだ。初年度は赤字覚悟で人的投資をする、研修もする、技術開発もする、備品は什器に至まで持ち込む。二年目でちょっと回復する、三年目で損益分岐点、四年目で収益があがり、五年目でやっとトントン。さあ次だと思ったら、もうご苦労さん。
・文化ホールは地域の文化に根ざして闘う施設だから、最低十年の管理期間は必要だ。
・指定管理者制度にすると安く請け負うところが出てくる。でも人件費を減らしているにすぎない。
・障害者を対象としたアートのアクセスプログラムや、滅びかかった伝統芸能の復活プログラムは、絶対に儲からない。だから財政的なグロスのコストだけで指定管理者を判断すべきではない。
・指定管理者制度になって、劇場が持っていた華やか感や、わくわく感が経済効率のために削がれた。
・指定管理者制度ができてから施設が悪くなった。民間に任せた結果、本当に安くなったわけではなく、人件費だけ減らされて、もうけは会社に行く。儲からなければ辞めてしまう。
・単なるファシリティーと人的、組織的、機能込みの施設であるインスティテュートとを区別すべきなのに、これを一緒に指定管理者の対象にしていることが問題だ。
・特に財団などを指定団体にしている場合、「よくがんばって赤字を減らしてくれた。おかげでお宅(財団)に渡す委託料と補助金を減らすことが出来る」と、どんどん契約金額が減っていく。頑張れば頑張るほど入ってくるお金が減る。
・発注者側の首長と受注者側の代表が同一人物であることがある。民間との同等の競争が削がれる。
(3)愛知県舞台運営事業協同組合 第11回愛知県舞台技術者セミナー(2007)
・民間企業も公共施設の運営に参加することが可能になった。表だっては住民サービスの向上、行政コストの削減、つまり経費を削減して、サービスの質を高めるために競争原理の導入という方法がとられたただし、果たして思惑通りに運営できるかは疑問である。最終的には、行政側の文化に対する理解度、考え方が問われることである。
・「貸し館で年間利用を一杯にすればよい」という安易な考え方だったら何も問題はない。元来、文化事業というものは一般に考える収益性は非常に難しい。文化事業としてやるか、単なる施設・貸し館として成り立たせるのか、分岐点になる。
・公立文化施設の果たす本来の役割、使命とは、民間では出来にくいこと、収益性を離れて市民の文化水準を高く維持することが基本だ。是非、質の高い、楽しいものをやってほしい。市民の方が、それに親しんでもらうように、施設に足を向けてもらうような状況を作ってほしい。公立の文化施設は、文化水準の高さの象徴として、外国のように、劇場・ホールが町の誇りであって欲しい。単なる貸し館ではあまりに寂しい。
6 最後に
 指定管理者制度が含む問題は、概念化して考えればそれほど難しいものではない。しかしどこかに絶対的なクリテリアがあるわけではなく、どの側から眺めどの視点に立つのかでその評価は変わり、その意味ではきわめて相対的な問題であり、従って賛否両論があってしかるべきである。
 もともと、指定管理者制度は、地方自治体が行ってきた公共の施設の管理を民間企業やNPOなどの団体に任せるものである。基本的には、民間の手法を用いることにより運営が効率化され、また利用者のサービスが向上するなど良い面を含んでいる。しかし、必ずしも経済効果のみを追求すべきではない施設があることも確かだ。教育施設や弱者のための支援施設、あるいは劇場・ホールのような専門性を持った施設は指定期間のあることそのものがなじまない。特に芸術の価値は経済的な原理だけで推し量ることはできず、自治体が主導権を握って確固たる信念のもとに振興を図らなければそもそも芸術は衰退していってしまうだろう。その意味で、指定管理者制度の利点を生かしつつ、指定期間の延長を含む見直しが必要だと考える。